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管理人が無責任に好き勝手なことを書き散らかすコーナーです。おもにタワゴトと暴言で構成されています。 |
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堀辰雄との(一方的な) 宮崎駿監督映画「風立ちぬ」について…管理人の情緒が不安定のため、なぜか2種類のレビュー(感想文)ができあがりました。↓ 「波風立ちぬ」〜「風立ちぬ」レビューのための長い長い前フリ (感想文というより感想文を書くための自分向けの映画総括。いち堀辰雄ファンとしての葛藤、ツッコミ、ぼやき、グチ、寝言など。 んなもん読みたくねえという人はすっとばして下記の「美しかれ、悲しかれ」のほうのみお読みください) 「美しかれ、悲しかれ」 (とりあえず客観的視点で書こうと試みて、やっぱりよくわからなくなった「風立ちぬ」感想文) |
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![]() 堀辰雄全集「来簡集」(筑摩書房)を参考にしました |
トップページでも地味にパロってるから、何はともあれ紹介しておきます。大正12年11月18日(筑摩書房全集によればこの日付。しかし10月18日とする資料もある。どっちだ!)、芥川龍之介が堀辰雄に宛てた最初の手紙です。 冠省 原稿用紙で失礼します 詩二篇拝見しました あなたの芸術的心境はよくわかります 或はあなたと会っただけではわからぬもの迄わかったかも知れません あなたの捉へ得たものをはなさずに、そのまゝずんずんお進みなさい (但しわたしは詩人ぢゃありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります。ですからわたしの言を信用しろとは云ひません。信用するしないはあなたの自由です)あなたの詩は殊に街角はあなたの捉へ得たものの或確実さを示してゐるかと思ひます その為にわたしは安心してあなたと芸術の話の出来る気がしました つまり詩をお送りになったことはあなたの為よりもわたしの為に非常に都合がよかったのです 実はあなたの外にもう一人、室生君の所へ来る人がこの間わたしを訪問しました しかしわたしはその人のために何もして上げられぬ事を発見しただけでした あなたのその人と趣を異にしてゐたのはわたしの為に愉快です あなたの為にも愉快であれば更に結構だと思ひます 以上とりあへず御返事までにしたためました しかしわたしへ手紙をよこせば必ず返事をよこすものと思っちゃいけません 寧ろ大抵よこさぬものと思って下さい わたしは自ら呆れるほど筆無精に生れついてゐるのですから どうか今後返事を出さぬことがあっても怒らないやうにして下さい 十一月十八日 芥川龍之介 堀辰雄様 二伸 なほわたしの書架にある本で読みたい本があれば御使ひなさい その外遠慮しちゃいけません 又わたしに遠慮を要求してもいけません 堀辰雄は当時まだ無名、というかただの19歳の高校生。対する芥川龍之介は文壇の若き王様。ただの高校生が送ってきた詩の感想なんて、うんまあ悪くないんじゃないの、知らんけど、ぐらいで十分のはず。それだけで誰もが舞い上がる。しかし龍之介はこの高校生に全力で応えました。「あなたと会っただけではわからぬもの迄わかった」「安心してあなたと芸術の話の出来る気がしました」舞い上がってるのは龍之介のほうです。「ずんずんお進みなさい」というフレーズは、まだ学生だった芥川が師・夏目漱石から送られた激励の言葉。芥川は同じ言葉を若い堀に与えることでかつての自分の初々しい感激を思い出し、また師という立場から、かつての漱石の喜びをも味わったのかもしれない。しかし漱石が文壇の長として芥川の登場を歓迎したのとくらべると、芥川はよりプライベートな感じで喜んでる。この出会いが「わたしの為に」喜ばしいことだと重ねてアピールした上、犀星の門下生の誰だかを引き合いに出し、あっちはダメだけど君はよし、みたいなあざとい比較までして堀をおだててる。そして、手紙のやりとりより直接会いに来るよう仕向けてる。「わたしの書架にある本で読みたい本があれば御使いなさい」こんな手紙もらって、本も好きに読めとか言われて、文学青年が釣られないはずがない。案の定、堀辰雄はこの後芥川のところにいそいそと通うようになります。おもてむきの性格は正反対、でも根っこの気質が非常に似ていて、複雑な生い立ちや進学コースまでふしぎに重なるこのひとまわり差の辰年師弟は、出会いの最初から互いに非常に魅かれ合うものがあったようです。 次は最初の手紙から一年と9か月が経った大正14年7月20日、軽井沢つるや旅館滞在中の堀辰雄に宛てたもの。 冠省。原稿用紙で失敬。この前君が小説を見せた時、「ハイカラなものならば書き易いんだけれど」と言った。それに僕は「そんならハイカラなものを書くさ」と言った。しかし今考へて見ると、そのハイカラなものと言ふのが写生的なものの反対ならばやはりどんなに苦しくってもハイカラなものを書くよりも写生的なものを書くべきだと思ふ。その方が君の成長にずっと為になると思ふ。これは大事なことだから、ちょっと君に手紙を書くことにした。この前君の見せた小説でもハイカラは可成ハイカラだ。あれ以上ハイカラそのものを目的にするのは君の修業の上には危険だと言ふ気がする。君はどう思ふ?とりあへず前言とり消しまでに。 二十日夜 龍 堀君 いやこんなことぐらいべつに次会った時話せばいいのに、と思ってしまうけど、芥川の性格がよく現れていておもしろい。後輩に対するきまじめな責任感と、「君はどう思ふ?」とワンクッション置いて一方的な押し付けにならないようにする気配り。本当に細やかで気ぃ遣いのいい人柄がしのばれます。文面はわりとグダグダで、ふたりが打ち解けた関係になってきているのがよくわかります。 次は大正15年3月19日、いつもの原稿用紙で失敬ではなく便箋です。 お父さんにそんな事はしないでもよいのだと言ってくれ給へ 長命寺の桜もちのいつの間にか餡のよくなつてゐるのに驚いた 世の中は三日見ぬまに桜もちといふ気がした 僕は俗用の為今月は何も書けず不愉快この上なし 頓首 十九日 堀辰ちゃんこ様 龍 堀辰雄から送られた「長命寺の桜もち」(足繁く芥川邸を訪れる辰ちゃんこにお父さんが持たせた手土産か?)への御礼と思われる。それにしてもこんななんでもない短い手紙にすら「世の中は三日見ぬまに桜もち」とか何とかうまいこと書かなきゃと思っちゃう芥川の涙ぐましいサービス精神には恐れ入る。常軌を逸した気ぃ遣い。そら死ぬわ。そのくせ「今月は何も書けず不愉快この上なし」とか愚痴ってるあたり、年少の辰ちゃんこへの気安さが感じられてほほえましい。 対する辰ちゃんこから芥川への手紙は、…えっ!ない?一通も?またまたそんな、ないはずないって。でもない。あったのかもしれないけど残ってない。あるいは公表されてない。芥川の没後、堀辰雄は芥川全集出版のため頻繁に芥川の書斎に出入りしていて、自分の手紙をこっそり回収できる立場にはあったわけだが…でもそんなことする必要ないよね…べつに何か見られるとヤバイへんなやりとりしてたわけでもあるまいし。(と書いてて急に不安になった)思えば芥川からの手紙が上記の三通だけというのもなんか少ない気がする。筆無精といいながらかなりどうでもいい内容でいちいち手紙出してる人だし。まあこの三通だけでも師弟関係を知るのにいいサンプルにはなっているけれども。なんにせよ作家の書簡って忘れたころに発見されることが多いから、この師弟の知られざる手紙が何かの拍子にぽろっと見つかったらおもしろいのに。でも本当にヤバイへんなやりとりしてたらどうしよう。 |
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宮崎駿監督の来夏公開新作が発表されました。「風立ちぬ」。うおおおおっ!やってくれるんですかっまじで!!! 宮崎駿の「風立ちぬ」…それは2009〜10年にかけて「モデルグラフィックス」(ミリオタ御用達の模型雑誌)に連載された水彩漫画。零戦設計士として名高い堀越二郎氏の仕事ぶりが描かれています。そこへフィクションとして、結核を患う美少女との恋愛が織り交ぜられてます。つまり堀辰雄の小説「風立ちぬ」からタイトルとヒロインだけ拝借してきた宮崎駿流「堀越二郎伝」という感じ。ちなみにこの漫画は登場人物のほとんどが豚キャラで描かれていて、ゲストとして1ページのみ登場した堀辰雄は唯一のわんこキャラ。映画では皆人間になってる…はず。 何はともあれ、発表された公式ポスターにまず私は心奪われてしまいました。草原で絵を描く少女の凛とした立ち姿。これはまさしく堀辰雄「風立ちぬ」プロローグを思わせる名シーン!空の青、草の青、そして美少女。この構図こそは宮崎駿の真骨頂!いやがうえにも高まる期待っ!さらにはキャッチコピー。「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して。いざ 生きめやも」映画も見ないうちからこのポスターだけでもう感動のあまりお腹いっぱいになってしまいました。 一抹の不安はないでもない。「風立ちぬ」について「何度読んでも理解できない」という宮崎駿のコメントをみたこともあるし。なにより宮崎駿は原作クラッシャーである。そもそも零戦が出てくる時点で、小説「風立ちぬ」なんて、原作どころか原案ですらないし。堀作品に敬意を表しつつ、監督の考える、より望ましくより魅力的な世界が新たに組み立てられるのだと思う。個人的には監督の描く飛行機も好きなので二重に楽しみ。でもヒロインだけは全力で可愛く描いてね。まあこれは心配しなくても大丈夫か…堀文学ヒロインと宮崎アニメはきっと相性がいいと思う。 惜しむらくは、もう何年か早くこの映画が公開されていたら、今年から解体が始まってしまった富士見療養所の建物が、映画舞台の観光名所としてもう少しは存続できたかも…ということ。また堀辰雄の奥様の多恵子さん(2010年4月没)がご存命だったらこの映画化をさぞ喜ばれただろうに…ということ。過去に制作された映画「風立ちぬ」は複数あるけどどれもこれもなんじゃこりゃと叫びたくなるような、それはそれはキテレツな出来だったようだし。同じ原作クラッシュでも、宮崎駿の手にかかればそれは新たな命を吹き込まれ、人々の胸を打つだろう。古き良き日本の姿とともに忘れられかけている堀辰雄の名も、くたびれた現代人の心に思いがけない湧水のような新鮮さでふたたび認識されるだろう。 前フリはさておき。(長い前フリだな)この映画のキャッチコピー「いざ 生きめやも」。「風立ちぬ」プロローグで引用されているフランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩の一節であり「風立ちぬ」を象徴する美しいフレーズ、なのだけど、これは誤訳ではないのかとずっとずっと言われ続けて幾星霜。それをキャッチコピーに使われるのは、うれしいんだけどちょっと複雑。堀ファンとしてはこれがまたぞろ槍玉に挙げられて、知ったか連中が「誤訳!誤訳!」とはしゃぐのが耐えられない。 「〜やも」は反語なので、「さあ生きよう」と訳すべきところが、「生きられるだろうか、いや、生きられないだろうな」みたいな意味になっちゃうのです。帝大の国文科に所属し、そのくせ仏文科の授業に入りびたって仏文科の生徒よりフランス語が堪能で、さらに国文学者折口信夫に親しんだ人が、そんな初歩的なミスをするものなのか。本当にまちがえてたんならさっさと訂正してるはずじゃないのか。堀辰雄はまちがえたのではなく、わかっていてあえてこの言葉を選んだ、と私は思う。言葉の意味より言葉の響き、いわゆる語感を優先したのでは、という説もある。「風立ちぬ」に続く「いざ 生きめやも」は、典雅な響きのなかに、たしかにきりりと背筋を伸ばした決意の心情が感じ取れる。 そもそも言葉は生き物、変化する。古代から使われている言葉でも、今と当時ではまるで正反対のニュアンスを持つものもある。たとえば「愛しい」はもとは「かなし(悲し/哀し)」と読まれた。また「いとしい」という読みについては、「厭し(いとし)」からきているともいう。愛することは苦しいこと。哀しくなるし、厭にもなる。それでも愛する。「いとし」に込められたそんな二律背反の響きは、古今東西人類共通の心の機微。「いざ 生きめやも」もまた然り。生きることへの否定も肯定も抱き込んだことによって、この古語には「それでも生きよう」という前向きの言霊が宿った。当の堀辰雄が、自身の生きざまでもってそれを証明した。そういうことでいいんじゃないでしょうか。如何様にも含みを持たせられるのが言葉というものの本来の魅力なのだし。そうしましょうよ、もういっそ。「いざ 生きめやも」はまごうかたなき希望の言葉。天下のジブリがコピーに使ったんだからそういうことで決まり。ケチつけるのとかはなし! 余談だけど宮崎監督には「芥川龍之介の探偵もの」やりたい、という希望もあったそうなので、そっちもほんのちょっと期待してた。風立ちぬと芥川探偵、どっちに転んでも私が喜ぶ。ちなみに「崖の上のポニョ」は夏目漱石にインスパイアされた作品だという。監督!こうなったらもう夏目漱石―芥川龍之介―堀辰雄(+立原道造)の「文学師弟」ラインをオール制覇してください。龍之介のはジブリ美術館用の短編とかでもいいから!そのかわり!BD(DVD)だけは出して…。(←先走りすぎ) さらに余談、「風立ちぬ」と同時に高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」も公開予定という。かぐや姫こそファンタジーの名手宮崎駿が扱うべき題材のような気がするけど、そこをあえての高畑監督。高畑勲は優良な原作の魅力を最大限に引き出せる監督なので、映画「火垂るの墓」をはじめ世界名作シリーズ「ハイジ」「赤毛のアン」や「じゃりン子チエ」といった名作は数多い。その一方、独自アレンジの「となりの山田君」は興行的にえらいことになり、そこそこヒットした「おもひでぽろぽろ」も人気作かと言われれば、うーん…だし。完全オリジナルの「平成狸合戦ぽんぽこ」は全体的にはおもしろいけど、なんかところどころイラッとする。このイラッの原因は、いわゆる説教くささ。映画というツールを使って大衆を啓蒙したい、思想信条を披露したいという姿勢が露骨で、そこで私は少なからず参ってしまう。宮崎監督にも他の監督にもそういう要素はもちろんあるけど、この理詰めのインテリ監督にはそれがとくに顕著で、映画としてのおもしろさよりもそれを優先させた結果、「なんかおもしろくないほうのジブリ」というイメージがついてしまってる。(まあこれはジブリの非・宮崎作品のすべてに言えることだけど。「ゲ○戦記」とか、もう…) その高畑監督が、かぐや姫をどんな作品に仕上げるのか。「昔の物語をそのまま描かない」「かぐや姫はわがまま娘=現代の娘」なんてインタビューを見る限り、悪いけどイヤな予感しかしないんだけど…。「わがまま娘」ってのがまた男の目線だなあ。姫の言い分もあるだろうに。自分の美貌を喜ばず自分を愛せず恋にも心を閉ざす娘。そこにはきっと誰にも言えない、誰にもわかってもらえない孤独と悲しみがある。その繊細な心理を「わがまま」で片づけられちゃなあ。しかもかぐや姫を通して現代の娘を描くって。現代社会の風刺に古典を持ってくる芥川龍之介方式ですか。アンの気持がさっぱり理解できないからと下手な解釈をせずひたすら原作に寄り添ってつくった結果人気作となった「赤毛のアン」などは、みずから無心になって素材のほうに身を寄せていく堀辰雄方式で、高畑監督にはこっちのほうが向いていると思うんだけど。「愚民に物申したい」「自分カラーを出したい」がゆえの原作アレンジほどあぶないものはない。うまくハマればおもしろいけど失敗すれば単なるひとりよがり。さむい。ひたすら癇に障るだけ。(その最たる失敗例がジブリの黒歴史「ゲ○戦記」)宮崎駿のほうは基本「おもしろく見せたい」がゆえのアレンジ(というかクラッシュ)だから楽しいんだけど。でも、引退がささやかれるような高齢で、非・ファンタジーという今までにないジャンルに挑戦する宮崎駿、ファンタジーという不向きな素材を手掛ける高畑勲、どちらもこれはたいへんな冒険。批判を恐れ若いうちから守りの姿勢に入ってしまっているいまの青少年たちも、この不敵なバイタリティに触発されてほしいものです。 なんにしてもまだ予告映像すら見てないものを今からとやかく言っても始まりません。でもとやかく言いたくなるほど待ちきれないんですよ!楽しみなんです。そしてひそかに来年夏の文庫本フェアにも期待を寄せてます。さあ新潮!角川!集英社!その他もろもろ出版社!(←失礼だろ)アップをはじめてください。とりあえず新潮は「新潮文庫の100冊」ラインナップに「風立ちぬ」を復活させるべし。角川は創始者角川源義の志を思い出しこんな時代だからこそ堀辰雄をプッシュすべし。そして私はちょっと落ち着け。宮崎駿の「風立ちぬ」は映画化する、きっとする。こんな願い(妄想)を込めた言霊が、このたびズバリめでたく的中したからって。 |
※補足…年が明けて2013年春、キャッチコピーは「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて。生きねば。」に替わりました。「いざ生きめやも」が「生きねば」と訳されたことになるのかな?「生きねば」は、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」(漫画版)のクライマックスを締める大事な言葉でもあり、ぴったりなコピーの気もする、けどもうちょいひねってほしかった気もする。そして、やはりというか「かぐや姫の物語」のほうは公開延期(秋以降)になりました… |
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