辰ちゃんことゆかいな仲間たち 
“辰ちゃんこ”こと堀辰雄とその関係者を紹介するページです。
基本的に文学関係者を集めてますが、一般人もしれっと混ぜ込んで、50音順にならべてます。
(文学・芸術関係者は、一般人はでいちおう区別してます)


 堀辰雄
芥川龍之介/伊藤整/稲垣足穂/井伏鱒二/内海妙/遠藤周作/小穴隆一/折口信夫/恩地孝四郎
片山広子/加藤周一/加藤道夫/角川源義/上條松吉/川端康成/菊池寛/葛巻義敏/窪川鶴次郎/小林秀雄/
斉藤茂吉/佐多稲子/佐藤春夫/志賀直哉/神西清/
竹中郁
/太宰治/立原道造/谷崎潤一郎/津村信夫/
永井龍男/中里恒子/中野重治/中原中也/中村真一郎/西村志気/日塔聰/野村英夫/
萩原朔太郎/林芙美子/深沢紅子/深田久弥/福永武彦/舟橋聖一/堀多恵子/堀浜之助/
丸岡明/丸山薫/三島由紀夫/三好達治/室生犀星/森達郎/
矢内原伊作/矢野綾子/山室静/横光利一/

※敬称略
※基本的に「ゆかいな」仲間を集めてますが、若干そうでもない人たちもまざっちゃってるかも

 堀辰雄
ほり・たつお
小説家
1904−1953/明治37.12.28−昭和28.5.28 満48歳(肺結核)
出身地:東京麹町区平河町
代表作:小説「風立ちぬ」/紀行文「大和路・信濃路」/詩誌「四季」編纂
文学ポジション:昭和初期に活躍した小説家。「生・死・愛」をテーマにした静謐な抒情小説や随筆は戦中・戦後の荒廃した人々の心に深く沁み入り人気を博した。
人生ダイジェスト:広島藩の士族出身の堀浜之助と東京下町の娘・西村志気の間に生まれる。浜之助の妻コウに子がなかったため嫡子として母志気ともども「立派な門構えの」堀家に暮らしていたが、辰雄2歳の時、志気が辰雄を連れて堀家を出、下町の彫金師・上條松吉に嫁ぐ。その後も志気は辰雄に「堀」姓を名乗らせていたが、堀家から辰雄を取り戻そうと使いの者が来ても頑として応じなかった。幼い辰雄は自分だけ名字が違うことに戸惑っていたが、義父松吉が辰雄を実の子同然に可愛がったため、自らの複雑な生い立ちを詮索することも思い悩むこともなく成長する。成績優秀だった辰雄は府立第三中学校から第一高等学校、東京帝国大学国文学科というエリートコースを進む。当初は理系を志望していたが、高校在学中に無二の友となる神西清と出会い、また大正12年5月に室生犀星を紹介され、文学の道へと進む。同年9月1日関東大震災、自宅は焼失し母志気が死去。この後ほどなく犀星により芥川龍之介と引き合わされる。同年末に肋膜炎に罹り一時休学。大正15年、中野重治らと同人誌「驢馬」創刊、注目を浴びる。しかし翌年昭和2年7月、龍之介自殺。辰雄の心に深い傷を残す。この年末、ふたたび胸を病み死に瀕する。昭和5年、龍之介の死をテーマにした「聖家族」を脱稿した直後にまた喀血、病臥。この作品は高く評価され文壇に認められるものの、誹謗中傷を浴びたり小説のモデルとなった片山広子・総子母娘との関係がこじれたりと傷つくことも多く、龍之介の死からこの頃までは辰雄にとって思い出したくない黒い時代となる。昭和8年夏、軽井沢で「向日葵のような」無垢で美しい少女・矢野綾子と出会い、ようやく傷ついた心が癒える。しかし彼女も胸を病んでおり、病状を悪化させ、昭和10年末に死去。彼女と一緒に過ごした療養所での体験をもとに「風立ちぬ」を執筆する。また弟分のような立原道造も結核で死去、誰よりも死に近いはずの辰雄が自分より若い者たちを次々と見送ることになる。西欧文学の影響を多く受けていた彼はレクイエムとしての己の文学をさらに追求するため日本の古い美しさに目を向けるようになり、歌人であり国文学者の折口信夫の知遇を得る。昭和13年加藤多恵と結婚、ここから数年間は体調も良く、日本の神々と仏教をテーマにした古代小説の着想を得るべく奈良や京都に何度も旅するが、小説が完成することはなかった。しかしかわりに「大和路・信濃路」という珠玉の随筆が世に出る。信濃追分の地をこよなく愛し、戦後は病が悪化しその地でほぼ寝たきりの生活となる。「僕は病気のおかげで得をしてきたのだ」自分の置かれた世界を最上のものとし、そこから喜びを見いだしていくという辰雄は、病さえも友にした。その終生の友とともに旅立ったのは、昭和28年5月28日午前1時40分のこと。大量の喀血ののち、愛する妻・多恵子夫人に看取られながら永眠する。
キャラ:地味系メガネ男子と思いきや、幼少期から晩年に至るまで、出会ったほぼすべての人(老若男女問わず)に「美少年」「美青年」「美男子」と言われてる。唯一「私は全然そうは思わない」と言ったのが奥様(多恵子夫人)だけというのがおかしい。肌が白く、頬は薔薇色。エクボがかわいい。いつもニコニコ、やさしい笑顔。黙ってそこにいるだけで場を和ませる。しかしまれに毒が出る。万事にひかえめで気ぃ遣いだが、芯は強い。ある意味頑固。こうと決めたら右にも左にも断じてブレない。蛇と歯医者が大の苦手。本と草花と野鳥が好き。雪が大好き。歩くの大好き。実はけっこう健脚の散歩名人。

 芥川龍之介
あくたがわ・りゅうのすけ
小説家
1892−1927/明治25.3.1−昭和2.7.24 満35歳(服毒自殺)
  出身地:東京市京橋区入船町
代表作:小説「羅生門」「蜘蛛の糸」「歯車」
文学ポジション:大正期に活躍した小説家。芸術至上主義の鬼才であり、巧緻な短編小説を多数執筆。今昔物語など古典に着想を得たものが多い。
人生ダイジェスト:牛乳屋を営む新原敏三の長男として出生、辰年辰月辰日辰の刻に生まれたので「龍之介」と名付けられる。ほどなく母フクが精神に異常をきたしたためフクの実家芥川家に預けられる。11歳の時フク死去、翌年に芥川家の養子となる。龍之介の親権をめぐっては新原家と芥川家が激しく争い、まだ子供の龍之介は裁判にも立ちあわされた。幼少期からずば抜けた秀才だった龍之介は府立第三中学校から無試験で第一高等学校第一部乙類に入学、さらに難関の東京帝国大学文科大学英文学科に入学。在学中に発表した「鼻」が夏目漱石に激賞されて華々しい文壇デビューを飾る。大学卒業後は海軍機関学校で英語教官として勤務したのち大阪毎日新聞社に所属、売れっ子作家として作品を発表し続けるが、大正10年の中国旅行以降体調を崩し、作風も私小説的な苦しげなものに変わってゆく。健康上の悩み以外にも金銭問題、女性スキャンダル、創作の行き詰まり等の諸問題がからみ、昭和2年7月24日未明、大量の睡眠薬を飲んで自殺。社会に大きな波紋を広げた。墓所は巣鴨の慈眼寺、愛用の座布団を模した正方形の墓石に、「芥川龍之介」とのみ刻まれる。戒名は本人が望んでいなかった。便宜上あとからつけられた「懿文院龍之介日崇居士」という戒名は、寺の過去帳にのみ載っている。
堀辰雄との関係:ひとまわり下の同じ辰年生まれ、同じ東京下町育ち、同じ三中・一高・東大のエリートコース。そして複雑な家庭事情。自分とよく似た境遇の辰雄を龍之介は「辰ちゃんこ」と呼んでことさら可愛がった。かしこい・かわいい・気立てよしの三拍子そろった萌えキャラ辰ちゃんこは人生に疲れ果てた晩年の龍之介を大いに癒したと思われる。すでに己の終わりを見つめていた龍之介は、過去より未来により多くのものを秘めている、自分の若い分身のような初々しい辰雄を守り育てることに、わずかな希望を見いだしていたのかもしれない。
キャラ:167cmの(当時としては)長身痩躯、だけど風呂ぎらいで顔もろくすっぽ洗わないのが残念なイケメン。それでもモテまくるのがすごい。皮肉屋、討論好き、才気煥発の颯爽たる文壇の王様。だけど本当は気ぃ遣いの心配性の淋しがり屋。犬がこわい。胃腸が弱い。ショウガと貝はぜったい食べない。貝はともかくショウガは体によさそうなのに。

伊藤整
いとう・せい(本名:ひとし) 
小説家・文芸評論家
1905−1969/明治38.1.16−昭和44.11.15 満64歳(胃癌) 
  出身地:北海道松前郡(小学校教員の長男)
文学ポジション:新心理主義の小説家・文芸評論家。
人生ダイジェスト:旧制小樽中学・小樽高等商業学校に学び、卒業後は小樽中学の英語教師をしつつ貯金し上京、旧制東京商科大学に入学。同じ下宿の梶井基次郎や三好達治と親交を結ぶ。その後大学を中退し金星堂編集部に就職。戦前・戦中は知る人ぞ知る存在だったが戦後から本格的な執筆活動を開始、著名な評論家のひとりとなる。
堀辰雄との関係:北海道時代から同人誌「驢馬」に注目、文壇の王様芥川龍之介に可愛がられる堀辰雄に嫉妬と羨望を抱いていた。初めて会ったのは昭和4年浅草にて。同年、「文芸レビュー」創刊に先だって堀に随筆を依頼している。新心理主義を提言し、文学上は堀辰雄と同じカテゴリーに属しリスペクト発言もそれなりにあるが、同時に「堀がねたましかった」「堀はずるい」的ひがみトークもやたら目につく。悪口ではないにせよ、あんまりしつこいと何なのと思っちゃう。 

 稲垣足穂
いながき・たるほ
小説家
1900−1977/明治33.12.26−昭和52.10.25 満76歳(結腸癌) 
  出身地:大阪市船場(歯科医の次男)
代表作:小説「一千一秒物語」
文学ポジション:ヒコーキと天体と神戸と少年愛を愛するエキセントリック作家。
人生ダイジェスト:小学生の頃、祖父母のいる明石に移り神戸で育つ。関西学院普通部に入学(同級に今東光)。子供の頃から飛行機への憧れが強く、飛行家を目指し発足したばかりの日本飛行機学校に応募するが近視のため不合格。関西学院卒業後神戸で複葉機制作に携わったのち上京、佐藤春夫に弟子入り。新感覚派として作品を次々発表するが、佐藤を「菊池寛のラッパ吹き」と非難し明石に帰郷、伊藤整や石川淳らと親交を結びつつ同人誌等に作品を発表。昭和43年、三島由紀夫の推薦で「少年愛の美学」が第一回日本文学大賞を受賞。ちょっとしたタルホブームが起きる。
堀辰雄との関係: タルホは「驢馬」等に寄稿していたので早くから堀辰雄の名は知っていたはず。芥川龍之介に「一千一秒物語」を認められ昭和2年4月芥川邸を訪れたタルホ(これが最初で最後の面談となる)が堀のことを「あんなものは知れている」と言うと芥川は「いまに良くなるよ」と庇ったという。たしかに良くなり偉くなったかもしれないが、と認めたうえでタルホの堀評は「東京下町の花屋。猫かぶり作家」。ただしこの人は誰に対してもこんな感じ。伊藤整は「北海道好みの植木屋」だし石川淳は「テキヤ」だし三島由紀夫は「悪党」「つくりもの」、川端康成なんか「陰気なキノコ」だし。その一方、同郷の詩人竹中郁に寄せた文章「郁さんのこと」では「堀辰雄の散文と共にすこぶる注目すべき事やとワイは思うとる」「他の者がうっかり真似したら怪我をするさかいにな」と竹中のことともども堀を評価する一文もある。ちなみに堀のほうもタルホ作品のファンだったらしい「二三の作品に就いて」。昭和7年末、神戸旅行に出かけた堀は竹中郁の案内で明石のタルホを訪ね、タルホは「堀はんと一緒に郁さんが来た記念すべき夜」と回想する。このメンバーでどんな会話を交わしたのか…すごく気になる。

 井伏鱒二
いぶせ・ますじ(本名:滿壽二)
小説家
1898−1993/明治31.2.15−平成5.7.10 満95歳
  出身地:広島県安那郡(代々の地主)
代表作:小説「山椒魚」「黒い雨」
文学ポジション:新興芸術派の小説家。直木賞受賞。
堀辰雄との関係: 昭和4年頃「創作月刊」編集担当の永井龍男の紹介で知り合い、以後親しくなって堀の向島新小梅の家を2、3回訪問している。「聖家族」執筆中(昭和5年初秋頃)の憔悴していた堀に「精がつくから」と無花果を食べるようにすすめたり、浅草に出かけていっしょに回転木馬(子供用)に乗って遊んだりと、活発に楽しく交流していたもよう。井伏のほうが6歳年上だが堀から文学上のアドバイス等ももらっていたようで「堀君はいろんな意味で長者(大人)であった」。昭和11年からは堀編纂の詩誌「四季」にも参加。昭和18年11月20日、徳田秋聲の葬儀が青山斎場でおこなわれた際、堀は連れ立って来ていた井伏と太宰治に会う。これが太宰との最初で最後の、井伏とは最後の対面となる。

 内海妙
うつみ・たえ
堀辰雄の幼なじみ・初恋の相手・「麦藁帽子」のモデル
1907−1933/明治40.1.10−昭和8.8.28 満26歳(肺結核)
  出身地:東京小石川城山御殿町
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:明治大学教授で国文学者の内海弘蔵(明大野球部創設者・六大学野球結成に尽力)の三女として生まれる。大正に入って辰雄の家に近い向島に転居。妙の母と辰雄の母志気とは旧知の間柄で、妙の兄の弘(明治33生)、章(明治36生)が辰雄と近い年齢だったため、野球の遊び相手としてしばしば内海家に出入りする。大正10年、辰雄は避暑中の内海家に招かれて千葉県竹岡村を訪れる。この時辰雄は第一高等学校、妙は京華女学校、弘は千葉医科大学、章は第四高等学校に在学中。この夏の出来事が「麦藁帽子」に描かれる。「清く寂しく」「甘栗」のモデルも妙と思われる。妙は昭和7年に結婚、翌8年に一児玲子を残して肺結核で死去。「閑古鳥」「山茶花など」で辰雄は彼女の死についてさりげなく触れている。後年(昭和26年)、妙の遺児・玲子が辰雄に手紙を出し、辰雄も返事を書き「麦藁帽子(限定版)」を贈るというほほえましい後日談がある。翌27年にも玲子の立教女学院の卒業記念に自著を献辞をそえて贈っている。また、辰雄の妻多恵子は、大学時代、この内海妙の実姉・千江(辰雄と同年生まれ)に英文学を学んでいる。
 

 遠藤周作
えんどう・しゅうさく
小説家・エッセイスト・文芸評論家
1923−1996/大正12.3.27−平成8.9.29 満73歳(肺炎)
出身地:東京府北豊島郡西巣鴨町(銀行員の次男)
代表作:小説「白い人」「沈黙」
文学ポジション:芥川賞作家・第三の新人
人生ダイジェスト:幼少期を満州で過ごし、帰国後12歳でカトリックの洗礼を受ける。神戸市六甲小学校を経て灘中学に入学。入学当初は成績優秀だったがだんだんなまけて劣等生に。上智大学予科入学ののち退学、最終学歴は慶応大学文学部仏文科。戦後「白い人」が芥川賞を受賞し、「第三の新人」のひとりとして注目され、欧米からも高い評価を得てノーベル文学賞候補と目されたこともある。芥川賞受賞にちなみ、息子の名を「龍之介」と命名。日本におけるキリスト教をテーマとした小説を多く手掛け、またユーモアあふれるエッセイも人気を博した。
堀辰雄との関係:昭和19年春、慶大学生寮舎監のカトリック哲学者吉満義彦に紹介され、東京成宗の堀家を初めて訪ねる。この出会いが大きな転機となり、なまけものだった遠藤は一転勉学に励むようになる。堀が追分に居を移してからも月に一度は東京から訪ねていき薫陶を受けた。日本と西欧そしてキリスト教という彼の大きなテーマは、堀との出会いでさらに突き詰められてゆく。
キャラ:176pの長身痩躯のおしゃれさん。 

小穴隆一
おあな・りゅういち
洋画家・随筆家・俳人
1894−1966/明治27.11.28−昭和41.4.24 満71歳(急逝肺炎)
 

出身地:北海道函館市
人生ダイジェスト:1919年に芥川龍之介と知り合って以降、彼の著書の装幀のほとんどを担当。また無二の友として家族ぐるみで親しく付き合う。芥川の次男多加志の名は隆一の「隆」に因むもの。(長男比呂志は菊池寛から、三男也寸志は恒藤恭から)芥川に自殺の決意を打ち明けられてからはますます精神的に依存されふりまわされたが、辛抱強く寄り添った。芥川の死後、彼との思い出を綴った「二つの絵」で芥川が私生児だったという説を発表し波紋を呼んだ(研究者らはこの説に否定的)。また芥川の甥葛巻義敏を「家ダニ」と呼び口を極めて罵った。芥川の印税を三分の一も受け取り、芥川の遺品を我がもののように管理していること等が許せないという。たとえ事実だとしても、憎しみの度がすぎるその糾弾は真に受けていいのかどうか戸惑ってしまう。芥川私生児説といい、彼だけしか知り得ない主観的エピソードについてはちょっと用心したほうがいいのかも。
堀辰雄との関係:芥川を介して面識があり、大正14年夏の軽井沢では一緒にいろんなところに出かけている。芥川の死後も堀が小穴に自著を送ったり、小穴も堀との思い出をなつかしんだりして、互いにかわらず好感を抱いていたよう。しかし小穴と葛巻の険悪な関係を堀は知っていたのだろうか。知っていたところで「聡明な沈黙(ノーコメント)」を貫いただろうけど。


 折口信夫
おりくち・しのぶ
(釈迢空/しゃくちょうくう)
国文学者・民俗学者・歌人
1887−1953/明治20.2.11−昭和28.9.3 満66歳(胃癌)
  出身地:大阪府
代表作:歌集「海やまのあひだ」歴史小説「死者の書」
文学ポジション:柳田國男の高弟。「折口学」といわれる独自の民俗学を確立した。詩人・歌人としても著名。
人生ダイジェスト:大阪で生まれ育ち、幼い頃から短歌に親しむ。医学を志していたが文学に転じ、国学院大学国文科を卒業、大阪府立今宮中学校の嘱託教員となる。のち退職して上京、国学院大学・慶應義塾大学の教授となり、民俗学というジャンルの基礎作りに大きく貢献する。また釈迢空のペンネームで独自性の強い詩歌や小説を多く発表した。
堀辰雄との関係:昭和12年、古代日本の美に心魅かれ折口の「古代研究」を座右の書としていた堀は国学院大学の折口の講義に参加、その際に折口の弟子・小谷恒を介して折口と会う。翌13年慶大での源氏物語の講義にも通い、また折口も軽井沢の別荘探しを堀に頼むなどして親交を深めてゆく。ふたりには文学を通して深く心の琴線に触れ合うものがあったのだろう。折口のほうにはそれ以上の感情があったのかもしれないが…。堀のほうも何だか恥ずかしがって、折口が見舞いに来る時には体調が良くても布団にすっぽり臥したままで対面したという。いわれてみれば折口作の「堀君」という詩もけっこうセクハラポエム。でも別に何事もなかったはず。たぶん。折口が萌黄色を「堀さん色」といって愛したというエピソードが私は好き。
キャラ:顔に青いインクのような染みがある。ガチな同性愛者として有名。

恩地孝四郎
おんち・こうしろう
版画家・装幀家・詩人
1891−1955/明治24.7.2−昭和30.6.3 満63歳(心臓衰弱)
 

出身地:東京都南豊島郡淀橋町
文学ポジション:日本における抽象美術の先駆者であり創作版画というジャンルを芸術の域にまで高めた功労者。詩人・写真家の顔も持つマルチクリエイター。装幀家としても幅広く活躍し、友人である北原白秋、萩原朔太郎室生犀星らの著作の装幀も手掛けた。
堀辰雄との関係:昭和12年夏、孝四郎の長女・三保子は信濃追分に滞在していた友人の加藤多恵から「堀(辰雄)さんという良いおじさんがいるから」遊びに来るよう誘われる。この時三保子は父から堀への原稿依頼の手紙を託されて、それに応えて堀が書いたのが、この夏の彼女らとの交流をもとにした「牧歌〜恩地三保子嬢に」。おじさん呼ばわりしていた堀に惹かれていく多恵の気持を三保子は早くから察していて、その翌年多恵が堀に求婚された際には「ぜひお受けになるように」と背を押している。三保子を介して縁ができた堀は多恵子夫人ともども恩地家に立ち寄ることもあり、孝四郎の写真集『博物志』を見せてもらった際に苦手な蛇の写真がババーンと載っててショックのあまり(?)帰宅後熱を出して寝込んだというわりとどうでもいいエピソードもある。


 片山広子
かたやま・ひろこ
(筆名:松村みね子)
翻訳家・歌人
1878−1957/明治11.2.10−昭和32.3.19 満79歳
  出身地:東京
文学ポジション:アイルランド文学翻訳家。佐々木信綱門下の歌人。東洋英和女子大学卒。
堀辰雄との関係:大正13年夏、金沢の室生犀星家に滞在していた堀は、東京に戻る途中、軽井沢で一泊した際に芥川龍之介から片山広子一家を紹介される。芥川は年上の聡明な未亡人広子に恋慕を抱き、広子も芥川に強く惹かれた。東京に戻ってからも何度かふたりで食事や観劇に出かけている。しかし広子の意外にガツガツしたアプローチが芥川の心を冷めさせたのかあるいは怯えさせたのか、芥川は「越びと」という抒情詩を書き、この恋をあくまでも観念的なものとして終わらせた。翌14年夏には片山一家が引き揚げるのとほぼ入れ替わりになるように軽井沢を訪れている。堀のほうは広子の息子達吉(筆名:吉村鉄太郎)や娘総子(筆名:宗瑛)らと親しくなり、軽井沢以外でも交流が続いた。昭和2年6月末、死のひと月前、芥川は堀を伴って唐突に片山邸を訪ねている。広子はその時の芥川から「何かたいへんするどいものを」感じたという。芥川の死後、芥川全集の編集に携わった堀は、載せる作品について広子から相談を受けることもあった。堀にとって広子は敬慕すべき理想の貴婦人で、「聖家族」「菜穂子」等に繰り返し広子モデルの婦人が登場する。堀文学だけ読んでいるとひかえめでストイックな未亡人という感じだが、実際はどうかな…?夫が病死した後「あなたとの関係はこれまでです」と結婚指輪を投げ捨てたり、芥川の葬儀に現れて「芥川と才力の上にも格闘出来る女、それは私です」とでも言っているかのよう…と芥川夫人をピキピキさせたり。また娘総子の縁談がつぶれたのは「聖家族」が話題になったせいと決めつけるや急に堀への態度が冷淡になり、文学関係者に「噂を広めないで」と菓子折を配って回ったりした。総子も堀はわるい奴だと出版社に怒鳴りこみ関係者を困惑&苦笑させた。文壇は総じて堀のほうに同情的だった。しかしそんな仕打ちを受けても堀の広子への敬意と憧れは終生変わることがなかった。
キャラ:161pの(当時としては)長身で女王のような気品をもつ。茶色っぽい髪と瞳。亡夫は日銀理事。片山家では4人ものお手伝いをつけられて、家事には一切ノータッチ。

 加藤周一
かとう・しゅういち
評論家・医学博士
1919−2008/大正8.9.19−平成20.12.5 満89歳(多臓器不全)
  出身地:東京府豊多摩郡渋谷町(埼玉県の地主の次男)
人生ダイジェスト:第一高等学校を経て東京帝国大学医学部入学。在学中に中村真一郎福永武彦と「マチネ・ポエティク」を結成、詩や小説、評論を発表。卒業後は医院を開業。戦後は評論家として活躍。病床にあった2008年夏にカトリックの洗礼を受け、同年暮れに世田谷区の病院で死去。
堀辰雄との関係:昭和11年追分の油屋に滞在中、堀と初めて会う。昭和16年夏頃から中村真一郎とともに堀を訪ねて以降、親しく話をするようになる。終戦前後は堀の主治医をつとめた。こまめに日常生活や薬の服用について注意を促し、治療の際などあまりに真剣なので堀の妻多恵子を怖がらせたりした。堀周辺の文学者のなかでは一番長く生き、多恵子夫人とも親しく交流した。

 加藤道夫
かとう・みちお
劇作家
1918−1953/大正7.10.18−昭和28.12.22 満35歳(自殺・縊死) 
  出身地:福岡県
代表作:戯曲「なよたけ」
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:学生時代、アテネ・フランセで演劇仲間の芥川比呂志(芥川龍之介の長男)と一緒にいた時、たまたま本を買いに来た堀辰雄と会ったことがある。戦争中は陸軍通訳官として従軍、ニューギニアでマラリヤ・栄養失調等に苦しんだ末帰還、終戦後に女優の滝浪治子(加藤治子)と結婚。昭和23年ごろ同じ演劇仲間の中村真一郎に誘われて追分に滞在、以降この地がすっかり気に入って休暇のたびに追分で仕事をする習慣がつき、昭和27年には追分油屋の裏に土地を買い小さな家を建てる。昭和24年くらいから病床の堀辰雄をしばしば訪れ、仕事のアドバイスを仰いだり本を貸してもらったりするようになる。堀のところに東京から肉や牡蠣など貴重な食料が届くと堀は「一緒に食事をしよう」と誘ってくれた。正月の祝膳をともに囲んだり、堀の枕辺で酒を飲んだりと、期間は短かったがその交流は濃く温かかった。昭和28年5月、加藤は堀宅に寄り数分間話をして東京に戻ったが、その一週間後に堀は逝去する。追分を愛し堀に心酔していた加藤はその年末、東京世田谷の自宅で自ら命を絶つ。残された油屋裏の小さな山荘は、翌年治子夫人から福永武彦に譲られた。 

角川源義
かどかわ・げんよし 
角川書店創設者・国文学者
1917−1975/大正6.10.9−昭和50.10.27 満58歳 
  出身地:富山県
堀辰雄との関係:国学院大学出身で折口信夫の門下生。戦前は青磁社の顧問を務め、終戦まもない昭和20年11月に独立して角川書店を設立。四畳半の応接間を間借りした小さな事務所で、角川自身も活字や製本のことを大急ぎで勉強中という心もとない門出だった。堀辰雄に深く心酔していた彼は堀作品集を自社から出版したいと願い、とっておきの上質紙の見本をたずさえてその秋に追分の堀を訪ねた。唐突にやってきたこの無名の出版人に、堀は自身初となる作品集を託す。以後角川は毎月のように追分に通い、堀も翌年春に上京し角川事務所を訪ねている。そのようにして完成した「堀辰雄作品集」全6巻+別冊は大いに人気を博し、毎日出版文化賞を受賞する。無名だった角川書店はこの作品集のおかげでよく知られるようになった。「(角川を)いい本屋にさせてあげたいと思っております」という折口信夫宛ての堀の手紙の一文に、角川は涙の出る思いがしたという。堀の詩誌「四季」の再刊も角川書店で行われた。病床にある堀のため、角川は月に2、3回食料や物資を店の者に届けさせ、自身も折口信夫ともども見舞いに訪れた。堀の葬儀の際には角川が車をまわして客の送迎を引き受け、骨箱を抱いた多恵子夫人も追分から東京まで送り迎えをしてもらった。だが角川が熱望していた堀辰雄全集の出版権は新潮社のものとなる。新潮社を選んだ張本人である刊行委員会の神西清は折口信夫のもとを訪れ、悲しんでいる角川を慰めてくれるよう依頼し、「堀君はいい友人を持った」と折口を感嘆させた。この新潮社版全集の約十年後、角川版の堀辰雄全集全10巻が晴れて刊行されることとなる。

上條松吉
かみじょう・まつきち 
堀辰雄の養父・東京下町の彫金師
1873−1938/明治6.4.10−昭和13.12.15 満65歳(脳溢血) 
  出身地:東京
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:松吉の父は上野輪王寺宮に仕えた寺侍で維新後は紙幣局に勤務、息子らを彫金師に入門させる。末子だった松吉は兄達の病死等により明治38年10月に上條家の戸主となる。遊び好きの松吉は若い小唄の女師匠と所帯を持ち一子をもうけるが夭折。そのショックで仕事を放り出し酒びたりの日々に。さらに自分の弟子と妻の関係を知ってしまうが、悩んだ末ふたりの仲を認め家まで探してやり家財もすべて与え、もとの家にひとり残った。そんな窮乏した生活のところへ西村志気が辰雄をつれて嫁いでくるのは明治41年のこと。(婚姻届が出されたのは大正3年6月)松吉も志気も「江戸っ子肌のさっぱりした気性の人」で、結婚後松吉は一転仕事に励むようになる。幼い辰雄は当初は松吉を「ベル(犬の名)のおじちゃん」と呼んでいたがそのうちなついて本当の父と思うようになる。明治43年8月水害で向島中ノ郷の家が浸水し、新小梅町二番地に転居。その後大正3年7月、辰雄の実父である堀浜之助の妻コウが死去し辰雄の戸籍上の両親がいなくなったため、8月松吉に辰雄の「後見人就職」が届けられ、9月には辰雄の本籍もこの地に移される。大正12年9月、関東大震災。妻志気が死去、自宅も焼失。松吉と辰雄は四ツ木の松吉の兄の家に仮寓、翌年4月もとの家とほぼ同地に家を新築し移り住む。志気の死後も松吉の辰雄への愛情は変わらず、辰雄が成人しても幼い子供のように「辰ちゃん」と呼び甘やかしていた。昭和3、4年頃には松吉の世話をする金井ていという女性が家に入った。この女性は正式の後妻ではなく辰雄の看病を兼ねた家政婦として迎えられたと思われ、昭和5年喀血して倒れた辰雄に献身的な看護をし、昭和12年10月には松吉の養女となっている。辰雄はていが自分に好意(恋愛感情?)を寄せていることに悩まされていたが、感謝の思いもまた強く、松吉の没後ひとりになった彼女が死去(昭和27年)するまでずっと心配し気にかけていた。昭和13年5月、脳溢血で倒れた松吉は、同12月に再度の発作を起こし死去。辰雄はその後叔母から、松吉が実父ではなかったこと、辰雄が自分を本当の父と思って甘えてくれたことが本当に嬉しいと言い残して亡くなったことを知らされ、「そうと知っていたならもっと孝行するんだった」と嘆いた。辰雄の没後、彼が松吉を義父と知っていたか否かの論争が起こるが、私は「もしかして…と思うこともあったがあえてはっきり確かめようとはしなかった」というのが真実ではないかと思ってる。

 川端康成
かわばた・やすなり
小説家
1899−1972/明治32.6.14−昭和47.4.16 満72歳(ガス自殺) 
  出身地:大阪
代表作:小説「雪国」「伊豆の踊子」
文学ポジション:新感覚派の代表作家。ノーベル文学賞受賞。
堀辰雄との関係:同人誌「山繭」の頃(大正13)から堀の作品に期待をかけ、作品が発表される度に「文芸時評」等で感想を述べていた。昭和4年上野に転居した頃には一緒に浅草に遊びに行く仲に。また昭和6年自宅療養中の堀を横光利一とともに見舞いに訪れたり、昭和10年堀のいる富士見療養所を訪ねたり(※婚約者矢野綾子が死去したため堀は療養所を去っていて会えず)、かなり交流は深かったよう。昭和11年の夏初めて軽井沢に行き、堀や「四季」の詩人たちと散歩をしたりしてすっかりこの地が気に入り、翌年軽井沢に別荘を購入。昭和12年11月、堀がたまたまこの川端別荘に一泊していた時に追分の宿の油屋が火事に見舞われ堀の身の回り品がすっかり焼けてしまう。知らせを聞いた川端が車で迎えに来てくれ、堀はそのまま川端別荘を借りて厳しい冬を越す。(この時書き上げたのが「風立ちぬ」終章)翌13年2月、堀は加藤多恵との結婚報告のため鎌倉にいる川端や神西清を訪ねようとして深田久弥宅で喀血、そのまま入院。その時もいろいろ面倒を見てくれた。堀のほしがっていた別荘が売りに出されているのを知らせ、購入のための相当な金額を貸してくれたりもした(一年がかりで返した)。また川端も堀に本の装幀を頼んだり、戦火を避けるため蔵書を追分の堀宅で預かってもらったりした。堀が死去すると川端が本葬の葬儀委員長を務め、追分の家での火葬にも立ち合い、細やかに心を配り妻の多恵子を気遣った。堀の全集出版の際にもいろいろ計ってくれ、堀作品の映画化について多恵子からの相談にも乗っている。(多恵子「なんか内容が小説と全然ちがうんですけど」川端「映画なんてそんなもんですよ」)堀を公私に渡って支えた、文学のよき先輩だった。「堀君の文学は若みどりの木の間の清流がかなでる言葉であり、澄んだ湖水がうつす朝雲、夕焼けの絵画であり、生と死と愛とのきれいな抒情の詩である」
キャラ:とにかくギョロリと大きな目。見つめられただけで若い女性記者は泣き出し強盗は逃げ出す。しかし「川端さんは怖そうに見えるけど優しいよ」(堀辰雄談) 

菊池寛
きくち・かん
(本名:ひろし) 
小説家・劇作家・実業家(文藝春秋創設者)
1888−1948/明治21.12.26−昭和23.3.6 満59歳(狭心症) 
  出身地:香川県香川郡高松(儒学者の家系)
代表作:「父帰る」「恩讐の彼方に」
人生ダイジェスト:幼少期から頭脳明晰で高松中学校を首席で卒業。法律家を志し明治大学法学部に入学するも中退、早稲田大学に籍を置いたのち第一高等学校第一部乙類入学。同期の芥川龍之介と出会い終生の友となる。卒業直前に友人の窃盗の罪を着て退学。その後京都帝国大学文学部英文科に入学。大学卒業後は記者生活を経て小説家となり、1923年私費で創刊した「文藝春秋」が大いに当たり、大富豪となる。以後川端康成横光利一小林秀雄といった新進の文学者たちを金銭的に援護したり、「芥川賞」「直木賞」を創設して新人支援に努めたりと、日本文学の発展に大きく貢献した。しかし戦中に文芸銃後運動を提起し戦争賛美に加担したため戦後は公職追放の憂き目に遭い、失意のまま持病の狭心症のため急逝した。
堀辰雄との関係:堀辰雄が富士見の結核療養所に入所していた時見舞いに訪れ、文藝春秋の社長が見舞いに来た!と付近の農家でちょっと噂になってた。また「聖家族」問題で片山広子の娘総子が会社に乗り込んできて持て余したことも。両者の直接のかかわりはそんなになかったようだけど、亡き友・芥川龍之介の秘蔵っ子である堀辰雄に対する菊池の姿勢はつねに優しいものだったと推測される。

 葛巻義敏
くずまき・よしとし

小説家・評論家(芥川の甥)
1909−1985/明治42.8.28−昭和60.12.16 満76歳(急性心不全) 

  出身地:東京
人生ダイジェスト芥川龍之介の次姉ヒサの長男。龍之介の甥。東京高等師範学校付属中学校に入学するも在学中に武者小路実篤の「新しき村」への参加を望んで家出。龍之介と実篤が相談した結果、村には参加させず芥川家のニート書生として預かることとなる(中学校は中退)。龍之介の死後は芥川全集編集や遺品の管理に没頭し、文筆活動にも精を出した。龍之介の親友だった画家の小穴隆一とは仲が悪く、「芥川家に巣食う奇怪な家ダニ」とまで言われてる。実際芥川家からすれば成人後もずっと生活費をもらい続け芥川の印税を家族同然に受け取り、芥川の遺品を自分のもののように扱うというなかなかに「たいへんな人」だったようだ。
堀辰雄との関係:昭和2年7月、堀辰雄への形見として遺された芥川龍之介のパイプを引き渡した縁で交流が始まる。芥川全集の編集にともに従事し、堀の推薦で「驢馬」同人となる。文学上のことから生活や人生論まで、さまざまなことを論争し合える忌憚のない間柄だったことが往復書簡などからよくわかる。昭和16年12月末、雪を見に軽井沢の葛巻夫妻を訪ねたときのエピソードが作品「斑雪」となった。 

窪川鶴次郎
くぼかわ・つるじろう
文芸評論家
1903−1974/明治36.2.25−昭和49.6.15 満71歳(心臓発作)
  出身地:静岡県菊川市
人生ダイジェスト:医師の次男として裕福な家庭に生まれ、父と同じく医師を志し金沢第四高等学校に進学するも、中野重治と知り合い文学に目ざめる。高校を中退して上京、貯金局に勤務。中野とともに同人誌「驢馬」のメンバーとなる。その頃いね子(佐多稲子)と出会い結婚。夫婦で左翼運動に身を投じ、稲子はプロレタリア作家として窪川は評論家として頭角を現す。しかし窪川の浮気等が原因で夫婦仲は険悪となり、1945年に離婚。戦後は短歌論を手掛け、大学の講義にも力を入れた。
堀辰雄との関係:貯金局を辞めて困窮している窪川を見かねた堀が、芥川龍之介に頼んで彼の作品をなにかの雑誌に載せてもらおうと窪川と稲子を芥川宅に連れていっている。これが芥川自殺の三日前のこと。帰り際に芥川は当座のためにと四拾円を窪川にさりげなく渡してくれた。窪川によると堀の髪は「あつくて強(こわ)い」。なにもかもが柔和な堀に似つかわしくないその髪を「くせものだね」とからかうと、「あのえくぼでもできそうな、声をたてない笑いかたで私の顔をじっと見た」。簡単になびかない“こわい”髪を、「驢馬」メンバーの中で唯一左傾化しなかった頑固さになぞらえたのかもしれないと堀はのちに回想している。

 小林秀雄
こばやし・ひでお
評論家
1902−1983/明治35.4.11−昭和58.3.1 満80歳(腎不全)
  出身地:東京神田(本籍は兵庫県出石郡)
文学ポジション:日本を代表する知の巨人・保守文化人
堀辰雄との関係: 堀の一高同級生(堀は理科、小林は文科)。志賀直哉を師とする。小林が大正13年に発表した「一つの脳髄」に堀は「大変な衝撃を受けた」芥川龍之介は「あまりの早熟さに驚嘆を通り越して少々反発をまで感じた」。それがきっかけか小林は堀の案内で一度だけ芥川邸に行ったことがあるらしい。小林も堀の才能を早くから認めており、「聖家族」発表時には「むずかしい詰め将棋を何とかして詰ましちゃったような小説」と堀に感想を寄せている。創元社からの堀作品の出版はいずれも創元社に関係していた小林の推薦があった上でのことらしい。学生時代は野球やキャッチボールで一緒に遊び、堀が鎌倉で暮らしていた時もよく会っていて、一般に知られているよりずっと親密な交流があったようだ。昭和22年に堀を追分に見舞ったのが両者の最後の面会になったと思われる。
キャラ:俺様キャラ。友人中原中也の彼女を取ったエピソードが有名。でもその彼女のためにひどい目に遭う。

 斉藤茂吉
さいとう・もきち
歌人・精神科医
1882−1953/明治15.5.14−昭和28.2.25 満70歳(心臓喘息)
  出身地:山形県南村山郡金瓶村
代表作:歌集「赤光」
人生ダイジェスト:生家の守谷家に経済的余裕がなかったため、東京浅草で開業している同郷の医師斉藤紀一の養子候補として上京、紀一の次女輝子と結婚する。奔放な輝子と生真面目な茂吉は相性が悪く夫婦生活は円満ではなかったが、その息子たちは精神科医斉藤茂太、作家北杜夫としてそれぞれ名を成した。中学時代から短歌の創作にいそしみ、伊藤左千夫の門下生として「アララギ」を代表する歌人となる。精神科医としても活躍し、芥川龍之介の不眠治療のため親身になってさまざまなアドバイスを与え薬を施した。しかし芥川はその茂吉にもらった睡眠薬で自殺、茂吉の心に大きな衝撃を与える。戦中に多くの愛国歌を詠んだことで一時批判されるも歌壇の重鎮として敬慕され、昭和26年には文化勲章を授与された。
堀辰雄との関係:堀辰雄も師の芥川と同様、斉藤茂吉の歌に深く心酔していた。直接的な付き合いは特になかったようだが、堀が「風立ちぬ」を献呈したり茂吉が礼状を送ったり等、文学上のやりとりはいくらかあったよう。晩年、寝たきりになってからの堀は茂吉の歌集を枕辺に置いて心のよりどころとしていた。
キャラ:尋常ならぬ癇癪もち。本のパラフィン紙がケースにうまく収まらないだけでブチギレ。患者には基本優しかったみたい、でも自分を平手打ちした患者にどんな仕返しをしてやろうか夢中で考える等やっぱり地は負けず嫌いのキレキャラ。私は北杜夫「どくとるマンボウ」シリーズで茂吉キャラに触れて以来大好きに。ブチギレの裏にいつも不器用な荒削りの愛が見える。

佐多稲子
さた・いねこ
(本名:佐田イネ)
小説家
1904−1998/明治37.6.1−平成10.10.12 満94歳 
  出身地:長崎市八百屋町
文学ポジション:プロレタリア文学
人生ダイジェスト:大正4年10月に長崎から家族で上京、向島の牛島小学校に転校。同学年に堀辰雄がいたが稲子は一ヶ月で退学したため面識なし。父に定職がなかったためキャラメル工場や中華そば屋、メリヤス工場など様々な場所で働く。大正9年「清凌亭」座敷女中をしていた時に芥川龍之介菊池寛を知る。大正13年結婚するが夫の神経症のため翌年夫と心中未遂。いったん兵庫の父のもとに引き取られ長女を出産。大正15年3月にカフェー「紅緑」の女給となり、ここで「驢馬」同人たちと知り合う。同人仲間の窪川鶴次郎と結婚し(※昭和20年に離婚)、昭和3年「キャラメル工場から」を発表しプロレタリア作家としてデビュー。戦中は弾圧が厳しくなり、時流に合わせた作品も少なからず書いた。戦後は自らの体験や日本共産党との確執、女性を取り巻く様々な問題を扱った作品を発表し、晩年まで執筆と社会的発言を精力的に続けた。
堀辰雄との関係:大正15年「驢馬」仲間とともに知り合う。昭和3年プロレタリア作家として出発した頃は堀の好意でアテネ・フランセ(フランス語教室)に通い、月謝や交通費も堀が受け持ち、新しい教科書やノートまで与えてくれた。また直接フランス語を教えてもらったり、通りすがりにお金を借りたりもした(踏み倒した)。片山広子にも紹介され、片山と縁の深い「火の鳥」に詩や小説を掲載してもらった。その後はあまり交流がなくなり、堀の葬儀では堀から受けた数々の親切を思い出し大泣き。堀の没後は多恵子夫人と交流が深まり、堀の回想を綴った文章も多い。堀に連れられて夫の窪川とともに一度だけ芥川邸を訪れたこともある。「清凌亭」時代の思い出話に花が咲くかと思いきや、前夫との心中未遂経験のことを芥川にあれこれ訊かれて戸惑う。昭和2年7月21日、芥川の死の三日前のことである。
キャラ:美人。とくに額が美しい。

佐藤春夫
さとう・はるお 
小説家・詩人
1892−1964/明治25.4.9−昭和39.5.6 満72歳(心筋梗塞) 
  出身地:和歌山県新宮町(医師の長男)
代表作:小説「田園の憂鬱」
文学ポジション:耽美派・芸術詩派
人生ダイジェスト:和歌山で生まれ育ち、子供の頃から短歌で頭角を現す。上京して与謝野寛の新詩社に入り、堀口大學を知る。慶應義塾大学文学部予科に入学(のち中退)、永井荷風に学ぶ。「スバル」「三田文学」等に抒情詩を発表して注目を集める。大正6年芥川龍之介谷崎潤一郎を知り以後親しく交流、芥川の出版記念会「羅生門の会」では開会の辞を述べている。芥川の訃報は旅先の中国で知り、帰国後は芥川全集の編纂に携わる。昭和5年、谷崎潤一郎の妻・千代を譲り受けるという「細君譲渡事件」で世をにぎわす。昭和10年芥川賞が設立され、その選考委員となる。同年8月太宰治を知り、その後芥川賞をめぐってあれこれ煩わされることとなる。戦中は「日本浪漫派」に加わり戦争賛美の詩を発表、そのため戦後きびしく糾弾されるが、ほとぼりが冷めると文壇の重鎮として活躍。昭和39年、ラジオ番組の収録で「私の幸福は…」と言いかけ、そのまま心筋梗塞で倒れ急逝した。
堀辰雄との関係:芥川とは友人同士だったため、その弟子である堀のことも早くから認識していた。堀は「文学上の叔父さんに対するように」佐藤を慕い、「聖家族」刊行(昭和7)以降ずっと佐藤に著作を献呈している。佐藤のほうも「温厚で高雅な人なつこい」堀の人柄を愛し、誰にも見せない書斎を「見たい」と言われてつい見せてしまったりしている。戦後、佐藤と室生犀星が不仲になったことに堀は心を痛めた。世間の糾弾を浴び長野に引きこもっている佐藤に「四季」への寄稿を求める等、堀の佐藤への態度は一貫して変わらなかった。余談…堀は加藤多恵との結婚話が進む中、多恵の母に「細君譲渡事件」について「ああいうことが平気で行われるのが文壇社会なのか?」と問われ、いろいろ説明しなければならなかった。
キャラ:「門弟三千人」といわれるほど彼のもとから巣立った文学者は多い。面倒見は相当よかったようだが、わりとつまんない理由で縁を切ったりもしている。 

志賀直哉
しが・なおや 
小説家
1883−1971 明治16.2.20−昭和46.10.21 満88歳 
  出身地:宮城県牡鹿郡石巻町
代表作:小説「城の崎にて」「暗夜行路」
文学ポジション:白樺派を代表する作家。「小説の神様」
堀辰雄との関係:師・芥川龍之介が高く評価し、堀辰雄自身も大いに尊敬していた小説家。ちなみに芥川は小説が書けず悩んでいた時に志賀直哉のところに相談に行き、「書けないんならしばらく冬眠したら」と言われて「そんな恵まれたご身分じゃないから…」と嘆いてる。(※志賀直哉はブルジョア)昭和17、8年頃の夏、志賀直哉は避暑のため軽井沢に別荘を借りて過ごし、堀辰雄夫婦と親しく行き来した。別荘を引き揚げる際には東京の自宅にも来てくれるようにと堀へ電話番号と手書きの地図つきの手紙を残している。
キャラ:パワフル。運動神経抜群。特技は自転車の曲乗り。ブレーキのない自転車をつくろうとして止められた。カンシャクもち。わんこ大好き。戦後、フランス語を国語にしたらと口走って叩かれた。
 

 神西清
じんざい・きよし
小説家・評論家
1903−1957/明治36.11.15−昭和32.3.11 満53歳(舌癌) 
出身地:東京市牛込区袋町
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:大正9年に第一高等学校(理科甲類フランス語)に入学、その翌年に堀が入学(理科乙類ドイツ語)。一歳違いのふたりは入寮後に知り合い親しくなる。神西いわく当時の堀は「愛くるしい非常な美少年で、寮生活ではずいぶんとお稚児さんあつかいにされて騒がれた」そんな堀がうるさい寮生活をやめると神西は堀の家に通うように。それがあまり頻繁なので、ある日堀から「そういう趣味ないんだけど」みたいな手紙がきて、ついカッとしてその手紙を焼いてしまった。そんなヒステリックな反応したらよけい怪しまれると思うけど。ともあれ理科志望の堀に萩原朔太郎の詩集を読ませたりして、一転文学の道に向かわせた。一高に5年間在籍して中退、大正14年に東京外国語学校(露語科)入学。卒業後は北海道帝国大学図書館嘱託、電気日報社、駐日ソヴェート連邦通商代表部輸入部、東亜研究所等を経て、戦後から文筆活動に入る。実務家としての才能に長け、病弱な堀を、友としてマネージャーとして、また文学の批評家として多面的に支えた。堀の没後は全集出版のために駆け回り、角川書店からの予定を新潮社に変更(当時角川はまだ新興で資本が小さかったため)、角川源義を説得するためその師の折口信夫宅に出向き口添えを頼んだ。その真剣さに折口は「堀君は本当にいい友達を持っている」と感心した。しかし全集の完成を見届けることなく神西は急逝、彼を頼りにしていた多恵子夫人を大いに悲しませる。花が好きだった堀を回想し、神西はこう述べている。「彼は植物を愛したばかりではなく、その愛を通じて、じっと静かにしている生命の脈搏を、内面的に聴きとり、それを見事に把握することのできた、稀な作家の一人であった」 

竹中郁
たけなか・いく
(本名:育三郎) 
詩人・画家
1904−1982/明治37.4.1−昭和57.3.7 満77歳(脳内出血) 
  出身地:兵庫県神戸市兵庫区
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:富裕な綿花問屋に生まれ、伯母の嫁ぎ先竹中家の養子となる。須磨の豪邸でテニスコートを与えられて育った生まれながらのお坊ちゃん。大正13年海港詩人倶楽部を設立、詩誌「羅針」を創刊。詩集「黄蜂と花粉」が芥川龍之介に褒められ、昭和2年7月10日に芥川邸を訪ねる。そこへたまたま堀辰雄が来合わせた。竹中は「驢馬」等ですでに堀の名は知っていた。「その時、堀君とは二三友人の噂をし合っただけで別れたがその物腰格好から、その芥川さんからの愛され方から私には好個の青年詩人として印象ふかく忘れられなかった」そこから交流が始まり、昭和7年の堀の神戸旅行の際には竹中が神戸を案内して回り、明石の稲垣足穂のところへも足を伸ばしている。昭和8年5月から堀の詩誌「四季」に参加。戦中、堀家を訪ねようとしていた竹中は通院のため人力車に乗っていた堀と路上でたまたま出会い、少し話をして別れた。それが最後の対面となる。戦後、堀がほとんど寝たきりの生活になってからは励ましの手紙を何度も送り、またセーターやジャケット等、堀によく似合うセンスのいい服も贈ってくれた。特にヘビロテだった真紅のセーターは堀の没後、多恵子夫人が愛用している。堀の生前に書かれた竹中の詩「生きてゐる十人の友の墓碑銘」の最初に堀の名が挙げられている。「血を喀きつづけでもって 咳をしつづけでもって とうとう長生きをした 芥川さんよりも長生きした 君が手づくりのステッキは 使へば使ふほど新芽を吹いた その名は軽井沢の月桂樹」師の芥川の年齢まで生きられればいい、と言っていた堀への、寿ぎの想いが満ちている。
キャラ:生粋の神戸っ子でおしゃれさん。神戸周辺の校歌・社歌を200以上も作詞している。ちなみに私の母校の校歌も竹中郁作詞。うれしい。 

 太宰治
だざい・おさむ
(本名:津島修治)
小説家
1909−1948/明治42.6.19−昭和23.6.13 満38歳(入水自殺)
  出身地:青森県北津軽郡金木村
代表作:小説「走れメロス」「斜陽」「人間失格」
文学ポジション: 無頼派・新戯作派
堀辰雄との関係芥川龍之介の熱烈ファン。面識ないけど。芥川のかっこつけポーズをまねた写真を何枚も撮ったり、ノート一面に「芥川龍之介」と書きまくったり。怖。なので芥川の自殺には大きな衝撃を受けた。彼が自殺未遂を繰り返したのは何%かは芥川のせいでもあるのかも。とにかく何かあるとすぐ自殺(未遂)。井伏鱒二に「会ってくれないと自殺する」という手紙を送って押しかけ弟子になった。昭和18年11月20日、その井伏とともに青山斎場の徳田秋聲の葬儀に向かう電車のなかで、たまたま乗り合わせた堀辰雄を井伏に紹介される。それが彼らにとって最初で最後の対面となった。堀と別れた後、太宰は井伏に「堀さんというのは案外イナセな、いい男前だ」といい、ただ隙間だらけの歯がいかにも虚弱そうで惜しい、あれが味噌っ歯なら風格があるのにと付け加えた。井伏が、お前は自分が味噌っ歯だから自分に風格があると言いたいのかとツッコんだら、しばらくして太宰は総入れ歯にしたという。太宰治と堀辰雄は当時から正反対の文学と見なされて、何かと引き合いに出されてた。どっちかというと太宰ファンが一方的にエキサイトしてたようだけど。古い文芸雑誌などには太宰ファンのアイタタな文章がけっこう載ってて笑える。私は太宰作品は好きだし(ただし中期のみ)、ネタキャラとしても大好きだが、そういう被害妄想の激しい、太宰文学のアカンとこだけ吸い取ったような太宰ファンならぬ太宰信者には辟易する。そういう一握りのイタイ奴らのせいで「太宰文学は若いうちだけ罹るはしかのようなもの」とか言われちゃうんじゃないの。
キャラ:175cmの大男(当時としては)。でも犬こわい。蛇こわい。酒好き。女好き。とんだダメ人間みたいだが気は優しくて人好きのするキャラなのでよくもてた。志賀直哉を狂おしく嫌ってる。

 立原道造
たちはら・みちぞう
詩人・建築家
1914−1939/大正3.7.30−昭和14.3.29 満24歳(肺結核) 
  出身地:東京日本橋区橘町
代表作:詩集「萱草に寄す」「曉と夕の詩」
文学ポジション:四季派詩人
人生ダイジェスト:子供の頃から詩作の才があり、第三中学校・第一高等学校を経て東京帝国大学工学部建築学科に入学、建築の奨励賞「辰野賞」を3度も受賞するなど建築でも才能を発揮する。昭和12年石本建築事務所に入所、また詩集「萱草に寄す」「曉と夕の詩」を立て続けに刊行。しかしこの年の秋頃から結核を発症。11月、滞在していた追分油屋が火災、命からがら助け出された経験も心の痛手となった。翌13年、無理を押して盛岡や長崎に旅行に出かけ体調を崩す。年末に帰京して即入院、明けて昭和14年、第1回中原中也賞受賞の朗報を聞くも、3月29日、ひとり病室にて息を引き取る。
堀辰雄との関係:芥川や堀と同じ東京下町出身、そして三中・一高・東大のエリートコース。下戸で甘党なのも同じ。室生犀星に師事し、昭和7年の夏休みに堀の「麦藁帽子」等を読み、手製の「堀辰雄詩集」を作ったりしてダダはまり。8月末に堀宅を訪ねるも堀は軽井沢滞在中で会えず、翌8年春頃に改めて堀の家を訪ねる。翌9年7月堀を追って初めて追分を訪れ一か月を過ごし、以降、毎年夏はこの地で過ごすようになる。この年10月に詩誌「四季」創刊、立原も企画段階から加わり詩人としての地盤を固めてゆく。昭和13年4月、堀の結婚式に堀側の友人として出席、5月には軽井沢の堀の新居を恋人水戸部アサイとともに訪ねている。しかしこの頃から堀文学を脱却するべく「風立ちぬ」論を発表し始め、堀と決別するような激しい手紙を送ったりしている。だが旅先の長崎で書かれた「長崎ノート」には、ひとたびは否定した堀の世界に戻りたがっている立原の苦しい心情が読み取れる。帰京後、かねてより患っていた結核をこじらせて療養所で絶対安静の状態となる。立原が会いたがっていると津村信夫から知らされた堀は、昭和14年2月、多恵子を伴い見舞いに訪れる。立原の中原中也賞受賞は、堀の強い推薦があってのもの。立原死去後、堀は「四季・立原道造追悼号」そして「立原道造全集」を編集した。両者をよく知っている室生犀星は言う。「絶対に堀を好いていた彼は、堀辰雄のまわりを生涯をこめてうろうろと、うろ付くことに心の張りを感じていたらしかった」
キャラ:175pの長身、でも体重50kg。あだ名は学生時代は「にんじん」(ヒョロいから)追分では「半鐘泥棒」(ノッポだから)。ちょい出っ歯。芥川龍之介に雰囲気が似ていたらしく、萩原朔太郎は「芥川の息子?」、堀も「亡き師が若くなってあらわれたのかと思った」とぎょっとしたという。犀星が「ドーゾー」と呼び始め、堀もこれにならった。追分の子供達は「どうさん」と呼んでよくなついていた。心優しく冗談好き、でもなかなか向っ気の強いところもあったよう。 

谷崎潤一郎
たにざき・じゅんいちろう 
小説家
1886−1965/明治19.7.24−昭和40.7.30 満79歳(腎不全・心不全) 
  出身地:東京府東京市日本橋区
代表作:「痴人の愛」「細雪」「陰翳礼讃」
文学ポジション:耽美派・悪魔主義
堀辰雄との関係芥川龍之介は晩年、谷崎潤一郎と「筋のある小説、ない小説」をめぐって激しく論争したが、あくまでも文学上のぶつかり合いであって、べつに個人的に仲が悪かったわけではない。でも谷崎は論争中の芥川が自分の誕生日(7月24日)に自殺したことについて「…わざとか?」とちょっと思ったみたい。その芥川の弟子である堀辰雄は学生時代から谷崎文学の愛読者で、また堀をいつも学校まで運んでいた人力車夫が谷崎の原稿をよく出版社に届けていた人物で「坊ちゃん、谷崎さんのように偉くなんなさいよ」と言っていたという。さらさらと水のように清潔な堀文学、ドロドロねっとり官能的な谷崎文学。かたや天使になぞらえられ、かたや悪魔と呼ばれる。まったく共通点がない、むしろ両極にある作家だけど、時勢に流されない、書きたいものだけを書く大胆不敵な作家魂という点では一致する。もし交流があったなら意外と意気投合したかも。
キャラ:ひとつ人より女好き。ふたつ踏まれて女好き。みっつ乱れて女好き。とにもかくにも女大好き、ただし美女に限る。妻の千代を佐藤春夫に譲る譲らないで世間を騒がす。最愛の松子夫人に下僕のように尽くすのが無上の喜び。しかし地震恐怖症。トラウマなら仕方ないとはいえ、ちょっとグラリときただけでその最愛の夫人を置いてひとり飛んで逃げちゃうとか、どうなの。

 津村信夫
つむら・のぶお

詩人
1909−1944/明治42.1.5−昭和19.6.27 満35歳(アディスン氏病)

  出身地:兵庫県神戸市
代表作:詩集「愛する神の歌」
文学ポジション:四季派詩人
人生ダイジェスト:昭和3年慶應義塾大学経済学部予科に入学するが肋膜炎を患い東大病院に入院、そののち鎌倉、別府で転地療養。療養時代に短歌、そして詩を作り始める。昭和5年に復学、家族で毎夏訪れていた軽井沢で室生犀星を訪ね生涯の師となる。9年10月に刊行された詩誌「四季」に参加、立原道造丸山薫と親交を結ぶ。10年慶大卒業、父の勧めで東京海上火災保険に入社。同年11月、第一詩集「愛する神の歌」を自費出版。翌11年からは「四季」の編纂実務を担当し、のち投稿詩の選者もつとめた。同年12月に室生夫妻の媒酌で西長野の往生寺の娘小山昌子(超美人)と結婚。13年8月、父に無断で退職し文筆活動に専念。18年7月、アディスン氏病と診断され、東京築地の聖路加病院に入院。翌19年6月永眠する。
堀辰雄との関係:共通の師である室生犀星、そして「四季」編集を通じて親しくなったと思われる。追分や軽井沢で家族ぐるみで散歩や食事を楽しんだ思い出を多恵子夫人が語っている。
キャラ:いい育ちの温厚なお坊ちゃん。室生犀星一家から「ノブスケ」と呼ばれ家族同然の間柄。太宰治とも親しかった。野村英夫にも慕われたが最初はちょっと怖い印象があったようで「熊にでも逢ったような顔」をされていたそう。 

永井龍男
ながい・たつお 
小説家・随筆家
1904−1990/明治37.5.20−平成2.10.12 満86歳(心筋梗塞)
  出身地:東京市神田区猿楽町
文学ポジション:小説、俳句、随筆と幅広く活躍。芥川賞選考委員。文化勲章受章。
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:大正13年小林秀雄らと同人誌「山繭」創刊に加わり、堀を知る。互いの作品を批評し合ったりボール遊びをしたり、かなり遠慮のない間柄だったことがこの頃の書簡からうかがえる。昭和2年文藝春秋社に入社、文芸雑誌「手帖」等の編集に当たる。芥川龍之介への原稿依頼のため堀に同道を頼んだこともある。「(堀が)いかに愛されていたかは、われわれが書斎に待つ間もなく姿をあらわした主人の、打ち解けた一挙一動で察せられた」昭和4年には堀、横光利一川端康成らとともに「文学」創刊に関わり、昭和5年発刊「作品」にも堀とともに参加。同年4月には新興芸術派倶楽部第一回総会に堀、小林秀雄、深田久弥神西清らと出席。編集者生活に専念することになったためその後は次第に疎遠になり、昭和15年頃からは対面する機会がなかったが、書簡のやり取りなどで後年まで交流は続いた。 

 中里恒子
なかざと・つねこ
(本名:恒/結婚時は佐藤)
小説家
1909−1987/明治42.12.23−昭和62.4.5 満77歳 
  出身地:神奈川県藤沢市
文学ポジション:女性初の芥川賞受賞
人生ダイジェスト:母方の遠縁にあたる文藝春秋社の菅忠雄の紹介で永井龍男を知り、昭和3年から文春「創作月刊」や「山繭」「火の鳥」等に作品を発表し始める。同年12月に結婚(昭和31年に離婚)、昭和5年8月に長女圭子誕生。昭和7年、肺結核の療養で逗子町桜山に転居、横光利一に師事。その関係で川端康成との交際も始まる。川端が「少女の友」に連載していた「乙女の港」は実は中里の代作。昭和14年2月、「乗合馬車」で女性作家として初めて芥川賞を受賞する。
堀辰雄との関係:同人誌「山繭」を通じて知り合っていたと思われるが、実際の面識は昭和7年頃、横光利一を介して。その後は軽井沢ですき焼きをしたり娘圭子を交えて散歩をしたりと、家族ぐるみの親しい付き合いとなる。昭和13年の秋から半年ほど堀夫妻は逗子の中里家の近くに住んでおり、ちょうどその頃中里が芥川賞を受賞、堀夫妻も朝早くから起こされて騒ぎに巻き込まれた。堀が追分で療養生活に入ってからも2、3回見舞いに訪れている。堀の没後もその妻多恵子夫人と交流が長く続いた。

 中野重治
なかの・しげはる
詩人・小説家・評論家
1902−1979/明治35.1.25−昭和54.8.24 満77歳(胆嚢癌) 
  出身地:福井県坂井郡高椋村一本田(自作農兼小地主の名家)
代表作:詩集「中野重治詩集」小説「歌のわかれ」
文学ポジション:プロレタリア文学
人生ダイジェスト:第三高椋小学校から福井県立福井中学校に入学、全国試験で首席となるがエリートコースである第一高等学校ではなく金沢市の第四高等学校文科乙類に入学。在学中に短歌や小説を発表。二度落第して、大正12年関東大震災で金沢に帰省していた室生犀星と初めて会い、終生の師となる。大正13年高校卒業、東京帝国大学文学部独逸文学科に入学。大正15年4月に堀辰雄・窪川鶴次郎・宮木喜久雄らと同人誌「驢馬」を創刊、同時にプロレタリア運動にも没頭し、弾圧をうけながらさかんに活動する。昭和5年女優の原泉と結婚。日本共産党に入党し、昭和6年頃からは作風に政治色が濃くなっていく。その後治安維持法違反容疑で取り調べを受け、共産主義活動をしないことを条件に出所し「転向作家」の烙印を押される。転向作品をいくつか書くも昭和12年以降は執筆不能の状態にまで追い込まれ、生活費のために翻訳等の仕事をする。戦後、日本共産党に再入党。また「新日本文学会」を創立し民主主義文学の発展に努める。
堀辰雄との関係:大正15年「驢馬」創刊以降親しく付き合う。堀は直接会う前から中野の詩に注目していた。中野もまた堀を通じて西洋文学に触れることになる。「驢馬」終刊の頃は堀以外の同人仲間は皆左傾化していたが、思想に関係なく堀との友情は長く続いた。終戦間近、警察ににらまれて中野の執筆活動がままならない頃、堀を通じて宇野千代から生活費援助の申し出があり、断ったが、堀の対応に深く感謝する。戦後、新文学団体「新日本文学会」創立の際には病床の堀に手紙で参加を呼び掛けている。昭和22年第一回参議院議員選挙に中野が立候補した際には頼まれて堀が推薦人になっている。堀の没後、座談会で「いつ頃から堀さんとは道が分かれましたか」と問われ、「堀とは道が分かれたというようなことはない」ときっぱり答えている。「野中の清水、それが堀辰雄だ。また彼の文学だ。巨大なダムではない。地下の暗黒を走る下水道でもない。しかしそれはそもそもの水だ。それは飲むことができる。手と足とをひやすことができる。傷口にそそいで洗うことができる。人はどうしてもそこへと立ちかえる。そこからまた出で立つ。」

 中原中也
なかはら・ちゅうや
詩人
1907−1937/明治40.4.29−昭和12.10.22 満30歳(結核性脳膜炎) 
  出身地:山口県吉敷郡山口町(医師の長男)
代表作:詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」
文学ポジション:四季派・ダダイズム
堀辰雄との関係:堀辰雄の同級生小林秀雄を通じて堀の詩誌「四季」に参加、四季派詩人と呼ばれるようになる。「四季」の会合で堀と顔を合わすこともあったよう。詩人高橋新吉が堀の向島の自宅を「野良犬がまぎれ込むように」訪ねた際、同行していたのが中原中也だったか誰だったか…と回想している。取次ぎの家人が堀は病臥してるから会えないと言ってるのに強引に上がりこみ寝ている堀の横で一方的にしゃべり立てていたというその連れの男、本当に中也だったらおもしろいのに。対する堀は「熱のためかホテッた紅い顔であった 女の皮膚のように色白く 頭髪は黒く伸びていた 口邊は頬笑みで綻んでいた」(高橋新吉・堀辰雄追想より)。病人の枕辺でわーわーしゃべる中也とそれをニコニコ黙って聞いてる堀辰雄という図を想像するとちょっと楽しい。
キャラ:ちっさい。(141cm説と150ぐらい説がある)酒癖わるい。ケンカっぱやい。太宰治立原道造、誰にでもからむ。親友の小林秀雄に付き合っていた彼女をとられてやさぐれる。

 中村真一郎
なかむら・しんいちろう
小説家・詩人・評論家
1918−1997/大正7.3.5−平成9.12.25 満79歳 
  出身地:東京市日本橋区箱崎町
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:幼いころに母を亡くし静岡県の母方の祖父母のもとで育つ。東京の開成中学校に進学し福永武彦と出会う。第一高等学校では加藤周一を知る。堀辰雄は知人らとの会話で中村の名をよく耳にしており、本人に会う前からすでによく知っている気になっていた。昭和15年1月、堀から本を届けてくれと連絡を受けた中村は堀宅を訪ねるが、堀は中村の顔を見るや「僕は君に会ったことがないね」と驚き、「会ったこともないのに用事を言いつけてすまなかった」と恥ずかしがった。それ以降、親しい交流が始まる。昭和16年に東大仏文科を卒業、翌年に加藤周一や福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成。戦後は堀の推薦で「死の影の下に」を発表し小説家としてデビューを果たす。戦中から戦後にかけて堀ともっとも親しく付き合った後輩文学者のひとり。堀の没後は新潮社版堀辰雄全集の編集委員となる。今では常識となっている芥川−堀−立原をひとつの文学的系譜として見る研究の先駆である。大変な読書家であり、読むスピードがあまりにも速いので堀に「(同じように速読家だった)芥川さんみたいになっちゃう…」と心配されていた。また歩きながら読書してドブにはまったり牛にぶつかったりもする。

 西村志気
にしむら・しげ
(再婚後:上條志気)
堀辰雄の実母
1873−1923/明治6.6.5−大正12.9.1 満50歳(震災) 
  出身地:東京
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:維新前は「諸大名がたのお金御用達」をつとめ苗字帯刀が許される家柄だったが、維新後没落。刀屋や骨董屋に転業するもうまくいかず、志気の父米次郎は明治28、9年頃脳卒中で死去。長女志気を筆頭に次女よね、三女よし、四女とよ、長男末吉、次男清次郎がいた。志気は母を助けながら夜店等で働き、芸者もしていたと思われる。弟妹たちも茶屋奉公に出たり落語家になったり、また落語家に嫁いだりしてたいへん困窮していた。やがて志気は堀浜之助と出会い辰雄を生む。妻コウとの間に子がなかった浜之助は辰雄を嫡子として届け出るが、辰雄を手放すことができない志気は堀家を飛び出し、向島に住む妹夫婦に身を寄せ、そこに母も呼び寄せて、たばこ屋等で生計を立てる。明治41年、彫金師の上條松吉と再婚。とにかく辰雄を可愛がってくれる人であれば、という志気の願い通り、松吉は辰雄に惜しみない愛情を注いだ。志気はどんな場合でも辰雄を優先し、「うちのお殿様」と呼び、成績優秀で医師を目指していた辰雄が一転して文学を志すようになってもこれを応援、辰雄が詩を作れば「原稿料」といってお小遣いを与え、知り合いの整本屋に「うちの子が本を出すようになったらよろしくお願いします」と菓子折を持っていったり、かなりトンチンカンなことをした。大正12年9月1日、関東大震災。志気は避難中に隅田川で水死。辰雄と松吉は志気を探して数日間隅田川の堤を歩き回った。志気の位牌には辰雄の句が刻まれた。「震 わが母もみわけぬうらみかな」この母の死について、辰雄はほとんど語っていない。この一句以上に何を語ることがあるだろう。のち辰雄が妻となる多恵子に宛てた手紙には、「ずっと前に死んだ僕のお母さんのように」自分を見守っていてほしい、と願う文面がある。志気の辰雄への愛はまさに溺愛の感があるが、この絶対的な愛が、どんな不幸も苦しみも穏やかにやりすごしてゆける辰雄の心の健やかさ、人生への肯定感を育てたのだと私は思ってる。そしてこの母の愛こそが師・芥川龍之介と大きく明暗を分けたところだと思う。志気は生粋の江戸っ子で義理人情に厚く、家族はもちろん隣近所の人々に至るまで、彼女の恩を受けない者はいなかったという。また彼女は目もとの涼やかなたいへん美しい女性で、辰雄はこの母の面差しをよく残しているように思われる。 

 日塔聰
にっとう・さとし
詩人
  文学ポジション:四季派詩人
堀辰雄との関係:詩誌「四季」に参加しその編集にも携わる。浪速高校を経て東大仏文科に入学するもあまり学校には行かず堀辰雄のところに通い、堀が神田に本さがしに行く時などよく連れ立って出かけていた。軽井沢の家にもよく遊びに来ていたという。堀の没後も多恵子夫人と交流が続いた。
キャラ:背高のっぽで痩せっぽち(多恵子夫人談) 

 野村英夫
のむら・ひでお
詩人
1917−1948/大正6.7.13−昭和23.11.21 満31歳(肺結核) 
  出身地:東京
文学ポジション:四季派詩人
堀辰雄との関係:「四季」詩人の中で最年少。学生時代より結核を発病し、毎夏転地療養生活を送る。昭和11年夏、立原道造を介して堀に紹介される。以後、立原よりも堀に近付くようになり、立原や、少し遅れて堀に近付いた中村真一郎福永武彦加藤周一といった「一高派」と確執を生むこととなる。ことに加藤は、堀以外目に入らず堀への優位を誇るような野村の態度に「傍らに人なきが如く振舞う少年」と憤る。昭和12年正月、堀と野村で雪深い森を歩き回った体験が堀の「雉子日記」となる。同年11月、宿泊していた追分の油屋が焼失し、「風立ちぬ」終章を執筆する堀とともに川端康成の別荘で過ごした。深沢紅子の長女・陽子への恋に破れ、昭和18年軽井沢の教会でカトリックの洗礼を受ける。この頃から詩作で頭角を現すようになるが、昭和23年死去。堀には「野村少年」と呼ばれ、まるで家族の一員のように堀夫妻のそばにいた。使い走りや家具の修理も受け持ち、多恵子夫人が鶏を飼うというと鶏小屋まで作ってくれた。堀夫妻には従順だったが、友人らには頑固で我儘な面もあったよう。昭和28年7月に刊行された「野村英夫詩集」(角川書店)に書いた跋文が堀の絶筆となる。

 萩原朔太郎
はぎわら・さくたろう
詩人
1886−1942/明治19.11.1−昭和17.5.11 満55歳(急性肺炎) 
  出身地:群馬県(医師の長男)
代表作:詩集「月に吠える」「青猫」等
文学ポジション:日本近代詩の父
堀辰雄との関係:堀は一高時代に親友の神西清に萩原朔太郎の詩を勧められたことがきっかけで文学を志すようになり、萩原の第二詩集「青猫」をどこへでも持ち歩き、自室でもマントにくるまって日が落ちるまでじっとその詩を読んでいたという。直接の面会は萩原が上京し田端に越してきた大正14年以降のこと。萩原は堀の印象をこう語る。「女のように優しく、どこか発育不全のお坊ちゃんのようで、内気にはにかみながら物を言っているような男」「彼の側で話していると、いつも何かの草花や乾麥のような匂いがする」室生犀星は「萩原は堀にあうときに、ふつうの文学青年にあうような邪魔くさい眼をしないで、いわば女の人につかうようなためらったような、どこか萩原がよく女の人にするやぶにらみな交りかた、眼つきをして見ていた」と語る。犀星や芥川龍之介のように萩原もまた堀のことを「辰ちゃん」と呼んでいた。大正15年には萩原と堀で連れ立って鵠沼の芥川を訪ねる等親しく交流し、「驢馬」「文学」「作品」「四季」等、堀関連の雑誌にも作品を積極的に発表した。萩原が死去すると堀は「四季」に萩原朔太郎年譜を掲載、小学館版「萩原朔太郎全集」の編集委員もつとめた。全集出版をめぐって萩原の親友である犀星と萩原の弟子である三好達治が殴り合わんばかりのケンカを始めたとき、ふだんおとなしい堀が仲裁に入ったため両者とも引き下がったという裏話がある。 

林芙美子
はやし・ふみこ
(本名:林フミ子)
小説家
1903−1951/明治36.12.31−昭和26.6.28 満47歳(心臓麻痺・心筋梗塞) 
 

出身地:門司市小森江
代表作:小説「放浪記」
文学ポジション:女性流行作家の先駆
人生ダイジェスト:幼少より旅商いの親とともに各地を転々とする窮乏生活を送り、文才が認められ尾道市立高等女学校に入学するも夜や休日は働いた。卒業後に上京し、銭湯の下足番や女工、事務員などをしながら原稿を出版社に売り込んで回る。1928(昭和3)年から自伝的小説「放浪記」を連載しこれが大ヒット、一躍流行作家となる。1931年にはパリに一人旅、この紀行文も好評を博す。戦争が始まると従軍記者として中国をはじめシンガポール、ジャワ、ボルネオ等に赴いた。戦後も意欲的に活動し、どしどし舞い込む執筆依頼を断ることはなかった。売れに売れた流行作家ゆえさまざまな批判も浴びた。駆け出しの頃は貧乏を売りにする素人作家、戦時中は政府のお抱え作家とも揶揄された。しかしその文学の軸となるのは一貫してままならぬ世を生きる庶民への慈しみであり、人々に広く愛読されたのもそれゆえである。
堀辰雄との関係:歳が近いことや共通の友人もいたことから文学仲間としてしばしば交流、芙美子がパリに出立する前には堀と井伏鱒二とで新宿の中村屋でお茶を飲み語り合っている。パリから帰ってきて軽井沢に室生犀星を訪ねた際、堀にも会う。戦後、病状悪化のため執筆ができなくなった堀とは対照的に書きに書きまくった芙美子だが、昭和26年3月『文芸』に寄せた「堀辰雄氏へ」では「このごろ、仕事をする事が厭になり、今年は大いになまけるつもりです」「五月か六月には軽井沢へうかがいたいと思っております」と書いている。その六月末に芙美子は急逝。訃報を病床で聞いた堀は「おふみさん、仕事が忙し過ぎたのだろうな」と寂しがった。


深沢紅子
ふかざわ・こうこ 
画家
1903−1993/明治36.3.23−平成5.3.25 満90歳  
  出身地:岩手県盛岡市
堀辰雄との関係:洋画家の夫・深沢省三とともに画家として活躍。堀辰雄や立原道造の本の装丁や童話の挿絵などを手掛ける。清楚な野の花を好んで描く。口数は少ないが心優しい魅力的な女性で、立原道造や野村英夫津村信夫ら若い詩人たちの憧れでもあった。立原は彼女のアトリエに故意にかわざとか手製の「堀辰雄詩集」を忘れていき、立原の没後それを知った堀は、立原に手向けるため、その手製の詩集に紅子の挿絵をたくさん入れて百部ほどの詩集として出版した。仕事以外でも紅子と堀夫妻は親しく付き合った。鎌倉に仮寓していた堀夫婦が炭がなく困っている時、紅子が吉祥寺の自宅から炭一俵をみずから持ってきてくれたこともある。堀の没後、深沢夫妻は約20年ほどの間、堀の愛した「堀辰雄1412番山荘」にて夏を過ごすようになり、その庭にいろいろな野の花を咲かせてくれたと多恵子夫人は回想する。 

 深田久弥
ふかだ・きゅうや
小説家・登山家
1903−1971/明治36.3.11−昭和46.3.21 満68歳(脳卒中※登山中の茅ヶ岳にて) 
  出身地:石川県江沼郡
代表作:紀行文「日本百名山」
堀辰雄との関係:大正11年に第一高等学校文科乙類入学、文芸部に所属し堀と出会う。ただしこの頃深田は登山にはまっており、文学も同郷の中野重治に傾倒していたのであまり話はしなかった。大正15年東大哲学科に入学、翌昭和2年、在学中に改造社に勤務。昭和4年堀らと「文学」創刊、廃刊後は堀とともに「作品」に参加。昭和5年、堀の紹介で本所小梅町に家を借り、堀や川端康成とつれだって浅草に遊びに行ったりして親交が深まる。同年10月に「オロッコの娘」を発表し注目される。同月大学を中退、改造社も辞職して本格的に文筆活動に入る。この頃がもっとも堀と交流を持った時期と思われる。「私は堀君の世話で、彼の家から百メートルと離れない、やはり新小梅町に家を借りた。新しく建った二階建ての二軒長屋で、その一方に私が住み、片一方には堀君の従兄が住んでいた」「そのころ堀君は改造に『聖家族』を書いた。私は編集者で請求役だった。この小説が堀君の文壇へのデビューとなったと見なしていいだろう。その原稿料を貰って、彼は浅草の金田とかいう鳥屋で私に御馳走してくれた」ご近所さんの堀とは米や醤油や味噌を貸し借りする仲だった。追分油屋でも堀や「四季」詩人らと食事をしたり語らったり楽しい時間を過ごした。昭和13年2月、鎌倉に深田を訪ねた堀は喀血して倒れてしまい、そのまましばらく深田宅で世話になった。 

 福永武彦
ふくなが・たけひこ
小説家
1918−1979/大正7.3.19−昭和54.8.13 満61歳(脳内出血) 
出身地:福岡県筑紫郡二日市町
代表作:小説「草の花」
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:開成中学、第一高等学校を経て東大仏文科に入学、昭和16年に卒業し日伊協会に勤める。この年の夏に堀を知る。以前から中村真一郎に堀訪問を勧められていたが、当初は堀作品にむしろ批判的だった。しかし実際に会ってみて文士としての生きざまに魅了され、大いに影響を受けるようになる。昭和17年、中村真一郎、加藤周一らと「マチネ・ポエティク」を結成。 大戦中は参謀本部や日本放送協会に勤める。肋膜炎を患い昭和20年4月に北海道帯広に疎開、昭和22年10月に上京し清瀬村の東京療養所に入所(昭和28年3月まで)。昭和26年に書き上げた「風土」が堀の口利きもあり翌年刊行され、病気の長いブランクを破ることとなった。昭和27年9月、追分滞在中に堀宅を訪ねたのが堀との最後の対面となった。昭和28年、学習院大学の教授となる。堀の没後は中村らとともに堀辰雄全集の編集に携わる。昭和53年には堀が上條松吉を実父と知っていたか否かを論考した「内的独白」を発表した。死の二年前、病床でクリスチャンの洗礼を受けた。
キャラ:中村真一郎、加藤周一とともに「東大の三秀才」と呼ばれた外国語の天才。しかし多恵子夫人によれば相当な忘れん坊だという。痩せているが骨太で、高村光太郎に「いい手をしている。彫刻家になれる手だ」といわれたのが自慢。堀と同様に花好き。

 舟橋聖一
ふなばし・せいいち

小説家
1904−1976/明治37.12.25−昭和51.1.13 満71歳(心筋梗塞)

  出身地:東京横網町
文学ポジション佐藤春夫に私淑、古典を題材にした戯曲や小説多数
堀辰雄との関係:堀とは同い年、同じ下町育ちで大学も同じ学科(東大国文学科)。「はじめて逢ったのは、東大の山田珠樹氏の教室だったが、その頃、堀は芥川龍之介氏に可愛がられて居、芥川の稚児さんだといわれたものだ。紺のジャケットを着た色白の美少年であったが、わたしはすぐ、魅せられるような濃い印象をあたえられた。一目で、親密を通りこした畏敬の念のような、ふしぎな崇拝感が来た」その後親しい友人となり、浅草、銀座などでよく遊び、一緒に芝居にも足を運んだ。在学中に「手帖」同人としてともに参加。昭和12年には追分油屋に堀を訪ね、堀の書きかけの小説(「かげろふの日記」)や古典について語り合った。その後も元気な頃はたびたび会っていたという。 

 堀多恵子
ほり・たえこ
(加藤多恵)
堀辰雄の妻・随筆家
1913−2010/大正2.7.30−平成22.4.16 満96歳(肺炎)
  出身地:静岡県相良町
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:祖父の代からのキリスト教徒で、リベラルで裕福な家庭に育つ。生後3か月で父が駐在員として暮らす香港に渡り、小学2年から4年の一学期まで広東で育つ。大正12年帰国、女子聖学院に学ぶ。昭和6年、父を鉄道事故で亡くす。昭和7年に東京女子大学英語専攻部に入学、昭和11年卒業。昭和12年の夏、弟と一緒に静養のため追分の油屋に1か月ほど滞在した時に堀と出会う。翌13年4月17日に雅叙園で室生犀星夫妻の媒酌のもと挙式。結婚後は軽井沢、逗子、鎌倉に転居、また多恵子の実家杉並の家と軽井沢の家との往復生活が続く。昭和19年9月には疎開を決めて追分に移り住む。それからはほとんど寝たきりの辰雄の世話の日々となり、昭和28年5月28日、矢野綾子の妹良子とともに辰雄を看取る。その後は辰雄にまつわる随筆を多く書き、室生犀星一家や神西清中村真一郎福永武彦加藤周一ら辰雄ゆかりの文学者たちとも親しく交流。明るく親しみやすい女性で、彼女のことを悪く言う者は誰もいなかった。辰雄への愛情から気の強いところもあり、警察やケンカ名人犀星が相手でもひるまず、犀星をして「烈婦」といわしめた。辰雄の没後まもなくO岡昇平が辰雄を罵った文章が本に載ると、「堀の奥さんが何をするかわからないから隠せ」と神西が焦ったという。(結局おせっかいな人によって多恵子夫人の目に触れてしまうが)O岡昇平、E藤淳といった堀辰雄を偏執的に糾弾する者たちについては本当に腹に据えかねていたようだが、騒いでおおごとにするわけではなく、だんまりを決め込むわけでもなく、ただ自著で「不快である」旨をひっそり述べるだけ。でもその意思表示だけで堀ファンとしては胸がすく思いがする。「苦しい病床で愚痴も文句も言わず、ただ看取りをする者の悲しみや喜びばかりを考えていた人の傍らに、私は長年過ごして来たのだ。これから先の事を考える時、そのことを忘れてはならないと思うのである」辰雄の思い出とともに追分の地で穏やかな日々を過ごし、亡夫の年齢48歳のちょうど倍、96歳で永眠。多磨霊園には「堀辰雄」墓石の横に同じかたちの「堀多恵子」墓石が生前の夫婦さながらに仲良く並んでいる。

 堀浜之助
ほり・はまのすけ
堀辰雄の実父
1855−1910/安政2.5.11−明治43.4.6 満54歳(脳疾患) 
  出身地:広島県広島区
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:広島藩の士族で裁判所書記として各地に勤務、明治23年に東京地裁に転勤、栃木出身の藤本コウと結婚。明治32年監督書記に昇進。明治37年12月、西村志気との間に辰雄出生。妻との間に子供がなかった浜之助は辰雄を嫡出の子として届け、堀家の跡取りとする。当時浜之助は平河町の立派な門構えの家に住み、辰雄は堀夫妻に育てられ志気も同居することになった。しかし明治39年志気は辰雄を連れ家を飛び出してしまう。その後浜之助は麹町に転居、明治43年4月に死去。戸籍上辰雄が堀家の戸主となった。堀家では辰雄を取り戻そうと使いの者がたびたび志気のもとを訪れたが、志気は頑として手放そうとしなかった。この後大正3年7月にコウが死去、これにより8月上條松吉が戸籍上の辰雄の「後見人」となり、辰雄の本籍は9月に上條家の本籍地新小梅に移された。以後辰雄に「孤児扶助料」が給付され、これを志気は辰雄の学費として大事に取っていた。年額約90円、のち増額されて145円を、辰雄が成人する大正13年まで受け取った。しかし辰雄の堀家との縁は完全に途絶えたわけではなく、浜之助の妹・柴田さゑ(麻布で茶の湯の師匠をしていた)やその長男で従兄弟にあたる柴田辰一(辰雄と同い年)との交際もあった。 

 丸岡明
まるおか・あきら
小説家
1907−1968/明治40.6.29ー昭和43.8.24 満61歳  
  出身地:東京市麹町
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:暁星中学校から慶応義塾予科を経て慶應義塾大学仏文科を昭和9年に卒業。昭和5年「マルタンの涙」を「三田文学」に発表し、横光利一らに認められた。また能楽研究者である父の影響で「現代謡曲全集」の編集など、能楽・謡曲についての仕事も残している。堀とは昭和5年軽井沢で初対面。「飾り気がなく、心が柔軟に富んでいて、ものを的確に見る澄んだ眼を持っていた」向島の堀宅もしばしば訪れ、軽井沢では一緒にテニスで遊んだりもした。丸岡の影響で堀は昭和16、7年頃能楽に凝っていた。神西清とともに、堀の生涯にわたる親しい友であり文学のよき理解者だった。「堀辰雄の文学は、芥川龍之介の死と、生母の死によって強く支えられていた」
キャラ:親しみやすくおおらかな人柄。妻の美弥子夫人は美人で気のきく料理上手のとっても素敵な奥様。 

 丸山薫
まるやま・かおる
詩人
1899−1974/明治32.6.8−昭和49.10.21 満75歳(脳血栓)
  出身地:大分県大分市
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:内務省高級官吏の父の仕事の関係で長崎、東京、朝鮮などで幼少期を過ごし、父の死を契機に愛知県豊橋に移住。高級船員を志望し大正6年に東京高等商船学校に入学したが病のため退学、大正10年三高文科丙類に入学したのち一年休学。翌年入学の三好達治と同級になり、三好や上級生の梶井基次郎と親交を結ぶ。東大国文科に入学後、第九次「新思潮」の同人になり詩誌「椎の木」の社友となる。昭和3年結婚、大学を中退しモデル業で生計を立てる妻の援助を受けながら創作活動に専念。昭和9年10月に堀辰雄、三好達治と三人で詩誌「四季」(第二次)を創刊。昭和12年2月まで編集責任者として実務にあたり、昭和18年からは投稿詩の選者もつとめた。「四季」の屋台骨のひとりではあるが、「四季」の雰囲気に微妙な反発の気持も持っていたという。晩年の萩原朔太郎と交流し、津村信夫立原道造、神保光太郎らととくに親しかった。後年、萩原朔太郎全集をめぐって室生犀星と三好達治がケンカしたのを堀が仲裁したという話を「堀が止めたなんて真っ赤な嘘」と言った。当人の犀星も三好も、居合わせた第三者も「堀が止めた」とはっきり証言しているのに。「真っ赤な嘘」をついているのが丸山のほうなのは明らかなのに、なんでそんな嘘をつく。やな感じだな。

 三島由紀夫
みしま・ゆきお
(本名:平岡公威)
小説家・劇作家
1925−1970/大正14.1.14−昭和45.11.25 満45歳(割腹自殺) 
  出身地:東京府東京市
代表作:小説「潮騒」「金閣寺」
堀辰雄との関係:学生時代から堀辰雄作品と「四季」派に親しんでおり、昭和16年には「今の日本の作家では私のいちばん好きなのは堀辰雄」と明言し、自分たちの雑誌「赤絵」を堀に送り批評をもらったりして、規範を堀にとるべきと主張している。ところが戦後、新しい文学をめざす過程において、堀に対する認識も否定的なものに変わってゆき、文学的価値を一応は認めつつも「素寒貧」「かぜをひくとすぐ熱が出るような小説」と感情的に批判するようになる。その豹変ぶりについて、中村真一郎は堀田善衛やO岡昇平らの名も挙げて、堀さんに非常にこった作家は逆にあとで知らないふりをする、あんなに悪口を言うのは特別な感情があるんだろうと指摘している。実際、昭和17〜9年頃、まだ平岡公威と名乗っていた頃の三島からしょっちゅう手紙が届いていたと多恵子夫人は証言する。なかには封筒に便箋が収まりきらないほどの分厚い手紙や、家族のことを書いた「かわいらしい」手紙もあったという。(いずれも現存せず)しかし一度、多恵子夫人が代筆でハガキを返してから、ぷっつり手紙が途絶えたという…。(傷ついたのか?)その後、三島は川端康成に師事するようになる。戦後は人気作家として地位を築き、日本人初のノーベル文学賞の有力候補にも挙がるが、「盾の会」等の政治活動が問題視され、皮肉にも師の川端康成が受賞することとなる。このことで両者にわだかまりが生じたとかいろいろ言われるけど本当のことは当人たちにしかわかるまい。昭和45年11月25日、「盾の会」数名とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地総監室を占拠して隊員にクーデターを呼びかけるも失敗し、割腹自殺を遂げる。「ひよわな」堀文学に決別した彼は、その凄絶な死によって、切望していた「強さ」を果たして本当に手に入れたのだろうか。
キャラ:虚弱体質のコンプレックスからムッキムキのボディービルダーに。(でも身長は平均的な163cm)
 

 三好達治
みよし・たつじ
詩人
1900−1964/明治33.8.23−昭和39.4.5 満63歳(心臓発作)
出身地:大阪市西区西横堀町
代表作:詩集「測量船」「駱駝の瘤にまたがつて」
文学ポジション:四季派詩人
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:大阪府立市岡中学を中退し大阪陸軍幼年学校に進学。さらに士官学校に進むが大正10年中退、翌年旧制三高文科丙類に入学、丸山薫を知る。海外の文芸や室生犀星萩原朔太郎の詩、堀口大學の訳詩に親しむ。大正14年東大仏文科に進学、翌春梶井基次郎らの同人「青空」に参加し抒情詩を発表。丸山とともに詩誌「椎の木」にも加わり、同時期、川端康成、萩原朔太郎ら文学者と親交を結ぶ。またこの頃、国文科に在籍しながら仏文科の講義を聞きにきていた堀辰雄と知り合った。昭和3年大学卒業後は文筆活動に専念、モダニズム文芸誌「詩と詩論」創刊に参加。昭和5年に第一詩集「測量船」を刊行したが結核を発病、療養生活を続けながらの活動となる。昭和9年に堀の発案で丸山とともに「四季」創刊。堀の委嘱で創刊から昭和12年秋に従軍するまで投稿詩の選者をつとめる。この頃の堀と三好はかなりの交流があったようだ。昭和10年12月富士見療養所に堀を訪ねるもちょうど婚約者矢野綾子が臨終の時で、堀は「あとで逢うからあっちで待っててくれ」と静かな声で語ったという。また師の萩原朔太郎の全集出版をめぐって室生犀星と殴り合い寸前の大ゲンカになった時、「先輩には先輩に対する礼儀がある」と堀に制されて引き下がる。そのすぐ翌日、小田原の三好の家に堀が前日の失礼を詫びにきたという。戦中には戦争賛美の詩も多く発表し戦後に批判の的となったが、格調高い抒情の詩風への評価は今も変わらない。昭和23年福井大地震で罹災後は晩年まで世田谷で独居を続けた。
キャラ:甲高い声で吃り癖がある。頑固で短気なキレキャラだが、堀のそばで彼をみていた多恵子夫人にとっては義理堅くやさしい人柄だったという。

 室生犀星
むろう・さいせい
(本名:照道)
詩人
1889−1962/明治22.8.1−昭和37.3.26 満72歳(肺癌)
  出身地:石川県金沢市
代表作:詩集「抒情小曲集」小説「杏っ子」随筆「我が愛する詩人の伝記」
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:私生児として生まれ、真言宗寺院・雨宝院住職の室生真乗の内妻赤井ハツに引き取られ、7歳で室生家の養子となる。小学校を卒業し金沢地方裁判所の給仕として働き、ここで上司に俳句の手ほどきを受け、また金沢の文化や風土に目を向けるようになる。複雑な生い立ちを終生負い目に感じていた犀星だが、犀川の流れる故郷の風景をこよなく愛した。詩才を北原白秋に認められ、萩原朔太郎と知り合い無二の友となる。大正8年頃、詩人としての評価が定まってきた頃「幼年時代」「性に眼覚める頃」等の小説を発表し始めて注目を浴びるが「詩人の書いた小説で小説家の書いた小説ではない」と芥川龍之介に批評される。その芥川とも親しく交流するようになり、芥川の住む田端に引っ越す。また後輩の面倒見もよく、彼のもとに中野重治をはじめ文学志望者が足繁く出入りするようになる。大正12年5月、堀辰雄が母志気に連れられ室生家をはじめて来訪する。「さつま絣に袴をはき一高の制帽をかむっていた。よい育ちの息子の顔付に無口の品格を持ったこの青年は、帰るまで何も質問しなかった」危なっかしいくらいおとなしい堀に犀星は父のような優しさを持って接した。人見知りの堀も犀星には自然体で甘えていられた。室生夫人も堀が大のお気に入りで、堀が来宅すると犀星よりも夫人とよくしゃべっていたという。昭和13年、室生夫妻は堀と加藤多恵の結婚の仲人をつとめる。室生夫人は新婚の多恵子夫人にも料理の手ほどきをするなど何かと面倒を見、また戦時中、堀が追分に疎開を決めたと知ると「辰ちゃんが行くなら」とそれまで頑なに拒んでいた疎開に応じ、犀星を喜ばせた。娘の朝子や息子の朝巳も堀を兄のように慕い、しょっちゅう堀宅に遊びに来ていた。文学的にはあまり共通点のない両者だが、人間的には家族のように深くつながり合っていたといえる。「この人は、女の子だったのが間違って男の子に生まれたのではないかと、私はいつも同じ優しい瞬きを見せている堀を見て、そう思った」堀の柔和な人柄を慈しみつつ、その内面の強さを愛していた。「十数年に亘る病苦と格闘した勇敢な人である」犀星の書いた堀にまつわる文章はどれも優しさと愛情に満ちており、残された多恵子夫人にもその大きな愛は及んでいる。
キャラ:キレキャラ。本当によくキレる。しかもずいぶんしょうもない理由で。でもそのほとんどは犀星の愛情が強すぎるゆえのことなので、むしろほほえましい。庭づくりが趣味。趣味というかプロレベル。

 森達郎
もり・たつろう
医学生
−1946/昭和21.12月 
堀辰雄との関係:東大医学部学生。ある日突然「堀先生に逢わせて頂きたい」といって誰の紹介もなくひとりでやってきた。堀辰雄を一心に慕い、堀の山荘に通うために「バットでも買うように」父にねだって木造二階建ての大きな別荘を買ってもらった。「ベア・ハウス」と呼ばれるようになったその別荘は中村真一郎福永武彦野村英夫ら堀を慕う文学者たちのたまり場になり、室生犀星川端康成もおもしろがって訪ねてきたりして大いににぎわうが、満員で入りきれないといって堀の山荘にやってくる者もいた。森達郎も家主なのにはみ出して堀家に来ることもあった。「満員」というのは堀家へ来るための口実のような気がする。堀のためにいろいろな雑用をこなし、また堀のお伴をしてよく旅行に出かけた。その時の体験が「斑雪」「橇の上にて」等の作品になった。昭和19年2月堀が追分に定住するため家さがしに出かけた時も同行し、その頃までは元気だったが、同年秋から滋賀のサナトリウムで療養生活に入る。しかし戦中の混乱期で病院の医師らまで召集されていったため患者である森が医者代わりをつとめねばならず、病状を悪化させ、戦後大阪の両親のもとに帰るも昭和21年永眠する。「立派な医者になって僕の手で堀さんを治す」とつねづね語っていた、心優しい文学青年だった。
キャラ:大柄で太っているので「達熊」と呼ばれており「ベア・ハウス」命名の由来となった。ド近眼なのに高校時代は野球の外野手をつとめ「マジック・アイ」と言われた。猫大好き。「猫を手なずける秘法」なるものを福永武彦に伝授した。 

 矢内原伊作
やないはら・いさく
哲学者・評論家・詩人
1918−1989/大正7.5.2−平成元.8.16 満71歳  
  出身地:愛媛県
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:経済学者矢内原忠雄の長男。聖書のイサクにちなんで伊作と名づけられた。昭和16年京大哲学科を卒業し予備学生として入隊。戦地に赴く際、堀辰雄の「雉子日記」を背嚢に入れボロボロになっても持ち歩いていた。昭和21年復員。追分に妻を呼び寄せ一年半ほど住み、一女をもうける。そのころ堀を訪ね、親しく交流するようになる。病床にある堀のためお使いに行ったり配給を取りにいったりして堀家を助け、また花好きの堀のためにお使いの帰りに黄色の小菊をもらってきてくれたりして堀を喜ばせた。その後鎌倉や京都に転居したあとも文通は続き、堀の好きそうな本を探して送ったり持って行ったりするのが楽しみのひとつとなった。みずからの軍隊生活を振り返り、予備学生たちのほぼ全員が堀文学の愛読者だったことを挙げ、「予備学生が堀辰雄の文学を愛したのは、それによって現実を逃避するためではなく、それによって現実に打克つため、死を前にしてその僅かな生命を一杯に生きるためであった」「堀辰雄の世界は美しく純粋だけれども狭くて弱い、こういった俗説をぼくは少しも信じない。美しく純粋なものがどうして強くない筈があろうか」と語る。学習院大学、同志社大学、大阪大学などで教鞭を執り、晩年は法政大学文学部哲学科の名誉教授となった。
キャラ:日本人離れした哲学者的風貌。(多恵子夫人談) 

 矢野綾子
やの・あやこ
堀辰雄の婚約者・「風立ちぬ」節子のモデル
1911−1935/明治44.9.12−昭和10.12.6 満24歳(肺結核)
  出身地:愛媛県今治市
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:矢野家は今治銀行を経営する裕福な家柄で、長男の透が陸軍の主計将校となり故郷を離れたため、その妹エキノが婿を取り家督を継ぐことになる。エキノは長男昇、一年後には長女綾子を生むが、結核で病没する。そのため子のない透夫妻が昇と綾子を引き取ることになった。透は大正12年に陸軍を退いてから今治銀行の頭取に就任したが、その後も自宅のある広島に住み、昭和5年ごろ東京に居を移した。透は綾子のことも、のち妻の身内から引き取った良子(綾子より14歳年下)のことも、実の娘のように深い愛情をもって育てた。(※辰雄は透が綾子の実父でないことを知っていた。辰雄自身も実父でない上條松吉に実子のように可愛がられて育っており、彼が綾子の生い立ちをどのように受け止めていたのか興味深い)
綾子は広島女学校付属小学校、同高等女学部を優秀な成績で卒業、昭和4年上京して女子美術学校に進学。昭和8年、軽井沢のつるや旅館に静養を兼ねて滞在していた時に堀辰雄と知り合う。その時辰雄は片山総子との陰鬱な思い出を振り切るべく「美しい村」を執筆中で、この綾子の登場により、難渋していた「美しい村」は思いがけず明るい展開で完成する。この夏、草原に絵を描きにいく綾子と、綾子のキャンバスを肩に掛けた辰雄の楽しげな様子が丸岡明により目撃されている。綾子にはすでに父の計らいで伊予銀行員の婚約者がいたが、綾子の強い希望により破棄され、昭和9年9月、辰雄と婚約。翌10年6月、肺結核の病状が悪化した綾子を伴い辰雄は富士見高原療養所に赴く。(辰雄にとっては二度目の同病院入院)この時すでに綾子はいつ死んでもおかしくない重病患者で、辰雄はいつも自分の病室を空にして綾子に付添い、甲斐甲斐しく看護した。同年12月6日、喀血ののち綾子死去。綾子は息を引き取る直前、ほんとうに幸せだったと辰雄に告げ、父には「辰ちゃんにいい人を持たせてあげて下さい」と言い残した。翌11年9月、辰雄は綾子へのレクイエムとして「風立ちぬ」を書き始め、昭和12年暮れに終章を書き上げた。綾子の父透は娘の遺言を守り、辰雄と加藤多恵(多恵子)の結婚のため誰よりも奔走する。結婚後も辰雄は綾子の油絵や手紙を自宅に保管し、矢野家と親しく交流した。また透は多恵子を娘のように可愛がり、綾子の妹・良子も多恵子を姉のように慕った。昭和28年5月28日、たまたま遊びに来ていた良子が、多恵子ともども辰雄の最期を見届けることになる。昭和33年、矢野透死去。その臨終も多恵子が看取っている。
キャラ:162、3pの当時としては長身(丸岡明によると辰雄より背が高いぐらいに見えた)痩躯。くりっと大きな目、色白、ナチュラルウェーブの髪の可憐な美少女。ものごとをまっすぐに見つめる、素直で無垢な性格。

 山室静
やまむろ・しずか(※男性)
詩人・文芸評論家・翻訳家
1906−2000/明治39.12.15−平成12.3.23 満93歳(老衰)
  出身地:鳥取県鳥取市
人生ダイジェスト/堀辰雄との関係:アンデルセンやムーミンシリーズといった児童文学やエッダ・サガ等の北欧神話の研究・翻訳を多く手掛けた。教師をしている両親のもとに生まれ、小学生の時父を亡くし伯母に引き取られ、父母の郷里・長野県佐久市岩村田で育つ。旧制野沢中学卒業後、昭和2年岩波書店に入社、校正の仕事に従事。そこで芥川龍之介全集の編集に携わっていた金ボタンの学生服の堀辰雄をしばしば見かける。「堀さんは何か脇の下に小さい羽でもつけているように、どこかふわふわと、なかば宙をただよって飛んでいく印象で、すうーッと来てはすうーッと帰って行った。いかにも天使めいていて、」気おくれして声がかけられなかったという。昭和5年岩波書店を退社し、プロレタリア活動をして逮捕拘留されたりしたのち昭和14年東北帝国大学に入学(※昭和16年繰り上げ卒業)。昭和19年秋、郷里の岩村田に戻り昭和20年末まで地元の野沢高女の教師をつとめた。その頃から同地にいたアメリカ文学者橋本福夫を通じて堀と親しくなり、昭和21年8月に創刊した季刊雑誌「高原」の編集にともに携わる。堀が病臥するようになってからも何度か見舞いに訪れた。のち追分に山荘を建て、ご近所同士となった多恵子夫人と山室夫妻は長年にわたり親しく交流した。
キャラ:教え子たちから「コンニャク先生」と呼ばれていた。遠慮深く穏やかな人柄。でも時にぴりっと辛口。お酒が入ると饒舌に。自然を愛し、山歩きが好き。キノコハンター。山に少し分け入っただけでキノコがあるかないかすぐわかる。 

 横光利一
よこみつ・りいち
小説家
1898−1947/明治31.3.17−昭和22.12.30 満49歳(急性腹膜炎) 
  出身地:福島県北会津郡東山村
代表作:小説「日輪」「機械」「旅愁」
文学ポジション:新感覚派の旗手として昭和前期の日本文学を代表する作家。
堀辰雄との関係菊池寛に師事、川端康成とは終生の親友。昭和3年8月の文藝春秋で注目すべき新人のひとりとして堀辰雄の名を挙げている。堀は昭和4年に「文学」を創刊する際、川端とともに横光に同人として参加してもらっている。昭和7年2月刊行の「聖家族」序文は横光が執筆した。横光は堀の心理小説を高く評価しており、堀も横光を心から尊敬していて、両者の文学世界は非常に近いものがあった。ほぼ同時期に堀は「大和路・信濃路」で、横光は「旅愁」で、それぞれ日本回帰の道を探っている。また私生活でも川端康成ともども親しい付き合いがあった。
キャラ:何はさておきその髪型どうなってんですか。「横光さんは優しそうに見えるけど実はきびしい人。僕もちょっと怖い」(堀辰雄談)

   


「堀辰雄事典/編:竹内清己」(勉誠出版)、「堀辰雄の周辺/著:堀多恵子」(角川書店)、新潮45・2010年4月号「作家堀辰雄の周辺/著:秦郁彦」
等を参考に作成しました

 
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