書簡から
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君よ!私の魂よ!
悲哀に誇れ!仏蘭西(フランス)のCafe時には花園に漂泊え! そしてまた、古希臘(ギリシャ)に憧憬れよ!
けれども、君よ、けっして日本語を棄てて呉れるな、この美しい日本語を。
私はなによりも、日本語を愛している。
この仏蘭西のような、匂わしい韻律、美しい陰影、夕暮のような色合。
けっして仏蘭西語と優るとも、劣らない。英語、独逸語等の類ではない。
私のすべての憧憬と矜りは、美BEAUTEのうちに在る!
道徳、不道徳は無論のこと、真理、哲学等からは暫く遠く離れて居よう。
日本語がどれほど僕たちによって、美しく音楽的絵画的になるか、
ああ、何と云う悦ばしさ、そしてまた、何と云う待遠さだろう!
もっと僕は「言葉」を勉強したい、この貧しい語彙を広めたい。
言葉の陰影、音楽性、造形美などを、
あの中世紀の錬金術士が独占していた、夢想と妙奇と秘密と不安でいっぱいになった、瞳と胸と指尖で、
あてもなく探ねていったら、どんなに愉快だろうと、一人で思っている。
じっさい、日本語ほどこういう怪しさ、複雑さ、美しさに輝こうとしている言葉が他の何処の国にあるか?
大正12年3月17日(18歳) 新小梅より 神西清宛
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一日じゅう、彷徨ついている。
みんな、まるで活動写真のようなものだ、道で出遇うものは、異人さんたちと異国語ばっかりだ……
ことに夜の主の彷徨は、たまらなくいい。
僕の散歩のお友達は、舶来の煙草と詩人犀星だ。
大正12年8月4日(18歳) 軽井沢より 神西清宛
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大正12年9月1日(18歳) 関東大震災 母・志気死去(満50歳)
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さぞ東京は暑いだろう。そのせいか、なかなか軽井沢は淋しくならない。
昨晩、自動車で碓氷峠に月見に行ったらまるで花火の晩のようだった。それくらい、賑やかだ。当分、淋れそうもない。
で、芥川さんはこの五日ごろ帰る。東京で或る詩集出版記念会に出なきゃならないため。僕もその会に出るようにすすめられた。
それは僕どうでもいいが、とにかくお父さん達は芥川さんが帰った後に来た方がいい。
僕の居る家じゃ、蒲団もなし、飯も僕のように「つるや」通いじゃ困るだろうな。とうてい不可能だと云ってもいい。
「かなめや」という宿屋は安いというから、聞いたら、それでも三円五十銭(まる一日)だという。
ここは土地の盛んな割りに、宿屋が三軒かないので、こうボルのだ。
でも、この「かなめや」に宿っちゃ、どう。
大正14年9月1日(20歳) 軽井沢つるやより 上条壽則(※義父・松吉)宛 (※全文)
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すこし贅沢し過ぎたようだが、勘弁して下さい。
なにしろ、一流の生活をみんなとしていたんだから。そうして、この八十円のお蔭で、僕もだいぶ一流の人々に可愛がられたんだから。
いくらか堀辰雄も有名になったんだよ。
(但し、八十円は最低の予算を云ったのですからそのおつもりで)
大正14年9月3日(20歳) 軽井沢つるやより 上条壽則宛
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昭和2年7月24日(22歳) 芥川龍之介死去(満35歳)
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一人きりで居るせいかひどく陰気だ。そうかと言って、友達には誰にも会いたくない。
東京へなんかも帰りたくない。こんな温泉場になんかも居たくない。
全くどうしていいかわからず、何かたえず死の傍でイライラしている気持だ。
僕は今までの僕をすこしでも知っている人間を憎悪する。
もし僕にこの絶望を潜りぬけることが出来たら、新しい性格が僕の中に生れるのを期待する。
その僕の新しい性格を最も理解しないものは、今までの僕を知っていた人達だろう。
昭和3年4月30日(23歳) 湯河原より 神西清宛
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死はいつも僕に不即不離だ 僕の恋人のように 僕のミュウズのように
昭和3年11月23日(23歳) 新小梅より 神西清宛
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外見の僕が幸福そうであればあるほど僕は憐めだ
何という不当な誹謗とそして不当な賞賛を僕は受けているか?
そんなものを僕は欲しない 僕の欲しいのは唯愛だけだ
それだのに僕が知ったのは、一詩人は生きてる間は誰からも本当に愛されぬと云う事だ
昭和4年2月12日(24歳) 新小梅より 神西清宛
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こうして、そとへも行かず、あまり人も来ず、ほとんど一人きりで静かに暮らしているのも、たまにはいいです。
ときどき送ってくる同人雑誌などをひろげると、なんだかシャバの風に吹かれたような厭な気さえします。
だいぶ暖くなってきたので、そろそろ外出も出来そうですし、田舎へ転地するまでには是非一度お訪ねします。
あまり御無沙汰していましたので。
昭和6年3月5日(26歳) 向島(※町名「新小梅」から「向島」に変更)より 室生犀星宛
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三日にこちらに来ました。まだ寒く、昨日は吹雪でした。僕の病室のドアはすっ飛んでしまいました。
きょうは朝からベッドにもぐり込んだまま、真白になった南アルプスを眺めて居ります。
しかし、元気です。
昭和6年4月6日(26歳) 富士見高原療養所より 室生犀星宛 (※全文)
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どうも小説と云うやつは ふとした気持で書いたものが 一番好いものらしい
自分が苦心した作品でも果してその苦心した部分が人を打つのか 或は意外な部分が人を魅するのか分りはしない
が此頃の僕は恐らくそれが後者なのではないかと思い出している
そう云うものだから小説はますます難しいのだ 魔物だ……
昭和7年10月10日(27歳) 向島より 神西清宛
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仕事はまだちっとも出来ないんだ それで散歩ばかりしているがそれがこの頃じゃ山登りになってきた
峠へも行ったしオルガン岩にももう三度登ったよ 元気なもんさ
昭和8年6月23日(28歳) 軽井沢つるやより 神西清宛
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昔、大名の泊った部屋にはじめて寝ました。三度、夜なかに目をさましました。しかし、お化はまだ出ません。
すこし草臥れているので今日は一日寝ます。明日から勉強します。
淋しいから、お手紙を下さい。
昭和9年7月27日(29歳) 信濃追分油屋より 矢野綾子宛 (※全文)
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自動車が立派に見えたのか それとも 乗っている僕が貴公子然としていたのか
沓掛の町に差しかかったら子供たちが僕を見て「あれは何の宮様だろう」と云い合っていましたよ
これはちょっとお母様に御吹聴下さい
但しこの宮様、途中でサンドウィッチを忘れてきたことに気がついて 残念がっていたところだった
昭和9年9月17日(29歳) 信濃追分油屋より 矢野綾子宛
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この間はたいへん元気そうで僕も附添い甲斐があって嬉しかったけれどもあれから疲れやしなかった?
まあ、こんど僕が帰るまで、ゆっくり寝ていらっしゃい。
もう〆切までに五日ぐらいしかないけれど、何を書いたらいいんだかまだ分らない。
そんなことよりも君のことを考えている方がよっぽど楽しいんで困っちゃう。どうしたらいい?
昭和9年9月25日(29歳) 信濃追分油屋より 矢野綾子宛
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今朝僕のフィアンセがひどい喀血をやっちゃった 閉口している
御無心申してすまないが 何処かでゼリイの素を三個ほど買って至急送ってくれないか
お願いする
昭和10年12月3日(30歳) 富士見高原療養所より 神西清宛 (※全文)
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昭和10年12月6日(30歳) 婚約者・矢野綾子死去(満24歳)
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二人のものが互にどれだけ幸福にさせ合えるか――、そういう主題に正面からぶつかって行くつもりだ。
朝など手がかじかんでくる位だが、身うちには静かに燃えてくるものが感ぜられてうれしい。
僕みたいなものをこうして山の中に無一物ながら一人ぼっちにさせて置いて呉れているなんていうこと、
僕は誰に感謝していいか知れない。
誰もかもが僕に好意をもっていてくれるような気さえする。これは山で暮している男の感想かもしれない。
君を苦しめているのは都会だよ。しかし君なんぞはやっと都会というものを知り出した位のものだ。
もう少し雄々しく戦いたまえ。かすり傷ぐらいに屁古垂れちゃ駄目だよ。
昭和11年9月30日(31歳) 信濃追分油屋より 立原道造宛
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君は好んで、君をいつも一ぱいにしている云い知れぬ悲しみを歌っているが、
君にあって最もいいのは、その云い知れぬ悲しみそのものではなくして、寧ろそれ自身としては他愛もないようなそんな悲しみをも、
それこそ大事に大事にしている君の珍らしい心ばえなのだ。
そういう君の純金の心をいつまでも大切にして置きたまえ。
ともかくもまだ軽井沢には美しい森があるようだ。
そんな森の中に、君に小さなヒュッテを建てて貰って、
「喬木林」や「晩夏」の中でボヘミヤ地方の美しい森を隅から隅まで描き尽したアダルベルト・シュティフテルのような物語でも書きながら、
静かな晩年(昔から僕は自分の晩年として三十七八になった自分の姿を考えているのだ、
なんだかすこし気が早いようでおかしいけれど、そういう空想をも僕は屡々(しばしば)楽しむ……)を送りたいと
そんなことを僕に空想させるような、美しい森が、何といったって、すこし奥深く行きさえすれば、まだまだ軽井沢にはあるようだ。
詩集のお礼が、とんだものになってしまった。
下らないことをいい気になって書いてしまったが、最後の森のなかのヒュッテの空想は、本当に偶然だが、いい思いつきだったな。
これで、どうやらまあ建築事務所宛にこの手紙を出す口実が見つかったと云うようなもの。
昭和12年7月25日(32歳) 信濃追分油屋より 立原道造宛※「夏の手紙」として「新潮」に発表
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ドーゾーのバカ!速達不足四十七銭也とられたぞ 癪だから詩なんか書いてやるもんか
昭和12年8月24日(32歳) 信濃追分油屋より 立原道造宛
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何処かからいい手紙でも来ないかなあと思っていたら君から来た。
君が何処か田舎の方へいっているとのこと、一週間許り前恩地さんから来た手紙で知っていたんだ。
そんな田舎へいってしばらく静かに一人で暮らすこと大いに賛成だと思っていたが、
僕に一ことも知らせてくれないなんて怪(け)しからんなと思っていたところだよ――しかしもう勘弁して上げる
僕の仕事、なかなか捗取らない。当分持久戦の覚悟をしている。
日本の女の残した一番古い日記らしい日記である「蜻蛉日記」というのがそれなんだ。
浮薄な男に――男ごころというものはそういうもんだといった世間のコンヴェンショナリズムに逆らって――
あくまでも真面目な愛を求めてやまなかった一女性の日記だが、
こんな日記がこんな風に残っているのが本当に不思議なくらい清新なものをもっている。
僕にそんなことが出来るか出来ないか分からないけれど、
まあそういった古い日記の錆びをすっかりとってびっくりするくらい若返らせてやりたいんだ。
昭和12年9月23日(32歳) 信濃追分油屋より 加藤多恵宛
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――「新しい女」なんぞ書こうという肚じゃなく、いまの僕みたいに「古い女」をどうぞして蘇らせてやりたいと一所懸命になっていると、
ときにはもう自分の力が及ばなくなってもう投げようかと思いつめていると、
こんどはそっちの女の方でなんだか僕に力を貸しにきてくれる、
そんな気さえするんですよ、本当にそんな気がするときは小説書くことに生甲斐が感じられます
川端(※康成)さんもまだ軽井沢にいるそう、――
こないだ行ったら自転車でどこかへいらしったというので、僕も自転車を借りて軽井沢中さがしたがとうとう見つけられなかった、
川端さんのは子供の自転車の由、それに乗ったいい恰好が見られなくって残念
お菓子ありがとう、お礼がたいへん遅れたけれど、勿論もうとっくに食べちゃいました
昭和12年10月9日(32歳) 信濃追分油屋より 佐藤(※中里)恒子宛
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お手紙とお菓子を有難う。僕は君とちがうのですぐこういう風にお礼を出すから、覚えて置きなさい。
恩地三保子嬢、おおぜい、お友達と一しょに二三日やって来ました。
僕のところにも遊びに来てくれるかと思って大いに期待していたら、
ちょっとお顔を見せにきたきりで(あれじゃまるで僕にちょっと拝ませたようなものだ)又お友達と一しょに帰ってしまいました、
大いにうらんでいるとおことづけ下さい。
君にお貸しした本はもっとお手許に置いて御愛読なさい。
人が読めといって貸した本は少くとも一年位は返さない方が礼儀だ。
それ位熱心に読んで貰わなくちゃ貸し甲斐がないからなあ。
昭和12年10月25日(32歳) 信濃追分油屋より 加藤多恵宛
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御見舞を有難う 君達の電報もあの夕方になって漸っと手にしました
僕は元気ですから御安心下さい
いま勉強しかけていた本、これから大いに読もうと思って買込んであった本など何もかも失ってしまったのは、いかにも不自由ですが、
まあ、この冬うんと仕事をして、すぐ取返して見せます
東京には当分帰らないことにしました
帰って僕の部屋に一ぱいある僕の抜け殻みたいな、もう僕にはどうでもいいようなものばかりの中で暮らすのが苦しいのです
そんなものこそ本当に焼けてしまって呉れたらよかったのに――
この夏やはり追分に来ていた友達の一人から
「この夏の美しかったものがすべて失くなったことは、そのために美しかったようで悲しい気もちです」などと言ってよこしました
本当にそんな気もする位
けさもちょっと追分へ行って来ました 油屋の人達、みんな割合に元気です
来年までには何とかバラックでもいいから建ててみんなに来て貰うなどと言っていました
しばらく焼跡に立って僕は寒い風に吹かれて居りました
「かげろふの日記」の下書きの焼け残りなんぞがまだひらひらと飛んでいました
昭和12年11月25日(32歳) 軽井沢つるやより 加藤多恵子・恩地三保子宛
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此処はHappy Valleyという名前の小さな谷――
なんていうと洒落ているけれど、そんな谷がどこにあるのやら?――に面した、山の上の小さなコッテエジ、
周囲の木々がすっかりいまは丸坊主なので、その枝を透いて、すぐ真正面にもう真白になった八ヶ岳が見え、
夜なんぞはずっと下の方に汽車が通るのまでが小さく見えるような場所です
野村(※英夫)君が来るまで、僕はこんな山の中に一人で二晩泊ったんですからね なかなかごうきでしょう
ぼうぼうと威勢のいい音を立てて燃えている火を見守っていると、知らない間にずんずん時間がたってしまう、
もっとも時計なんぞわが家には無いので、どの位時間が立ったんだか分からないけれども――
一度君達にもこういう生活を味わせてやりたいものだな 病気なんぞだってすぐ忘れてしまいますよ
しかしけさは本当をいうとちょっと辛かった
温かそうな日がちらっと差したかと思うと、すぐ真暗な雲に遮ぎられてしまって、
そしていまにも雪がふってきそうで(いっそ雪がふるなら思い切ってどっさり降ってくれればいいのに)――
そこへ、君達からの贈物が届いたので、急に家の中まで明るくなった
僕が愉しそうに荷をほどいているのを、傍で野村君がうらやましそうな顔をして見ているので、
思い切ってStaedtlerの鉛筆を一本やりました それから早速有平糖を一しょに頬張りました
昭和12年12月1日(32歳) 軽井沢1307より 恩地三保子・加藤多恵子宛
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お風邪はどうしましたか?お返事も下さらないので少々心配しています
そう云えば僕もお便りをしなかったな クリスマス頃帰るなんていっていて――
実はその間に僕は一日だけ誰にも言わずにこっそり上京したんだけれど、丁度僕のお誕生日でした
一人で銀座へいってビフテキを食べて僕らしく自分で自分をいとしんでやって、さっさと帰って来ました
よっぽど恩地さんのところへお電話をして君の病気の事を訊いてことによったら御見舞にいってやろうかなと思ったけれど、
それも我慢して又こちらに帰って来ました
仕事の方は予定どおり片づけました 「風立ちぬ」がやっと二年ぶりで完成したわけです
今度のはあの小説のおしまいに付けたいと思っていた死者に手向けるRequiemのようなものです
――本当は去年の冬、それを書きたいばっかりにこちらで冬を一人で送った位でしたがとうとうそれが書けず――
そういうものは自分には永久に書けないのではないかと思って半ば諦めていたのが、
今度の火事のおかげで、いまのような山小屋住いをよぎなくされて居るうちに急に書きたくなって、
君にいつか書くよといっていた「受胎告知」の方はおっぽり出して、一気に書いてしまいました
本当にいろんなものをば火事で失ったけれど、その代りにこの一篇が書けたので、もう焼けた何もかもさえ、そう惜しくはない位、
――来年の三月頃、「風立ちぬ」を一まとめにして好い本にしたいと思っています
君が病気だと思っているんでながながと書いて上げました 君がもう癒ってぴんぴんしているんだと損だなあ
でも、損をしたって、その方がずっと好いんだけれど……
昭和12年12月30日(33歳) 軽井沢1307より 加藤多恵宛
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本当に矢野さんのお父うさんは君がすっかり気に入っていますし、
良ちゃん(※矢野良子/綾子の妹)は良ちゃんで大へん君になついて僕のお嫁さんはどうしても君でなけりゃいかん、
良ちゃんが自分で一人で君のお母あさんの所へ行って君を僕に貰って来て上げようかと、こないだ真面目に言っていた位なのですから、
君だったら死んだ綾子も満足していられるだろうと思います。
君にこんな事を言うのもおかしいが、僕がたとい自分の気に入った女性が見つかったにしても、
それが綾子に気に入りそうもない奴だったら、潔く諦らめてやろうと思っていた位でした。
しかし、その点君なら申し分ないと、君を知れば知るほど思っていますが、その方の自信はありますか?
本当にまだ自分は子供だなあと思うことは始終だけれど、僕はもう三十五(なんだか自分でも嘘みたいだけれど)にもなっているのだし、
これまで二つも三つも大きな人生を経験したあとですから、
自分に好きな人が出来てもその人にもう夢中になって逆上せあがるような事もない代り、
その人の性格や才能の好いところも悪いところも恐らくその人自身と同じ位に知った上で、
その人を本当に静かな気もちで好きになっていられるのです。
僕が君を愛している気持もそれに近いものです。
どうかそういう僕の気もちを分かって下さって、僕のなかの君のすがたに君自身も安心していて下さい。
綾子は死んでゆく前に、僕のいる前でね、お父さんに僕にいい人を持たせて上げて下さいと言い残していったのです。
それがもう最後の言葉になりはしないかと思うほど、死を前にして苦しんでいましたが、それから突然
「お父さんも本当に好い人だったし、
辰ちゃん(綾子もいつのまにか僕のことをそう呼んでいました、君もそのうち僕をそう呼ぶようにさせてやるから)も本当に好い人だったし、
私、本当に幸福だった」
となんだかそんな苦しみの中から一所懸命になって言って、それからそのまま最後の死苦のなかに入っていきました。
人間の最後の願望というものは恐ろしい力を持っているものだと、ラフカディオ・ハアンだかが書いていましたが、
それは確か人を呪いながら死んでいった者の話だったと思いますが、
それと反対にそれがたとい生き残った者への気やすめに言ったにせよ、私達のために本当に幸福だったと最後に言われたら、
その瞬間からその生き残った者たちはこの世に幸福というものがあるのだということを信ずるような気になると見えますね。
――僕は元来、いろいろ本を読んできたせいか、人生に対してかなり懐疑的で、
ともすれば生きていることの不幸を信ぜさせられて来ていましたが、
そのときから僕は人間の幸福――少くとも誰でも幸福な瞬間をもち得るものだということを、
少し逆説的にいうと、みんなのもっている不幸の最高の形式としてそういう幸福の瞬間をもち得るということを信ずるようになりました。
僕の仕事そのものの事なんぞあんまり分かって下さらなくともいいのです。
寧ろよく分からないなりに、それが決して馬鹿々々しいものでないという事だけ信じていてくれたらそれが一番好い。
作品のいい悪いに拘らず、苦しんでした仕事の報酬としては、
そういう無批判的に仕事のあとの僕をねぎらってくれる、温かい胸が何よりなのです。
ずっと前に死んだ僕のお母あさんのように、又、死んだ綾子だってそうであったように。
昭和13年2月4日(33歳※数えで35歳) 向島より 加藤多恵子宛
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きのうは君にへんに改まった手紙を書いてしまって、きょうになって考えると少し自分でもおかしい位です。
僕はちょっとも興奮していないよなどと言いながら、やっぱり少からず興奮していたと見えますね。
しかし、きょうはもう君が理科の人のところにお嫁に行きたかったんだなどと言っていた事を思い出して、
いかにも君らしいなと思って一人で笑っています。
しかしまあ、僕だって、たとい一番びりっかすでも、一高だけは理科を卒業したのですから、
君もね、君の夢が半分はかなったのだと思いたまえ。それでまあ、負けておくんだな。
そんな冗談はともかく、そんな事をはっきりと言う君が僕はとても好きなんだ。
これからも思っている事は何んでも僕に言う方がいい。
僕の君に対する一見淡々としたる如き、しかし中味の一ぱいつまった愛情を、何よりも信じていてくれたまえ。
そんなのは、今さら言うも愚か、君にはこれまでだってよく分かっていたのじゃない?
――首なんぞを振ると、それこそ僕はおこるよ。
昭和13年2月5日(33歳) 向島より 加藤多恵子宛
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きのうほんの型ばかりの式を挙げ、それから型ばかりの新婚旅行にこんなところに来ている
二三日うちに向島へ帰り、二十四日頃軽井沢に行くつもり
その前に一度君に会いたい、二十日午後芥川さんのところへ多恵子を連れてゆく予定だが、
そのついでに何処かで一しょに御飯をたべないか
昭和13年4月18日(33歳) 大森ホテルより 神西清宛
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漸っと気に入った別荘が見つかりました
すこし山の中なので多恵子や良ちゃんには少々気の毒ですけれど、
こう云う場所なら夏でも僕が仕事をしていられると思い、とうとうそれに決めました
軽井沢の水源地は御存知でしたかしら
あそこへ上ってゆく林道の一番はずれに数本の大きな樅の木にかこまれて二軒ばかり外人の別荘がある、その一つです
落葉松はもうすっかり新芽を出しましたが 楓や躑躅などこの二三日うちに漸っと芽を出しかけてきました
山の方では雉子がよく啼き、尾長や懸巣なんぞはしょっ中庭に参ります
この前の日曜日、追分に行ってきました
油屋の人達、元気でした
新築中の家、丸子町にあった古屋をそっくりそのまま建て直すのだそうですが、思ったよりしっかりした建物になりそうです
すぐ裏に小さな流れがありますがそれに沿うて僕たちの「むかしの家」を小さな亭のように建てたいなどと言っていました
昭和13年5月3日(33歳) 軽井沢より 室生犀星宛
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こないだは軽井沢で失礼しました 実は僕たちも今月の十五日から上京して居ります
父がちょっと脳溢血で倒れましたので まあ当分こちらに止まって看病して行くつもりで居りますから
若し君が僕たちの留守にでも軽井沢に行かれてはつまらないので一寸お知らせだけしておきます
又あちらに行ったらお便りします お母様や義ちゃん(※葛巻義敏)によろしく
昭和13年5月28日(33歳) 向島より 芥川比呂志宛 (※全文)
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昭和13年12月15日(33歳) 父・上條松吉死去(満65歳)
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きのうはおやじの百ヶ日だったので一寸お返しをしておいたのです
こんどは間借暮らしだがなかなか洒落ていていい そのうち遊びに来給え
立原(※道造)のところへも見舞に往きたくともなかなか往かれない
昭和14年3月25日付(34歳) 鎌倉町小町より 野村英夫宛
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昭和14年3月29日(34歳) 立原道造死去(満24歳)
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二十九日に立原(※道造)君が死んだ 本当にかわいそうな事をした
あんなに悪くならないうちにもう少し自分の病気に自覚できたらと思ったが、なかなかそれが出来ないんだね
旅行に出かける前日も逗子の僕達のところに来てくれたがとてもそのときは元気がよかった 僕なんぞ羨ましい位だった
立原君がもう絶望だときいてから三度しか見舞に行けず、しかもその一度は安静時間で面会できずに帰ってきてしまった
もっと見舞ってやりたかったが、僕も半病人なのでなかなか思うように見舞えなくって残念なことをした
六日に告別式をやるそうだ
君はどうしているの?元気かい?
僕なんぞは悪い悪いといいながらともかくもいつまでも生きられそうなので不思議だ
いつのまにかつとめて自分の身体に無理をさせないように習得したのかも知れないが、
それだけどうもがむしゃらになれなくって、なんだか淋しいような気もする
これからはもうこういう自分を自覚して、ぽつぽつ静かな落着いた仕事ばかりしていくほかはあるまい
まあ、いまのところ、そういう仕事を与えられそうなので、それだけは仕合わせのようだ。
昭和14年4月3日(34歳) 鎌倉町小町より 葛巻義敏宛
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蒲郡からのお便りを有難う この頃はお仕事ですか
多恵子はこの月はじめから弟が出張先で病気になりその看護に大阪へ行ったきりです なかなか大変らしく可哀そうです
僕もすこし身体をわるくし仕事をやめ毎日一人でふらふらしています
僕たちの小さな家が出来かかっています 出来上ったら遊びにきて下さい あまり厭人的になってはいけません
昭和15年4月15日(35歳) 杉並成宗より 佐藤(※中里)恒子宛 (※全文)
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お手紙を見ました 僕のきのう出した端書と行きちがいになりました
お手紙のこと、僕は何にも知りませんでした それほど一人ぼっちで暮らしているのです
東京ってかえって孤独を愉しめるところですね
昭和15年4月16日(35歳) 杉並成宗より 佐藤(※中里)恒子宛
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漸っと俊ちゃん(※加藤俊彦/多恵子の弟)の熱が下がってきた由、何よりです しかし充分に下がり切るまで用心が肝要です
僕はまあ元気でいますから御安心なさい
仕事はちっとも手をつけていない。いまのような生活状態と気候とではとても落ちついて仕事に向ってなんぞいられないのだよ
普請はかなり進捗し、どうやら家の恰好がつき出した
きょうは書斎の出窓をとりつけている どんな風になるのか二三時間おきぐらいに様子を見にゆくわけさ
わりあいに落ちついた部屋になりそうだ
たまに町を歩いているといろんなものが欲しくなって困るよ。青い絨毯だとか、同じ色の窓帷だとか、椅子だとか、小さな箪笥だとか、
――とうとう例のウィンヅル・チェアだけ思い切って買ってしまった
おとといは芥川さんの奥様が見えられ、ちょっとこの間じゅうから葛巻(※義敏)君の恋愛問題があって、その事でいろいろ御相談があった
きのうは又、恩地さんのお母さんが来られた こっちから伺おうと思っている先きに来られてしまったので閉口、苺をもってきて下さった。
二時間ばかりいろんな昔話――室生さんたちの結婚前の――をきかされたが面白かった
自分がこうして何んにもしないでじっとしていると、
自分を心棒にして、世の中の事が車輪のようにくるくると回転しているようでなかなか面白い
昭和15年4月18日(35歳) 杉並成宗より 堀多恵宛
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ゆうがた着いたら途中まで貢少年(あぶらやの腕白坊主)が一人で迎えに来ていて僕のカバンを持ってくれた
随分大きくなったものだ こちらに来てみると追分はやっぱり好い處だ
但し煙草もなんにもないのに閉口、インクや何かあした軽井沢へ買出しに行かなければならないかも知れない
十日頃、野村(※英夫)君やなんかと是非やってお出。又あとで書く。
昭和15年6月3日(35歳) 信濃追分油屋より 堀多恵宛 (※全文)
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…………とにかく皆、病気になんぞならず、元気で、それぞれの仕事を少しでも余計立派にできるようになりたいものだ
僕が考えていることなども、本当に形体をとるのはその位――或はもっとそれ以上――かかるのかと思うと、
それを果たさないでは死にたくないような気がし、やはり病身でいても、できるだけ病気にまいらないで、
長生きしていたいものだと思わずにはいられない
しかし仕事はどんな小さいのでも、しておいた方がいい どんな小さいものにでも自分の何かは残る
その自分の何であるかは神様に任して、残す努力を我々はすればいい
昭和16年1月17日(36歳) 杉並成宗より 葛巻義敏宛
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きのうお手紙とドイツからのお土産を確かに頂戴いたしました
お手紙よりもレオナルドの告知の天使の方が先きに着きましたので
丁度書見いたして居ったマリヤならぬ小生もいささかびっくりいたしました
「受胎告知」図はいかなる画家を問わず小生の好きな画題にて、いつか渾然たる小品にまとめたいと思って居ります位ですが、
本当に好いものを伊太利にて小生のためにお求めになって下さいました
京都の方へもそのうち遊びに行くつもりでいます
馬酔木の花のさく頃の奈良などをぶらぶら歩いて見たく思っていますが、その頃行けたら行きたいものですけれど、
相変らずの病身にてなかなか思うようには旅行が出来ません――
その頃まだ行けなければ、葵祭の頃の京都にでも行きたいなどと考えて居ります
昭和16年2月18日(36歳) 杉並成宗より 谷友幸宛
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七日からちょっと軽井沢に行き、姨捨、木曾をまわって昨日帰ってきたところだ
こんど軽井沢に小さな山小屋を買った、サナトリウムの奥の方の、ぼろ家だが芝生の庭だけちょっと綺麗なのが取柄だ
借金をして買ったのだが、まあこれで僕の隠居所が出来た
木曾の春はなかなかよかった 林檎の木が花ざかりだった。
昭和16年5月10日(36歳) 杉並成宗より 神西清宛
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僕たちは今月はじめあんまり暑くなったのでいそいでこちらに来てしまったら、毎日雨か霧です
しかし仕事をしている分にはあまり苦にもなりません こういう負け惜しみのところが僕の身上なのでしょう
多恵子はきのう自転車から落ちて泥まみれになった上、頭を打ったりして大騒ぎをしました
昭和16年 夏※月日未詳(36歳) 軽井沢1412より 佐藤(※中里)恒子宛
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十一日夕方 いま西の京にある唐招提寺の松林のなかでこれを書いている
此處はまあ日本で一番ギリシャ的なところだ
千年も立った金堂の円柱もギリシャのようだし、古い扉にはまだほのかに忍冬(アカンサス)の文様も残っている
そうして講堂の一隅には何處かギリシャ彫刻のような菩薩の首が古代の日日を夢みている――
まあそういったようなところだ。
書簡/昭和16年10月11日(36歳) 奈良西の京より 堀多恵宛 (※全文)
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この二三日、秋の日をあびながら、一人でぶらぶらと大和の村々を何んということもなしに歩いています。
天平時代の貴公子になったような気もちで……が、この貴公子、ときどき柿などを買って丸噛りをします。
昭和16年10月13日(36歳) 奈良より 葛巻義敏・満里子宛
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君はいま恐らく生れてはじめての涙を感じているのにちがいない それが君に本当の君の姿を見せてくれるような事になればいいが……
あの日記をよんだとき僕はここはすこしいけないなと思ったが、そのままもっと続けて読んでいるうちに、
あそこで立原(※道造)が君に与えられたと信じていた傷手(恐らく君自身にはそれが気づかれなかったのだろう)が、
それが君という具象的な相手からでなく、現実そのものから与えられたものとして考えられて、
僕にはそこに君の具象的な姿がなく、ただそのあとに残った立原の傷だけしか思い出せなかった、
――そのため、これはこのままでいいのだと考えていたのも事実だ、これは君も信じてくれ、
そして又それが日記の一番いい読み方であることも信じてくれるといい、
だが、君自身でそれを与えたとは少しも気づかなかった傷が数倍になって、いま、君に返ってきているのだ
いま君がどんなにつらく思っているか、よく分かる
だが、すべてを悪くとるな、あのとき君が悪かったのでもない、立原だって悪かったのではない、
ただあのとき互に孤独でいるべきものが誤って一しょにいた事が悪かっただけなのだ
いまから考えると、ただ君のまちがいは、あのとき一人でいることに我慢できずに立原のところまでいったのがいけなかった、
又立原も一人きりでいたかったのなら、最初の日に君を拒まなかった気弱さを自分に許したのがいけなかったのだ、
――それだけの事なのだ、君はそれを君自身の罪過のように考えるのはまちがいでもあるし、
立原がそんなことをいつまでも根にもっていたとは考えられない、事実又君に手を差し伸べていたではないか
ただ立原がそのとき偶然日記を書いていて、
それをどうしても書かずにいられなかった事として書きつけておいたのが困った問題として残っているが、
みんながそれを僕がよんだように読んでくれれば何んの事はないが、誰もがそうとはゆくまいから、それが君の傷手を大きくしないように、
寧ろ君が君の傷をもっと純粋に苦しむことが出来るように――何とかみんなで努力して見よう
こういう事が君を反省せしめて、君を一層好い君にさせるように願ってやまない
(※追伸)
全集(※立原道造全集)の仕事のことは、君に堪えられたら、手紙の方だけでも生田(※勉)君と継続してやって欲しい、
日記は杉浦(※明平)君と小山(※正孝)君にやって貰うにしても、ともかくも元気でいなければいけない
昭和16年10月20日(36歳) 奈良ホテルより 野村英夫宛
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きょう倉敷へいってきた
静かな美術館でエル・グレコの「受胎告知」の前でソファに三十分ほど腰かけて眺めているうちにいい気持で居睡りしてしまった
目がさめたら又自分がグレコの絵の前にいるのでとてもうれしかった
昭和16年12月5日(36歳) 神戸ホテルより 堀多恵子宛
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そちらは随分熱いだろうからなるたけ横着にしておれ
そして一日も早くこちらに来い
氷砂糖をもってこい
昭和17年7月23日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛
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僕も小屋に帰ってから、しばらく急に一人ぽっちになっちゃって淋しくって仕様がなかったが、
火を焚いているうちに、漸く気もちが落ち着いてきた、アミエル流にいうと焚火がいろいろなことを僕に話してくれるからなのだろう、
それは思い出であり、夢想であり、悲しみであったり、よろこびであったりする、
いずれにしても、快いものばかりである、――
はげしい周囲の世間の変様と、静かな充実した生との対比において、或小さな人生の姿を描きたい、
すこしも宗教的な匂いがなくて、しかも真に宗教的な諦めをもったような人々が描きたい
昭和17年10月1日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛
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“history”という言葉は大きくいえば「歴史」であり、小さくいえば「物語」だ
僕の考えている小説は一つのhistory(フランス語のhistoireという言葉の方がいいのだが……)だ
しかしそれに固有の二重の意味をもたせる、――つまり、大きな「歴史」(histoire)のなかに生きている小さな「物語」(histoire)なのだ
昭和17年10月4日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛
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そう、そう、こんやはお前はお能見物だったのだな。どうだったな。
僕は自分の小説だの、家の跡かたづけだのに夢中になっていて、お能のことなど忘れていたんだ。
お前のことを忘れていたのではない。お前はいつも僕の裡に、そんなよそゆきの姿ではなしに、
ふだんのままのお前の姿で、ずっといたのだよ。……
昭和17年10月5日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛
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お能は見ただけではそう面白いものではない
そのとき見たものを一つのimageとしてもっていて、何度となく思い出していてごらん、だんだん好くなってくるから……
昭和17年10月9日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛
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夕方別所に着いた。
すぐ温泉にはいって、いま貝づくめの夕食を了った どうも石器時代に退歩したようだ
いまに二十世紀の貝塚というのができるだろう
昭和18年2月3日(38歳) 別所温泉花屋より 堀多恵子宛
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雪はまだふりつづけている 今晩、いい加減でやんでくれないとことによったらあすは橇が出ないかも知れないそうだ
こんなところに籠城させられたら、どうも大へんなことになりそうなので、少々ひやひやしている
が、まあ、なんとかなるだろう
三時間ばかりの雪のなかの馬橇の旅――おまえと一しょだったら、とときどきおもいながら、
いろいろ野尻のことだの、上高地のことだの、考えつづけていた こんどの雪景色はいつかお前に見せてやりたいものだ――
森(※達郎)君は橇にすこし酔ってしまったようで、僕のほうがずっと元気がいい
腰の痛みも温泉のききめでか、けろりと直ってしまっている。
昭和18年2月3日夜(38歳) 志賀高原ホテルより 堀多恵子宛
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僕よりもさきに君(※津村信夫)が亡くなられるとはゆめにも思っていませんでした
おそらく君自身もそう信ぜられていたでしょう、
いつも僕の具合が悪くなる度に「堀さん、早く元気になって下さい」と手紙や朝巳(※室生朝巳)君などを通じて温かい言葉をよこされ、
それがいつも僕を微笑ませ、大丈夫、大丈夫と僕にいわせていました
しかしこれからも、あの津村君のしみじみと温かい声は僕には忘れられず、いつも僕を力づけてくれるでしょう
昭和19年6月30日(39歳) 軽井沢1412より 津村秀夫宛
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けさ多恵子上京、これから一週間ばかり一人ぼっちだ 鶏が四羽いるからそう淋しくもない
いま庭に椅子をもち出してアカシヤの木陰で朝の残りの冷たくなったトオストを噛じりながら此手紙を書きだしたところだが、
いかにもこうして生きていられるのが有難い気がする
しかし僕ももう四十を過ぎた
まだ五十までには大ぶ間があるが、それまでにひとつ好いライフ・ワアクを仕上げたいような気がしきりにし出している
これも恢復期の影響かも知れない
しかし悪いことじゃあないから大いにそういう気もちを自分でも大事にするようにしている
昭和19年8月29日(39歳) 軽井沢1412より 神西清宛
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この頃僕はますます無精になってしまった
こちらはもう御存知のような寒さだし、それに今年は燃料の不足で炬燵ひとつで我慢しなければならない
その炬燵というやつが一層僕を無精にさせるのだ
そうかといって雪の上や、小癪な(室生さんの形容)風のなかを歩きまわってくるほどの元気はない
どうもこの春の病気がひどく祟っているようだから、まあこの冬はいくら無精になってもいいことにしていようとおもう
きょうは僕の四十回目の誕生日だ
浅間や八ツは雪らしく、うす日があたったり、ちらちら雪が舞ったりして、炬燵にはいってこの手紙を書いていても、顔がつめたい
多恵子はいま僕のために一生懸命にお赤飯を炊いている
御馳走はなんにもなさそうだが、とにかくこうやって落ちついて、静かに、きょうを過ごせそうなことでもありがたいことなのだろうね
昭和19年12月28日(40歳) 信濃追分油屋隣より 葛巻義敏宛
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たべものなどは何かと不足がちですが、僕などは静かなことだけでもいいことだと思って、本ばかり読んで暮らしています
唯、またこの春すこし患いましたので、殆ど散歩に出られず、草花なども人に貰うのだけを愉しんでいるばかりです
よく花を採ってもってきてくれる少女の話だと、この春から新しい花をもう三十種ほども知ったそうですよ
多恵子はそんな花どころでなく毎日畑仕事に忙しがっています
五十坪ばかりの畑に、馬鈴薯、甘藷、葱、豆類、南瓜、唐黍、胡瓜、トマトなどつくり、この頃は毎日その野菜ものを楽しんで食べています
僕もときどきその畑ぐらいのところまで往ってみますが野菜の花も可憐なのがありますね
野菜の花は僕にはみんな初めて見る花のように見えました
ほんとうにいらっしゃれたら、一度こちらにお出でなさい 二三日位なら僕のところでお宿をしますから
その代り、なんにも御馳走はできません 多恵子の自慢の馬鈴薯ばかり食べさせますよ
昭和20年8月13日(40歳) 信濃追分油屋隣より 兼子らん子宛
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夏のはじめに君から貰った手紙の返事をいま、もうその夏の末になって、漸っと書く
どうもわれながら懶惰になったものだとあきれている
この夏のはじめ君から手紙を貰ったときはまだ病床で、ろくろく本も読めずに、毎日毎日ぼんやりと自分の若い頃のこと
――震災前の東京、本郷の寮から毎日のように上野、神田、それから日本橋の丸善あたりへかけて歩きまわったこと、
その頃読んだ本(ロシアの小説やフランスの象徴詩など)のこと、
――それから震災後、はじめて澄江堂(※芥川龍之介宅)へ訪れた折のこと、
魚眠洞(※室生犀星)や「驢馬」の人々のこと、
それから毎日君と全集の仕事をしながら夜は夜でほうぼう歩きまわっていた明るい町や暗い町のことなど、考えて暮らしていた
丁度その折君が澄江堂の焼失を知らせてくれたので、(大抵駄目だったろうとは思っていたが……)たいへん切なかった
何もかももう僕たちの追憶のなかで生きなければならなくなったのだね それもほんのときどきだけ……
多恵子は畑仕事に夢中、馬鈴薯は上出来だったが、そのあとに播いた蕎麦の芽が暑さのためとうとう出ず、悲観している
もちろん僕はなんにも手つだえないばかりか、家から二町ばかり離れたその畑へも歩いてゆくのが漸っとのことだ
四、五十坪ぐらいあるだろう
早く僕が元気になって、二人で肥桶をかついでゆけるようになるといい、というのが多恵子の唯一の空想らしい
僕もはやくその位元気になりたいものだ
昭和20年8月27日(40歳) 信濃追分油屋隣より 葛巻義敏宛
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私もこの春また少し患い数ヶ月寝ておりました しかし秋以来ずっと元気になりこの頃は漸く為事のことを考えるようになりました
これから急に蔓延しそうな悪思想のなかで古い静かな日本の美しさを守って行きたい気持で一ぱいです
昭和20年10月26日(40歳) 信濃追分油屋隣より 折口信夫宛
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僕もぽつぽつ仕事をはじめようかとおもっている 春先きが一番苦手なので、まだ用心している
河盛(※好蔵)君への義理で「新潮」に小説を書きかけたが、途中で駄目になり、随筆(※「雪の上の足跡」)でかんべんして貰った
これから「世界」と「人間」の小説が控えているので、気が重くてしょうがない
小林(※秀雄)君の「創元」はどうなっているのだろうか 小説を書く約束をしているが、その後一向様子が分からず、少し気になっている
いろんな雑誌の記者がわざわざ追分くんだりまで原稿を頼みにくるので、大弱りをしている
近在にいる知人たちが「高原」という季刊誌をはじめ、僕も引っぱり出され、平生何かと世話になっているので、お仲間入りをしたところ、
どうも僕などが中心になってやるような恰好(外見上)になってしまい、少々閉口している
こんど「四季」を再刊することになった
結局、みんなの希望で、当分僕がひとりで編集する というのも、本屋(角川書店)が僕の心やすくしている人だし、
いまのところ三十二頁の小冊子で行こうというので、それなら気らくだと思って、引きうけた
角川書店の主人、角川源義君は、もと青磁社の顧問をしていて、折口、金田一、桑田諸先生の本を出させた、
折口博士門下の新進国文学者で自分でも「悲劇文学の発生」という本を書いている、
――まだ三十ぐらいの若い人だが、こんど独立して出版をはじめた、あまり熱心なので、僕の全集を出す約束までしてある
いい本屋になるだろうとおもう
昭和21年3月8日(41歳) 信濃追分油屋隣より 神西清宛
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いろいろ勉強にいそしんでいられるようで何よりです
誰れか一人の作家のものを十分に読むことが一番大事です
誰れを選ぶかが問題でしょうが(むしろ誰れに選ばれるかということになるのかも知れない……)
昭和21年4月27日(41歳) 信濃追分油屋隣より 遠藤周作宛
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おととい日塔(※聡)君が訪ねてきた そのとき君が大ぶ苦しそうな様子の話だったのでお案じしている
僕の方も相変らずの微熱と頻繁な喀血になやまされている どうにもしようがないので ただもうおとなしく寝ている
僕も頑張るから君も大いに頑張ってくれたまえ
多恵子が何か君に食べられるものを送りたいといっているが
山の中でなんにもないから同封のもので何か好きなものを買って食べてくれたまえ
返事なども無理に書かないでくれたまえ
昭和23年6月12日(43歳) 信濃追分油屋隣より 野村英夫宛 (※全文)
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長篇(※「風土」)完成のよし僕もうれしく思います
はやく上梓せられるといいのですが僕にもお力添えできるような事でもあったら遠慮なくおっしゃって下さい
僕もまあいまのところ無事です お互にできるだけ頑張りましょう
まだこちらに神西君、中村(※真一郎)君、加藤道夫君などが滞在していて、それぞれ仕事をしています
はたから見ていると仕事というものは大へんなものだなあとつくづく思います
昭和23年9月17日(43歳) 信濃追分油屋隣より 福永武彦宛
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わが茅屋はいま杏や李の花ざかりです ことしは花がたいへん「いそいでいる」と村の人達が云っているとか
きょうはこれからタラの芽の天ぷらを食べるところ
李の木に巣箱をいたずら半分しかけておいたら
このごろ毎日頬白(ほおじろ)がつがいで来てせっせと巣をつくり出しているのがかわゆらしい
昭和25年5月9日(45歳) 信濃追分油屋隣より 久津多恵子宛
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毎日ホトトギスばかり啼いていて聞きづらいほどだ
池にはあやめの花が咲きかおっているのも、おあつらえむきだが、
どうも夕方などひどく咳き込みながら、それに見入っているのは、新古今的どころではないや
昭和25年6月17日(45歳) 信濃追分油屋隣より 神西清宛
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僕の病状はtardifな春のように一進一退しています
昭和26年4月1日(46歳) 信濃追分油屋隣より 加藤周一宛
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僕の方も相変らずの工合にて「塚より外に住むばかり」
これから冬ともなれば一層観念して寝ているよりほかはない
毎年七月になると君に頂戴した芥川さんの掛軸を眺めて又一年生きのびたかと感慨無量なり
昭和26年12月12日(46歳) 信濃追分より 葛巻義敏宛
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新春を賀したてまつる、御新居の趣いかが、こちらも近年になく暖な正月を二人とも元気にむかえました
加藤道夫君暮より油屋に滞在、只今僕の曠野(あらの)をラジオ・ドラマに仕組んでいる由、
御返却のもの確かに落掌、今後のため却ってよろしからん
追伸、夕食後に前便をしたためておいたら、多恵子に「なんてけちな手紙、もうすこし何んとかお書きなさいな」といわれ、
こんどは臥床したなり書くが、この冬はきわめて閑適で、書くこともないのだ、
昭和27年1月5日(47歳) 信濃追分より 神西清宛
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僕はあれからずっと一週間おきぐらいに「薔薇の花ほど」小さな喀血をつづけていました まだ用心中です
この二三日うちに急にコブシや梅が咲き出しました しかしどうも春は苦手です
昭和28年4月29日(48歳) 信濃追分より 三好達治宛 (※最終書簡)
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昭和28年5月28日午前1時40分(満48歳) 信濃追分の自宅にて永眠
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