~優しき歌~心に響く堀辰雄の言葉
 堀辰雄がこの世に残していった印象深い言葉たちを書き連ねています。
このコーナーが、誰かにとって堀辰雄の書を開くきっかけのひとつとなるのなら、私にとっては何よりのよろこびです。

作品から
管理人は後期作品が圧倒的に好きなので、後半になればなるほど引用文が長く長~くなってゆきます。ご了承ください。
イチオシはやっぱり「大和路・信濃路」シリーズ。あの独特のスローな文体と、時を忘れたような旅路の相性はとてもいい。


詩(帆前船)/詩(僕は…)/詩(病)/「不器用な天使」/「死の素描」/「ルウベンスの偽画」/「聖家族」/「恢復期」/「燃ゆる頬」/「麦藁帽子」/「旅の絵」/

「美しい村~夏」/「風立ちぬ~序曲」/「風立ちぬ~春」/「風立ちぬ」/「風立ちぬ~冬」/「風立ちぬ~死のかげの谷」/

「巣立ち」/「おもかげ(原題・麦秋)」/「姨捨」/「晩夏」/「朴の咲く頃」」/「菜穂子」/「四葉の苜蓿」/「曠野」/「幼年時代~花を持てる女」/

「大和路・信濃路~樹下」/「大和路・信濃路~十月」/「大和路・信濃「~古墳」/「大和路・信濃路~斑雪」/「大和路・信濃路~辛夷の花」/

「大和路・信濃路~浄瑠璃寺の春」/「大和路・信濃路~橇の上にて」/「大和路・信濃路~『死者の書』」/「雪の上の足跡」


雑記・エッセイ等から
芥川龍之介経由で堀辰雄にハマっていった管理人としては、チョイスが芥川さんネタにかたよってしまうのは致し方なし。
ただ、彼が師・芥川について語っている作品は案外少なくて、ここに載せているものがそのほとんど。
その数少ない言葉たちが、しかしどれほど亡き師の心に寄り添い、その魂を慰めていることか。

「芥川龍之介論」/「新人紹介」/日記(昭和4年8月30日)/「詩人も計算する」/「詩的精神」/「室生さんへの手紙」/「小説のことなど」/「二人の友」/

「『聖家族』限定版に」/「狐の手套~芥川龍之介の書翰に就いて」/「二三の作品に就いて」/「高原にて」/「美しかれ、悲しかれ」/

「エマオの旅びと(原題・心に迫る芥川の言葉)」/「伊勢物語など」/「若菜の巻など」/「黒髪山」/「姨捨記」/「『古代愛感集』読後」/「二三の追憶」


書簡から
堀辰雄という人物の魅力を伝えたい管理人としては、何はさておきこの書簡コーナーをいちばん読んでもらいたい。
彼の人となり、その生涯、そしてその心の軌跡をおおまかに(あくまでもおおまかに)辿れる構成にしたつもりです。
(書簡の背景にあった出来事の補足説明等はここではあえてしていません。年譜ページをご参照ください)

大正12年~昭和28年まで
宛先:神西清・上条壽則(義父)・室生犀星・矢野綾子・立原道造・堀多恵子(加藤多恵)・恩地三保子・佐藤(中里)恒子・芥川比呂志・野村英夫・
葛巻義敏・谷友幸・津村秀夫・兼子らん子・折口信夫・遠藤周作・福永武彦・久津多恵子・加藤周一・三好達治


追憶から
多恵子夫人をはじめ、その周辺にあった人々の思い出のなかで響きつづける、堀辰雄の言葉たち。

「高原の人」神西清/「静かな強さ」神西清/「白い花」神西清/「詩人・堀辰雄」室生犀星/「回想断片~下町と山の手」阿比留信/「堀さんの旅」日塔聡

「美しい世界」中島健蔵/「二つの思い出」河盛好蔵/「霜」北畠八穂/「雉子日記・堀辰雄詩集」野村英夫/

「堀辰雄」中村真一郎/「対談・思い出すことなど」中村真一郎/「堀辰雄展に寄せて」中村真一郎/

「色鉛筆」中里恒子/「柘榴を持つ聖母の手」中里恒子/「終の栖」中里恒子/「二つの問題~堀辰雄のエッセイについて」遠藤周作/「神々と神と」遠藤周作/

「辰雄の思い出~晩年の辰雄」堀多恵子/「山暮らし」堀多恵子/


※「堀辰雄全集」筑摩書房版を参考にしました。「作品」は小説、小品、初期作品(詩)から、「雑記・エッセイ」は随筆、エッセイ、雑纂、初期作品他から選んでいます。
※基本的に発表年順(出版順)にならべています。「追憶から」コーナーは管理人判断で順不同にならべてます。

※読みやすさ優先のため旧仮名遣いを現代仮名遣いに、また漢字も「對」→「対」、「體」→「体」など使用頻度の高い現代漢字がある場合それに直しています。
※文章は管理人判断でざっくり
抜粋して紹介してます。前後の文脈が断ち切られているゆえ原文とニュアンスが異なる場合があるかもしれませんがご了承ください。
※省略した箇所は一行空き、あるいはひとまわり小さい(……)で「略」の代りとしています。
※詩は全文載せてます。その他作品、書簡で全文を載せている場合は、タイトルのあとに(※全文)と表記しています。
※難読と思われる漢字で原文にルビのついてないものについては、漢字のあとのひとまわり小さい()内に読み方を書いています。
※作品名や人物名の補足説明などもひとまわり小さい(※)で表記しています。


作品から


よごれた古本屋町に
ぼくの思想を ぽかぽか温めてくれる 日向のような書物はないかと
一軒一軒 むだに尋ね倦ぐねて おろおろに草臥れてしまった
ふいにその時 僕は帆前船(ほまえせん)が欲しくなった

子供部屋でたびたび見かける あの小型の帆前船が どこかに無いか
港にはとおい ここら辺の
オモチャ店の見世先にでも 気まぐれに碇泊していはしないか……

十二月の寒い町で
こんな季節はずれの 帆前船を 欲しがっている気持を僕は
洋食屋の温かい料理のなかで やっと解ごした
詩「帆前船」習作より


僕は歩いていた
風のなかを

風は僕の皮膚にしみこむ

この皮膚の下には
骨のヴァイオリンがあるというのに
風が不意にそれを
鳴らしはせぬか


硝子の破れている窓
僕の蝕歯よ
夜になるとお前のなかに
洋燈がともり
じっと聞いていると
皿やナイフの音がしてくる
詩「僕は……


僕の骨にとまっている
小鳥よ 肺結核よ
おまえが嘴で突つくから
僕の痰には血がまじる

おまえが羽ばたくと
僕は咳をする

おまえを眠らせるために
僕は吸入器をかけよう


苦痛をごまかすために
僕は死にからかう
犬にからかうように

死は僕に噛みついて
彼の頭文字を入墨しようと
歯を僕の前にむき出す
詩「病」


今まで経験したことのない気持が僕を引ったくる。僕はそれが苦痛であるかどうか分らない。

僕の顔の上にまださっき伝染した微笑の漂っているのを感じる。

しかし僕はそういう自分自身の表面からも僕が非常に遠ざかってしまっているのを感じる。
それによって潜水夫のように、僕は僕の沈んでいる苦痛の深さを測定する。
そして海の表面にぶつかりあう浪の音が海底にやっと届くように、音楽や皿の音が僕のところにやっと届いてくる。
「不器用な天使」


夜がくると、僕には僕の悲しみがはっきりと見え出す。

僕は何処でもかまわずに歩く。僕はただ自分の中に居たくないために歩く。
「不器用な天使」


――僕はあなたに悪い報告をしなければなりません。僕はもう死んでしまいましたよ。
しかし、死んでいることと、生きていることは、一体どう違うんでしょう?
これからも僕は、何時でも行きたい時には、あなたのところへ行くことが出来ます。
ただ、あなたの方から僕のところへ来られなくなっただけは不便ですね。

或る詩人がこう言っています。
生きているものと死んでいるものとは、
一銭銅貨の表と裏とのように、非常に遠く、しかも非常に近いのだ、と……
「死の素描(デッサン)


悪い音楽。たしかにそうだ。
彼を受持っているすこし頭の悪い天使がときどき調子はずれのギタルを弾きだすのにちがいない。
彼は自分の受持の天使の頭の悪さにはいつも閉口していた。
彼の天使は彼に一度も正確にカルタの札を分配してくれたことがないのだ。
「ルウベンスの偽画」


それは九鬼の名刺だった。
「自分の名刺がありませんので……
そう言って、もの怖じた子供のように微笑しながら、彼はその名刺を裏がえし、そこに
河野扁理
という字を不恰好に書いた。
それを見ながら、さっきからこの青年と九鬼は何処がこんなに似ているのだろうと考えていた細木夫人は、
やっとその類似点を彼女独特の方法で発見した。
――まるで九鬼を裏がえしにしたような青年だ。
「聖家族」


――どちらが相手をより多く苦しますことが出来るか、私たちは試してみましょう……

――この人もまた九鬼を愛していたのにちがいない、九鬼がこの人を愛していたように。と扁理は考えた。
しかしこの人の硬い心は彼の弱い心を傷つけずにそれに触れることが出来なかったのだ。
丁度ダイアモンドが硝子に触れるとそれを傷つけずにはおかないように。
そしてこの人もまた自分で相手につけた傷のために苦しんでいる……
「聖家族」


どこへ行ってもこの町にこびりついている死の(しるし)――それは彼には同時に九鬼の影であった。
そうして彼にはどうしてだか、九鬼が数年前に一度この町へやってきて、今の自分と同じように誰にも知られずに歩きながら、
やはり今の自分と同じような苦痛を感じていたような気がされてならないのだ……

そうして扁理はようやく理解し出した、
死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きていて、いまだに自分を力強く支配していることを、
そしてそれに気づかなかったことが自分の生の乱雑さの原因であったことを。

そうしてこんな風に、すべてのものから遠ざかりながら、
そしてただ一つの死を自分の生の裏側にいきいきと、非常に近くしかも非常に遠く感じながら、
この見知らない町の中を何の目的もなしに歩いていることが、扁理にはいつか何とも言えず快い休息のように思われ出した。
「聖家族」


「おお、太陽よ、おれも昨日までは苦痛を通して死ばかり見つめていたけれども、
今日からはひとつこの黒眼鏡を通してお前ばかり見つめていてやるぞ!」
「恢復期」


私はときどきその寄宿舎のことを思い出した。
そして私は其処に、私の少年時の美しい皮膚を、丁度灌木の枝にひっかかっている蛇の透明な皮のように、
惜しげもなく脱いできたような気がしてならなかった。
「燃ゆる頬」

 
私はあらゆるスポオツから遠ざかった。私は見ちがえるようにメランコリックな少年になった。
私の母が漸く、それを心配しだした。
彼女は私の心の中をそれとなく捜る。そしてそこに一人の少女の影響を見つける。
が、ああ、母の来るのは何時もあんまり遅すぎる!
「麦藁帽子」


小さなトランクひとつ持たない風変りな旅行者の一種独特な旅愁。
――私はさっぱり様子のわからない神戸駅に下りると、
東京では見かけたことのない真っ白なタクシイを呼び止め、気軽に運賃をかけ合い、
そこからそうしつけている者のように、元町通りの方へそれを走らせた。

元町通り。店々が私には見知らない花のように開いていた。
「旅の絵」


突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅(つつじ)の茂みの向うの、別館の窓ぎわに、
一輪の向日葵が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、
まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。
私はやっと其処に、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せぎすな、
一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。


私はしばらく、今しがたまでその少女が向日葵のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚(うつろ)になった眼ざしをやっていたが、
ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。
私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂いが漂い出しているのだった。……
「美しい村~夏」


それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、
私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。
そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、
遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。
ようよう暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……
「風立ちぬ~序曲」


四月下旬の或る薄曇った朝、停車場まで父に見送られて、私達はあたかも蜜月の旅へでも出かけるように、
父の前はさも愉しそうに、山岳地方へ向う汽車の二等室に乗り込んだ。
汽車は徐かにプラットフォームを離れ出した。
その跡に、つとめて何気なさそうにしながら、ただ背中だけ少し前屈みにして、
急に年とったような様子をして立っている父だけを一人残して。――
「風立ちぬ~春」


――あなたのいつか仰しゃったお言葉を考え出したら、すこうし気が落ち着いて来たの。
あなたはいつか私にこう仰しゃったでしょう、
――私達のいまの生活、ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって……

彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらぬほど胸が一ぱいになり出した私は、
しかし、そういう自分の感動した様子を彼女に見られることを恐れでもするように、そっとバルコンに出て行った。
そしてその上から、嘗て私達の幸福をそこに完全に描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た
――しかしそれとは全然異った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深味のある光を帯びた、
あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。
あのときの幸福に似た、
しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じながら……
「風立ちぬ」


一つの主題が、終日、私の考えを離れない。
真の婚約の主題――二人の人間がその余りにも短い一生の間をどれだけお互に幸福にさせ合えるか?
抗いがたい運命の前にしずかに頭を項低(うなだ)れたまま、互に心と心と、身と身とを温め合いながら、
(なら)んで立っている若い男女の姿、
――そんな一組としての、寂しそうな、それでいて何処か愉しくないこともない私達の姿が、はっきりと私の目の前に見えて来る。
「風立ちぬ~冬」


私は、いつかの初夏の夕暮に二人で切ないほどな同情をもって、
そのまま私達の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺め合っていた、
まだその何物も消え失せていない思い出の中の、それ等の山や丘や森などをまざまざと心に蘇らせていたのだった。

「あのような幸福な瞬間をおれ達が持てたということは、それだけでもうおれ達がこうして共に生きるのに値したのであろうか?」
「風立ちぬ~冬」

 
「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」
と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。
「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……
と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩(おお)うように、
雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……

漸っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、
一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。
が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。
そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、
谷間の雪明りとひとつになっていた。
「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」

――だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。
おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許(ばか)りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、
おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。
そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているかもしれないのだ……
「風立ちぬ~死のかげの谷」


それから彼はいままでそんな事を一度もしたことがないのに、急に彼女の手をとって、それを自分の両手でおさえた。
「ほら、いつも冷たい僕の手がきょうはこんなに温かいよ。どうしてだか分る?」
…………
彼女は黙ってうなずいた。
そうして自分の手をいつまでも彼の手の中に任せながら、そのいつにない温か味の中に、
さっきの小鳥が残していった生命の燃焼のほとぼりらしいものを、
何とも云えずうれしく感じていた。
「巣立ち」


他のところは音もなく過ぎる六月の軟かな微風も、その実の熟れた麦と麦との間を渡るときだけは、
ざわざわと一種特別な、どこか秋風めいた音を立てて過ぎた。
「麦秋」――
そんな言葉がふいと伸子の口を衝いてでた。ああ、麦秋というのはこんな感じをいうんだな、と彼女はおもった。

すべてのものが初夏の、明るい、もう暑いほどな、気はいを見せているなかで、
(彼女には、その唯一の例外のように、アトリエの荒れ果てた庭の狂おしいような花の簇がりようが、ふいと無気味なように浮んだ……
麦畑だけがいかにも冷え冷えとした感じを漂わせている。
それがなんだか、ふいといまの自分自身の姿のような気がした。
まだ二十五やそこいらで、どんなところへも嫁いでゆける身なのに、
自ら好んで、一生を病気で過ごすかも知れないような弘なんぞの傍に、
一生を委ねようとしている自分自身が、自分でもふいと淋しくなった。
しかも、その弘には既に愛する人があった。どうせ自分なんぞは……

「何もかもいいわ……
そんなことを言っていそうな、夭折した人の絵姿が浮んだ。
「本当に私、ときどきいけなくなるわ」伸子は思い返した。
自分にはこれから幸福に、でなくとも少くもこの人生を居心地よくさせてあげなければならない人があるのだ。
そしてそれだけがまた自分を幸福にさせてくれるのだ。
自分はいま自分の前に立ちあらわれるすべてのものを、もっと深い悲しみをもってなりと、もっと大きな気もちで、
心から素直に受けいれなければならない……

もうずっと麦畑から遠ざかっているのに、
さっきその中を通り抜けてきた、黄いろく熟れた実のざわざわいう音がまだ彼女の耳には残っていた。
「おもかげ」※原題「麦秋」


女はもう自分の運命が自分の力だけではどうしようもなくなって来ている事に気がつかずにはいられなかった。
しかし、そういう境界の変化も、此女の胸深くに根を下ろしている、昔ながらの夢だけはいささかも変えることは出来なかった。
女は自分の運命が思いの外にはかなく見えて来れば来る程、一層それを頼りにし出していた。
「こういう少女らしい夢を抱いたまま、埋もれてしまうのも好い」
――そうさえ思って、女は相不変、几帳のかげに、物語ばかり見ては、はた目にはいかにも無為な日々を送っていた。
「姨捨」


女の一向(ひとむき)になって何かを堪え忍んでいようとするような様子は、いよいよ誰の目にも明らかになるばかりだった。
しかし、もう一つ、そう云う女の様子に不思議を加えて来たのは、
女が一人でおりおり思い出し笑いのような寂しい笑いを浮べている事だった。
――が、それがなんであるかは女の外には知るものがなかった。
「姨捨」


「私の生涯はそれでも決して空しくはなかった――
「姨捨」


「Zweisamkeit!……」そんな独逸語が本当に何年ぶりかで私の口を衝いて出た。
――孤独の淋しさ(アインザアムカイト)とはちがう、が殆どそれと同種の、
いわば差し向いの淋しさ(ツワイザアムカイト)と云ったようなもの、
そんなものだって此の人生にはあろうじゃあないか?
「晩夏」


いまの自分と全くかかわりのないような人たちの運命の浮沈が、
それが自分には何んのかかわりもない故に、反って切ないほどはっきりと胸に浮んで来て、いかんともしがたかった。

私はなかなか寝つかれないまま、けさ歩きまわっていたその谷じゅうに自分の持って行き場所のない想いをさまよわせていたが、
そのうちふいにそれが一つのものに落着いたように、その谷かげで見つけた朴の木の花が急に鮮かに浮んで来た。
私はおもわず何かほっとしながら、
その真白い、いい匂いのする花でもって自分のどうにもならない心をすっかり占めさせて行った。
「朴の咲く頃」


「このまんま死んで行ったら、さぞ好い気持ちだろうな。」
彼はふとそんな事を考えた。
「しかし、お前はもっと生きなければならんぞ」
と彼は半ば自分をいたわるように独り言ちた。
「どうして生きなければならないんだ、こんなに孤独で?こんなに空しくって?」
何者かの声が彼に問うた。
「それがおれの運命だとしたらしようがない」
と彼は殆ど無心に答えた。
「菜穂子」


最初、雪煙がさあっと上がって、それが風とともにひとしきり冷たい炎のように走りまわった。
そして風の去るとともに、それもどこへともなく消え、そのあとの毳立(けばだ)ちだけが一めんに残された。
そのうちまた次ぎの風が吹いて来ると、新しい雪煙が上がって再び冷たい炎のように走り、
前の毳立ちをすっかり消しながら、そのあとにまた今のとほとんど同じような毳立ちを一めんに残していた……
「おれの一生はあの冷たい炎のようなものだ。
――おれの過ぎて来たあとには、一すじ何かが残っているだろう。
それも他の風が来るとあとかたもなく消されてしまうようなものかもしれない。
だが、そのあとにはまたきっとおれに似たものがおれに似た跡を残して行くにちがいない。
ある運命がそうやって一つのものから他のものへと絶えず受け継がれるのだ……
「菜穂子」


四葉の苜蓿は 人の近づく跫音(あしおと)に 耳を傾けている

そう、四葉の苜蓿の方からすれば、本当にそういう焦れったさだろう。
だが、人一倍勘の悪い私なんぞにはそんな幸福の合図なぞには気がつきそうもない。
「四葉の苜蓿(クローバー)


不意に草の上を撫でるようにしていた老婦人の手がすうっと何かに引き寄せられでもするように動くと、
もう四葉の苜蓿を捜しあてていた。
ターバンを巻いた老婦人はそれを受取ると、にこにこ笑いながら自分の胸のボタンの孔にそれを挿し込んでいた。……
私はひさしぶりにそんな好ましい情景を見かけながら、しかもそれが自分の母親ぐらいの年恰好の独逸人らしい老婦人たち――
昔の、そのまた昔の少女たち――によって行われているのに、すっかり感動しながら、
何か自分までもその傍を通っただけで彼女たちの幸福の割前にあずかることの出来そうな感じさえした。
「四葉の苜蓿」


あの妙に不吉なような音、
人の魂を慰めようとするようにヴァイオリンの長く引きのばされた音の中に何処からか不意に飛びこんできたあの奇妙な音、
そんな不意打ちにすっかり怯えながら、もうそのヴァイオリンを手にすることさえ出来なくなってしまっている少女、
あの髪の黒い、目の大きな、印象の深い少女。
――ああ、何もごまかすことの出来ない、それほど純な少女の心……
私はもう少女らしい少女なんぞというものは少くとも自分にとっては此の世に存在しないのかと考えがちであったのに、
今夜ひさしぶりに一人の少女が見事に少女そのものになって見せてくれたことに、
何よりも、彼女の音楽の妙技以上に感動しながら、すこし雨の降っている中をそれさえかえって快く感じながら、
そしていつものパイプを口に啣えることさえ忘れながら、わが家の方へ帰って行った。
「四葉の苜蓿」


「あの方さえお為合(しあわ)せになっていて下されば、わたくしは此の儘(まま)朽ちてもいい。」
そう思うことの出来た女は、かならずしも、まだ不為合せではなかった。
曠野(あらの)


もう昔の女には逢われないのだと詮(あきら)め切ると、それまで男の胸を苦しいほど充たしていた女恋しさは、
突然、いい知れず昔なつかしいような、殆ど快いもの思いに変りだした。
……


すべては失われてしまったのだ。
男は其処にいた。其処にいたことはたしかだ。
それを女にたしかめでもするように、男の歩み去った山吹の茂みの上には、
まだ蜘の()が破れたままいくすじか垂れさがって夕月に光って見えた。
女はその儘(まま)(あば)らな板敷のうえにいつまでも泣き伏していた。……
曠野(あらの)


私はこんな場末の汚い墓地に眠っている母を何かいかにも自分の母らしいようになつかしく思いながら、
その一方、また、自分のそばに立ってはじめてこれからその母と対面しようとして心もち声も顔もはればれとしているような妻を
ふいとこんな陰鬱な周囲の光景には少し調和しないように感じ、
そしてそれもまたいいと思った。
いわば、私は一つの心のなかに、過去から落ちてくる一種の(かげ)りと、同時に自分の行く末から差し込んでくる仄あかりとの、
そこに入りまじった光と影との工合を、何となしに夢うつつに見出していた。
「幼年時代~花を持てる女」


「自分がお母さんのために何をしようとしまいと、いってみればお母さんのことなど考えようと考えまいとおんなじだ、
といったように、お母さんというものに安心し切っていられたのだ。
だが、すべてを知ってみると、なんだかお母さんの事がかわいそうでかわいそうでならなくなる。
このころ漸っとおれにはお母さんの事が身にしみて考えられるようになってきたのだ。……
こんな場末の汚い寺の、こんな苔だらけの墓の中に、おまけに生前に見たこともないような人達と一しょになって、
――と云うよりも、その侘びしい墓さえ、いまの私には、いわば、自分にとってかけがえのないものに思われた。

これまでの長い一生、震災で私の母を失ってからの十何年かの淋しい独居同然の生活、
ことに病身で、殆ど転地生活ばかりつづけていた私を相手のたよりない晩年、
――かなりな酒好きで、多少の道楽はしたようだが、どこまでもやさしい心の持ち主だった父は、
私の母には常に一目置いていたようである。
それは母の亡くなったのちも、母のために我儘にせられていた私を前と変らずに大事にし、一たびも疎略にしなかったほどだった。
私はその間の事情はすこしも知らなかったけれども、
いつも父の愛に信じ切ってそれに裏切られたことはなかったのだった。

その父をも晩年に充分にいたわってあげることのできなかった自分を思うと、何んともいいがたい悔恨が私の胸をしめつけて来た。
私はしばらくそれを怺えるようにして、父母の墓の前にじっと立ちつくしていた。
「幼年時代~花を持てる女」


あれは一体、何んの樹だったのだろうか?……
そんなことをおもいながら、私はふと樹下思惟という言葉を、その言葉のもつ云いしれずなつかしい心像を、
身にひしひしと感じた。あれは一体、何んの樹?
……だが、あの大きな樹の下で、ひとり静かに思惟にふけっていたもの――
それはあの笹むらのなかに小さな頭を傾げていた石仏だったろうか?
それとも、それに見入りながらその怪しげな思惟像をとおしてはるか彼方のものに心を惹かれていた私のほうではなかったろうか?
「大和路・信濃路~樹下」


ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、
何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。
なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、
自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、
――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、
やっとのことで、その彫像をうしろにした。
「大和路・信濃路~十月」


金堂も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。
そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、
軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。

自分がこのまえに見たものをそこにいま思い出しているのに過ぎないのか、それともそれが本当に見え出してきたのか、
どちらかよく分からない位の仄かさで、いくつかの花文がそこにぼおっと浮かび出していた。……
それだけでも僕はよかった。何もしないで、いま、ここにこうしているだけでも、僕は大へん好い事をしているような気がした。
だが、こうしている事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまう僕たち人間にとって、
いつまでも好い事ではありえないことも分かっていた。
「大和路・信濃路~十月」


最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、
その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。
僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。
僕は異様に心が躍った。
そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。
その太い柱の深部に滲み込んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。

僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅いでみた。
日なたの匂いまでもそこには幽かに残っていた。……

僕はそうやって何んだか気の遠くなるような数分を過ごしていたが、
もうすっかり日が暮れてしまったのに気がつくと、ようやっと金堂から下りた。
そうして僕はその儘(まま)、自分の何処かにまだ感ぜられている異様な温かみと匂いを何か貴重なもののようにかかえながら、
既に真っ暗になりだしている唐招提寺の門を、いかにもさりげない様子をして立ち出でた。
「大和路・信濃路~十月」


僕は歩きながらいま読んできたクロオデルの戯曲のことを再び心に浮かべた。
そうしてこのカトリックの詩人には、ああいう無垢な処女を神へのいけにえにするために、ああも彼女を孤独にし、
ああも完全に人間性から超絶せしめ、
それまで彼女をとりまいていた平和な田園生活から引き離すことがどうあっても必然だったのであろうかと考えてみた。
そうしてこの戯曲の根本思想をなしているカトリック的なもの、ことにその結末における神への賛美のようなものが、
この静かな松林の中で、僕にはだんだん何か異様(ことざま)なものにおもえて来てならなかった。
「大和路・信濃路~十月」


月光菩薩像。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、
その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。
何んという慈しみの深さ。
だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹の哀愁のようなものが漂っており、
それがこんなにも素直にわれわれをこの像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……
一日じゅう、たえず人間性への神性のいどみのようなものに苦しませられていただけ、
いま、この柔かな感じの像のまえにこうして立っていると、そういうことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。
「大和路・信濃路~十月」


日本に仏教が渡来してきて、その新らしい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、
古代の小さな神々の侘びしいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。
それらの流謫の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新らしい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、
それをその小説の主人公にするのだ。なかなか好いものになりそうではないか。
「大和路・信濃路~十月」


僕は数年まえ信濃の山のなかでさまざまな人の死を悲しみながら、リルケの「Requiem(レクイエム)」をはじめて手にして、
ああ詩というものはこういうものだったのかとしみじみと覚ったことがありました。
――そのときからまた二三年立ち、或る日万葉集に読みふけっているうちに一連の挽歌に出逢い、
ああ此処にもこういうものがあったのかとおもいながら、なんだかじっとしていられないような気もちがし出しました。
それから僕は(しず)かに古代の文化に心をひそめるようになりました。
それまでは信濃の国だけありさえすればいいような気のしていた僕は、
いつしかまだすこしも知らない大和の国に切ないほど心を誘われるようになって来ました。……
「大和路・信濃路~古墳」


セガンティニには、アルプスの高原の自然のなかに――
いわば人間の住める自然のぎりぎりの限界のようなところに人間を置いて描いているような絵が多いが、
その絵がどれもこれも妙に人なつこい。
人間の世界から離れれば離れるほど、そしてそこに描かれてあるアルプスの風景がいよいよきびしければきびしいほど
セガンティニの絵のもっている人なつこさはいよいよ切実になってくる。

……そうだ、僕がさっき草原に立った木をしみじみと見ているうちに、ふいと何か思い出させそうで思い出せずにいたもの、
そのために知らず知らず心を一ぱいにさせていたもの、それはそんな木の或る格好ばかりではなしに、
こういう高原のなかに生を得ているすべての小さな生きもののもっている深い味なのだ。
それらのものは、ちょっと見ると、何か近づきがたいような孤独の相を帯びてみえるけれど、
それらのものほど人なつこいものはないのだ。
それほど切実に、存在の本質にあこがれているものはないのだ。……
「大和路・信濃路~斑雪(はだれ)


いま、僕たちの乗った汽車の走っている、この木曾の谷の向うには、
すっかり春めいた、明かるい空がひろがっているか、それとも、うっとうしいような雨空か、
僕はときどきそれが気になりでもするように、窓に顔をくっつけるようにしながら、谷の上方を見あげてみたが、
山々にさえぎられた狭い空じゅう、どこからともなく飛んできてはさかんに舞い狂っている無数の雪のほかにはなんにも見えない。
そんな雪の狂舞のなかを、さっきからときおり出しぬけにぱあっと薄日がさして来だしているのである。
それだけでは、いかにもたよりなげな日ざしの具合だが、
ことによるとこの雪国のそとに出たら、うららかな春の空がそこに待ちかまえていそうなあんばいにも見える。……

もう木曾路ともお別れだ。
気まぐれな雪よ、旅びとの去ったあとも、もうすこし木曾の山々にふっておれ。
もうすこしの間でいい、
旅びとがおまえの雪のふっている姿をどこか平原の一角から振りかえってしみじみと見入ることができるまで。
「大和路・信濃路~辛夷(こぶし)の花」


「ほら、あそこに一本。」妻が急に僕をさえぎって山のほうを指した。
「どこに?」僕はしかし其処には、そう言われてみて、やっと何か白っぽいものを、ちらりと認めたような気がしただけだった。
「いまのが辛夷の花かなあ?」僕はうつけたように答えた。
「しようのない方ねえ。」妻はなんだかすっかり得意そうだった。「いいわ。また、すぐ見つけてあげるわ。」

が、もうその花さいた木々はなかなか見あたらないらしかった。
僕たちがそうやって窓に顔を一しょにくっつけて眺めていると、目なかいの、まだ枯れ枯れとした、春あさい山を背景にして、
まだ、どこからともなく雪のとばっちりのようなものがちらちらと舞っているのが見えていた。

僕はもう観念して、しばらくじっと目をあわせていた。
とうとうこの目で見られなかった、雪国の春にまっさきに咲くというその辛夷の花が、
いま、どこぞの山の端にくっきりと立っている姿を、ただ、心のうちに浮べてみた。
そのまっしろい花からは、いましがたの雪が解けながら、その花の雫のようにぽたぽたと落ちているにちがいなかった。……
「大和路・信濃路~辛夷の花」


「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木(あしび)の花?」
妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を子細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、
そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。
云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、
ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。
「大和路・信濃路~浄瑠璃寺の春」


それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、
――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴な懐古的気分を漂わせている。
自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、
いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。
そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。
そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?
「大和路・信濃路~浄瑠璃寺の春」


自分の雪に対するそれほど烈しくもない、といって一時の気まぐれでもない、長いあいだの思慕のようなものが、
いつ、どうして自分のなかに生じて来たのだろうかと考え出していると、
突然、十年ほどまえ八つが嶽の麓にあるサナトリウムで生を養っていた自分のすがたが鮮かによみ返ってきだした。
冬になると、山麓のサナトリウムのあたりは毎日ただ生気なく曇っているだけなのに、
山々はいつも雪雲で被われており、そんな雲のないときには、それらの山々は見事なほど真白なすがたをしていた。
僕はそんな冬の日をどうしようもなしに暮らしながら、ときどき雪の山のほうへ切ない目ざしを向けるようになり出していた。
そんな雪雲にすっかり被われている山のもなかを、なにか悲壮な人間の内部でも見たいように、おそるおそる見たがりながら。……

僕は、いま、その頃の自分にはとても実現せられそうもないように見えていた、こんな雪の中にはいり込んで来ているのだと思いながら、
さて、べつにどうという感慨もなかった。
悲壮のようなものはいささかも感ぜられなかった。寒さだって大したことはない。
むしろ、雪のなかは温かで、なんのもの音もなく、非常に平和だ。そう、愉しいといったほうがいい位だ。
橇の中にいて、小さな幌の穴から、空を見あげていると、無数の細かい雪がしっきりなしに、いかにも愉しげな急速度でもって落ちてくる。
そうやってなんの音も立てずに空から落ちてくる小さな雪をじいっと見入っていると、
その愉しげな雪の速さはいよいよ調子づいてくるようで、
しまいにはどこか空の奥のほうでもって、
何かごおっという微妙な音といっしょになってそれが絶えず涌いているような幻覚さえおこってくるようだ。

……雪のごとく愉しかれ。
大いなる壺のやすらかに閉ざされし内部に在りて、
すべての歌声の、よろこばしきアルペジオとなりて、
絶えず涌きあがるがごとくにあれ。

そうしてそういうノワイユ夫人の詩の一節だけが、いつまでも自分の口の裡に、なにか永遠の一片のように残っていた。……
「大和路・信濃路~(そり)の上にて」


やっぱり旅びととして来て、また旅びととして立ち去ってゆきたい。
いつもすべてのものに対してニィチェのいう「遠隔の感じ(パトス・デル・ディスタンツ)」を失いたくないのだ。
……
そのくせ、いつの日にか大和を大和ともおもわずに、
ただ何んとなくいい小さな古國(ふるくに)だと思う位の云い知れぬなつかしさで一ぱいになりながら、
歩けるようになりたいともおもっているのだ。
「大和路・信濃路~『死者の書』」


これから君たちは大いにそういうfatalなものと戦ってみるのだね。
僕なんぞも僕なりには戦ってきたつもりだ。
だんだんそういうfatalなものに一種の(あきら)めにちかい気もちも持ち出しているにはいるが。
しかし、まだまだ()がけるだけ踠がいてみるよ。
……(ぱあっと夕日があたって来だしたのを見て、窓をあける。)
毎日、こうして雪のなかの落日を眺めるのが愉しみだ。
なんだか一日じゅう、冬の日ざしが明る過ぎて、
室内にいても雪の反射でまぶしくって本も読めずに、ぼやぼやしながらその日も終ろうとする、
――そんな(うつ)ろな気もちでいるときでも、
この雪の野を赤あかと(かが)やかせながら山のかなたに落ちてゆこうとしている日を眺めると、
急に身も心もしまるような気がするのだ。
「雪の上の足跡」


――「鷲の巣の楠の枯枝に日は入りぬ」
どうだ、凄いimageだろう。凡兆の句だよ。

そんな句がみごとに浮ぶこともある。
かとおもうと、随分くだらないことを思い出して、いつまでもひとりで感傷的な気分になっていることもある。
或日などは、昔、村の雑貨店で買った十銭の雑記帳の表紙の絵をおもい浮べていた。
雪のなかに半ば埋もれて夕日を浴びている一軒の山小屋と、その向うの夕焼けのした森と、
それからわが家に帰ってゆく主人と犬と、――まあ、そういった絵はがきじみた紋切り型の絵だ。

こんな絵はがきのような山小屋で、一冬、犬でも飼って、暮らしたくなった。
その夢はそれからやっと二三年立って実現された。――その冬は、おもいがけず悲しい思い出になったが、
それはともかくも、あの頃の――立原などもまだ生きていて一しょに遊んでいた頃の僕たちときたら、
まだ若々しく、そんな他愛のない夢にも自分の一生を賭けるようなことまでしかねなかった。
まあ、そういう時代のかたみのようなものだが、
その十銭の雑記帳の表紙の絵を、僕はこういう落日を前にして、しみじみと思い浮べているようなこともあるしね。
……だが、きょうは、君のおかげで、枯木林のなかの落日の光景がうかぶ。
雪の(おもて)には木々の影がいくすじとなく異様に長ながと横わっている。それがこころもち紫がかっている。
どこかで頬白がかすかに啼きながら枝移りしている。
聞えるものはたったそれだけ。
(そのまま目をつぶる。)
そのあたりには兎やら雉子やらのみだれた足跡がついている。
そうしてそんな中に()じって、一すじだけ、誰かの足跡が幽かについている。
それは僕自身のだか、立原のだか……
「雪の上の足跡」


 雑記・エッセイ等から

芥川龍之介を論ずるのは僕にとって困難であります。
それは彼が僕の中に深く根を下ろしているからであります。
彼を冷静に見るためには僕自身をも冷静に見なければなりません。
自分自身を冷静に見ること――それは他のいかなるものを冷静に見ることよりも困難であります。

芥川龍之介を論ずるのはそのように僕にとって困難であります。
しかし、それと同時に僕は、その故に(、、、、)彼を論ずる事に情熱を持たずにはいられません。
「芥川龍之介論」


芥川龍之介は僕の眼を「死人の眼を閉じる」ように静かに開けてくれました。
「芥川龍之介論」


一、履歴、僕は千九百四年十二月東京に生れた。
芥川龍之介は僕の最もよき先生だった。彼の死くらい僕を感動させたものはない。
彼の死後、まもなく、僕はひどい肺炎にかかり、長いあいだ生と死との間にあった。
僕の肉体はやがて恢復した。しかし僕の気持はまだ生と死との間をためらっている。
その時分僕は僕の友人等に自殺するだろうと噂されたものだ。
そういう死の境地から僕を救い上げたものは僕自身の製作欲である。
僕は一つの作品を書くことによって蘇ったのである。「不器用な天使」がそれだ。
一、思想、僕はいかなる芸術上の流派にも属していない。
僕は単数の芸術家である。僕は一切の複数なるものは嫌いである。
コミュニズム。シュールレアリズム。僕はそれらを嫌悪し、そしてあくまでも彼らに反抗する。
「新人紹介」


我々ハ 《ロマン》 ヲ書カナケレバナラヌ
日記(昭和4年8月30日)


自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事の終ったところから出発するもののみが、真の弟子であるだろう。
芥川龍之介は僕の最もいい先生だった。そしてここに、僕の前に、彼が最後に残して行った言葉があるのである。
「何よりもボオドレエルの一行を!」
僕は此の言葉の終るところから僕の一切の仕事を始めなければならない。
僕はこの言葉にブレエキをかける。それからそれを再び出発させる。全く別の言葉のように。
「詩人も計算する」


科学者は何よりもまず計算をする。そのように詩人も計算する。神も計算する。

最近、プロレタリア革命が、天然痘のように、多くの若い詩人らの皮膚をかえた。
革命は詩人らを政治家らとごっちゃにする。
彼らの多くは面倒臭い計算をしずに、ただ演説をするばかりである。
「詩の革命家ら」である僕らから、「革命の詩人ら」である彼らを引き離したまえ。
そして平静に計算することが必要である僕らを、彼らのわいわい騒ぎから守ってくれたまえ。
「詩的精神」(※「詩人も計算する」初出より)


いつか芥川さんが、「室生君は幸福だ」と言ったとき、あなたはその言葉に芥川さんの軽蔑しか感じなかったようですが、
芥川さんはそういう意味で言ったのではなく、自分が神から与えられたものだけではどうしても満足できずに苦しんでいるとき、
あなたが神から与えられたものだけで満足している、いや諦め得ていることを、痛切に羨望したのであろうと私は信じます。
何故なら芥川さんの求めてやまなかった平静さは、あなたの生れながら少しも害(そこな)わずに持っていたものでありますから、
そういうあなたにとっては人生というものが、芥川さんのように苦しむものではなく、
ただ嘆くべきものであるのは、きわめて自然なことであります。
私は、私の知っている人々の中で、あなたこそ最も東洋的な精神の持主であると思います。
「室生さんへの手紙」


私のこれまで書いて来たものは所謂「私小説」と呼ばるべきものであるかも知れないが、
私はついぞ一度も、私小説(、、、)本来の特性であるところの、
他人の前に何もかも告白したいという痛切な欲求からそれを書いたことはなかった。
私はむしろ漠然と、わが国特有とも云うべき、その種の小説の小ぢんまりした形式が自分には居心地よいような気がしたので、
それに似た形式の中で自分勝手な作り事を書いていたのだ。
私の作品は――といって悪ければ、それらの作品を書いた感興の多くは、――フィクションを組み立てることにあった。
私は一度も私の経験したとおりに小説を書いたことはない。
(そうかと云ってまた、自分の感じもしなかったことは一ぺんも書いたことはないが……
「小説のことなど」


雑誌の題は、とうとう「驢馬(ろば)」というのに決った。これは僕がフランシス・ジャムの詩から思いついた名だった。
僕が最初それを云い出した時は「何?驢馬(、、)か?はッはッは」と中野(※重治)が真先になって笑ったが、
みんなはいつかこの名に愛着を持つようになった。
そして最後にこれにしようかと云うことに決まりかけた時、中野は最もそれに賛成した一人だった。
それは、その頃(もちろん今でも変りはないが)みんなはひどく貧乏していたし、
それにみんな揃ってあの不幸な動物を歌ったジャムの詩が好きだったりしていたからであったろう。

それから一二年するうちに、「驢馬」の同人はみんな思想的に変ってプロレタリアの詩人になって行った。
その中でもって、僕だけが一人とり残された。
僕はそういう自分をひどく悲しみはしたが、それでもとうとう自分の立場を守り通した。
「二人の友」


「聖家族」は昭和五年十月の作品である。私は丁度二十七の秋にこれを書いたのである。
それからまだ一年と三ヶ月しか経たないのであるが、私はその間に一ぺんに五六年も年を取ってしまったような気がする。

「本当の詩人は平静の中でのみ仕事をする。彼は決して自分の苦痛を利用して書かない。」
こんなことを言ったのはゲエテだったかしら。
そんな言葉を私はいま、自分が一年前に書いた小説を読みながら、古い傷痕のように思い浮べている。
私はどうもこれを書くのに少し自分の苦痛を利用した嫌いがないでもないからである。
が、こういう心の悲しく痛ましい時に書いた作品も、これはこれでまた自ら別の価値があるのかも知れぬ。

「聖家族」のようなものは書かなかった方がずっとよかったのだろうと作者は思っている。
――それにもかかわらず、私は一生涯、この小説を書き続けていたあの苦々しい、けれども懐かしい日々を忘れることはないであろう。

今度の本は自分の最初の本らしい本である。装幀も自分でやって見た。そして序文も横光利一氏に書いていただいた。
私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思う。
この書を出すように私に勧めて呉れたのは小林秀雄君である。最後に私は同君に感謝したい。
「『聖家族』限定版に」


芥川さんはbrillianceな座談家だったそうである。

しかし、そういう芥川さんは僕のすこしも知らない芥川さんだ。

又、芥川さんは風流人だったそうである。

そういう「澄江堂主人」もまた僕はあまり知らないのである。

それでは、僕の知っている芥川さんはどういう人かといえば、
そのような談論風発といった人でもなければ、又、風流な澄江堂主人でもない。
その頃からもう神経衰弱であったせいか、むしろ話の下手くそな、無風流な人であった。
しかし、そういうものを通じたおかげで、僕はかえって芥川さんの本当のbrillianceに接触していたのである。
「狐の手套(てぶくろ)~芥川龍之介の書翰に就いて」


稲垣足穂の作品はその「一千一秒物語」以来僕は愛読してきたが、最近あまり書かれなくなったようであるし、
それに友人の噂ではこの頃稲垣足穂は酒場に入り浸りになっていて、ビイル樽のように肥り、
酔っ払っては自分がいまにも死にそうなことを口走っていると云うようなことばかり耳にするので、
僕は何だか可哀そうなような気がしていた。

或る種の作家はいくら年をとっても何時までもその子供らしい純真さを失わずにいる。
不思議にも僕の心を引かれる作家の大抵がそうである。
そういう作家は最初のうちこそ均衡を得ているが、そのうちだんだん均衡を失い出す。
そうなると、その作家ははた目には何とも云えず痛ましいものであるが、僕はその作家とその不幸を共にするのが好きだ。

「歯車」の作者の不幸もそれだった。
僕は稲垣足穂もまた何時の間にかそう云う作家の一人になっているに気づいたのである。
「二三の作品に就いて」


昨日の夕方、軽井沢から中山道を自動車で沓掛(くつかけ)古宿(ふるじゅく)借宿(かりやど)、それから追分(おいわけ)と、私の滞在している村まで帰ってきたが、
その古宿と借宿との間には高原のまん中にぽつんぽつんと半ばこわれかかった氷室がいくつも立っていて、
丁度いまそのあたり一面に蕎麦の白い花が咲きみだれていて、何とも云えず綺麗だった。
この地方特有らしい、その氷室の建物が大へん芥川さんのお気に入り、
こういう高原にああいう格好の別荘を立てたいなどと云っていられたので、
私はいつとはなしにその前を通る度にそれを一種の愛着をもって眺めるようになっていたのである。

私はよく芥川さんのお供をして峠や近所の古駅などを見てまわった。
ことにいま私のいる追分宿などが、すっかり寂れ切ったなりに、
昔の面影をそっくりそのまま残しているので一番お気に入られていたようであった。
軽井沢のようなハイカラなところも一方ではお好きらしかったが……

夏の末になってから、外人に売りつけに立派な洋犬を何匹もつれてきていた犬屋が、
軽井沢ホテルで売残りの犬のオークションをやったことがあった。
有名な犬嫌いの芥川さんも私を連れてそれを見に行かれた。
そのとき私は芥川さんの手帖にその犬の名前だの値段だのをそばから書かされた。
数年前、全集「別冊」編纂のため、それらの手帖を整理しているうちにその箇処に出会い、
その私自身の書いたものまでも写して置くべきかどうかにかなり迷ったことがある。
そんな箇処の近くには、又、芥川さんが当時思いつかれるそばから私に話して下さったコントのようなもの、
たとえば八百屋の小僧が西洋人の落して行ったパイプを拾って煙草の代りに玉蜀黍(とうもろこし)の毛をそれにつめて吸っている
と云ったような話の心覚えのようなものまでが見つけられたのだった。
「高原にて」(※「芥川龍之介全集」第一巻月報「追分にて」より)


あの頃のこと(……)を思いうかべると、
いつも僕の口癖のようになって浮かんでくる一つの言葉があります。
或時はフランス語で、《Sois belle,Sois triste》と、――又或る時は同じ言葉を「美しかれ、悲しかれ」と。

田端や日暮里のあたりの煤けたような風景や、みんなの住んでいた灰色の小さな部屋々々や、
毎夜のようにみんなと出かけていった悲しげな女達の一ぱいいたバアや、
それから、二三度そんな若い僕たちの仲間入りをして一しょに談笑せられていた芥川さんがすこし酔い加減になって
そういう女達を見まわしながらふいと思い出されたように僕の耳にささやかれたその《Sois belle,Sois triste》という言葉だのが……

それはボオドレエルの一行でした。
そのあとでお書きになったものを見ると、そのときの芥川さんにはふいと思い出されたそのボオドレエルの美しい一行が、
よほど深く胸におこたえになったものと見えます。

「美しかれ、悲しかれ」
ああ、本当にこの言葉くらい僕の若い時分のことを、その苦痛も歓びも、一しょに思い出させるものはありません。
「美しかれ、悲しかれ」


これからの私のしようとしている長い他人との対話(、、、、、、、、)であるべき新しい仕事から見れば、
これまでの「美しい村」や「風立ちぬ」なんぞは、ほんの私のモノローグに過ぎぬでしょう。
いつかまた、さまざまな見知らぬ他人との対話だとか、
他人の悲劇への参加(けれどもそれ等の差し出がましい助言者にも、又ひややかな目撃者にもなりたくはない、
ただその傍らにじっとしていて、それだけでもって不幸な人々への何かの力づけになっているような者になっていたい……
だとかの後に、そういうもっと静かな、もっと力と諦めに充ちたモノローグに帰って行くかも知れませんが。
「美しかれ、悲しかれ」


「我々はエマオの旅びとたちのように我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはいられないのであろう。」
これは芥川さんの絶筆「続西方の人」の最後の言葉である。
「我らと共に留れ、時夕に及びて日も早や暮れんとす。」
そうクリストとは知らずにクリストに呼びかけたエマオの旅びとたちの言葉はいまもなお私たちの心をふしぎに動かす。
私たちもいつか生涯の夕べに、自分の道づれの一人が自分の切に求めていたものとはつい知らずに過ごしているようなことがあろう。
彼が去ってから、はじめてそれに気がつき、それまで何気なく聞いていた彼の一言一言が私たちの心を燃え上らせる。

いま、「西方の人」の言葉の一つ一つが私の心に迫るのも丁度それに似ている。
例えば「クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解していたにも関らず彼自身を理解出来なかったことである。」
――これまで私たちは芥川さんくらい自分自身を理解し、
あらゆる他の人間の心を通して自分自身をしか語らなかったものはないように考えがちであった。
しかし、いまの私にはそれと反対のことしか考えられない。
芥川さんもやはり自分を除いた我々人間を理解していたばかりである。
我々に自分自身が分かるような気のしていたのは近代の迷妄の一つに過ぎない。
「エマオの旅びと」※原題「心に迫る芥川の言葉」(※全文)


古代の素朴な文学を発生せしめ、しかも同時に近代の最も厳粛な文学作品の底にも一条の地下水となって流れているところの、
人々に魂の静安をもたらす、何かレクイエム的な、心にしみ入るようなものが、
一切のよき文学の底には厳としてあるべきだと信じております。
「伊勢物語など」


本来のトラジディ(※悲壮劇)というものは、本当に崇高な人物が、運命の抵抗に遭って、さまざまな苦しみをしつつ、
その生涯の何処かに人知れぬ涙の痕をにじませながらも、しかもその生得の崇高さを少しも失わずに、最後まで生き抜く、
――そういったものではないでしょうか。
「若菜の巻など」


いまから千年以上も前、それらの山々に愛する者を葬った万葉の人々が、
そのとき以来それまで只ぼんやりと見過ごしていたその山々を急に毎日のように見ては嘆き悲しみ、
その悲嘆の裡からいかにその山が他の山と異り、
限りないそれ自身の美しさをもっていることを見出して行ったであろう事などを考えていると、
現在の自分までが何かそういう彼等の死者を守っている悲しみを分かちながらいつかそれらの山々を眺め出しているのだった。
そういうこちらの気のせいか、大和の山々は、どんなに小さい山々にも、その奥深いところに何か哀歌的なものを潜めている。
「黒髪山」


「更級日記」は私の少年の日からの愛読書であった。

当時の私には解し難かった古代の文字で書綴られたその日記のなかを殆ど手さぐりでのように少し往っては立ち止まり、
立ち止まりしながら、それでもようよう読みすすんでいるうちに、
遂に或日そのかすかな枯れたような匂の中から突然ひとりの古い日本の女の姿が一つの鮮やかな心像として浮んで来だした。
それは私にとっては大切な一瞬であった。
その鮮やかな心像は私に、他のいかなるものにも増して、日本の女の誰でもが殆ど宿命的にもっている夢の純粋さ、
その夢を夢と知ってしかもなお夢みつつ、最初から詮(あきら)めの姿態をとって人生を受け容れようとする、
その生き方の素直さというものを教えてくれたのである。
「姨捨記」


早くいいものを書きたいと思っています
しかし昔のように自分の気もちだけを一すじに歌えなくなりましたようです
これからは、何か、もっと「自己のうちにある自己を超えた自己」のようなものを歌わなければならぬ、と考えて居ります

先生(※折口信夫)や柳田(※國男)さんの民俗学研究の根本精神のようなものを、
自分の書くものの上にも生かして行きたいものだと考えて居ります

一つの「物語」が単なる一つの「物語」であるだけでなく、
それが「人間性」についても、それと同時に「国民性」についても、深く考えるところのものであらせたいと思います
「『古代愛感集』読後」(※昭和21年折口信夫への手紙より)


「哲学の本は、君――」芥川龍之介さんらしい人が私に向っていった「夜汽車のなかで読むものだよ。」
いかにも唐突な言葉だった。それは夢の中であった。
目を覚してからも、その芥川さんらしい人の言った言葉ははっきりと耳に残っていた、
――夜汽車のなかで、人々は深いねむりに落ちている。
何処へか、誰も知らず、まっ暗な野原の真ん中をひた走りに走っている夜汽車のなかに、
一人目覚めて、哲学の本を読んでいる、或者の姿!……

夢の中で、いかにも萩原さんでも云いそうなアフォリズムめいたことを私に云ったのは、しかし、芥川さんらしい人だった。
いつか私が一生のうちに一冊でもいいから哲学的な著作を残して死にたいと思っていたその一高時代のことをうちあけた私に向って、
半ば同情されるように微笑されながら
「それは、君、誰でも一高生の頃はカントよりも哲学的になるものだからね……」と警句で受けとられた芥川さんだった。
そんな夢を見たのは、私がもう大学にはいって一高の頃のそんな風変りな夢想などはそろそろと忘れ出していた時分のことである。
「二三の追憶」



書簡から


君よ!私の魂よ!
悲哀に誇れ!仏蘭西(フランス)のCafe時には花園に漂泊え! そしてまた、古希臘(ギリシャ)に憧憬れよ!

けれども、君よ、けっして日本語を棄てて呉れるな、この美しい日本語を。
私はなによりも、日本語を愛している。

この仏蘭西のような、匂わしい韻律、美しい陰影、夕暮のような色合。
けっして仏蘭西語と優るとも、劣らない。英語、独逸語等の類ではない。

私のすべての憧憬と矜りは、美BEAUTEのうちに在る!
道徳、不道徳は無論のこと、真理、哲学等からは暫く遠く離れて(、、、、、)居よう。
日本語がどれほど僕たちによって(、、、、、、、)、美しく音楽的絵画的になるか、
ああ、何と云う悦ばしさ、そしてまた、何と云う待遠さだろう!

もっと僕は「言葉」を勉強したい、この貧しい語彙を広めたい。
言葉の陰影、音楽性、造形美などを、
あの中世紀の錬金術士が独占していた、夢想と妙奇と秘密と不安でいっぱいになった、瞳と胸と指尖で、
あてもなく探ねていったら、どんなに愉快だろうと、一人で思っている。

じっさい、日本語ほどこういう怪しさ、複雑さ、美しさに輝こうとしている言葉が他の何処の国にあるか?
大正12年3月17日(18歳) 新小梅より 神西清宛


一日じゅう、彷徨ついている。
みんな、まるで活動写真のようなものだ、道で出遇うものは、異人さんたちと異国語ばっかりだ……
ことに夜の主の彷徨は、たまらなくいい。
僕の散歩のお友達は、舶来の煙草と詩人犀星だ。
大正12年8月4日(18歳) 軽井沢より 神西清宛

大正12年9月1日(18歳) 関東大震災 母・志気死去(満50歳)


さぞ東京は暑いだろう。そのせいか、なかなか軽井沢は淋しくならない。
昨晩、自動車で碓氷峠に月見に行ったらまるで花火の晩のようだった。それくらい、賑やかだ。当分、淋れそうもない。
で、芥川さんはこの五日ごろ帰る。東京で或る詩集出版記念会に出なきゃならないため。僕もその会に出るようにすすめられた。
それは僕どうでもいいが、とにかくお父さん達は芥川さんが帰った後に来た方がいい。
僕の居る家じゃ、蒲団もなし、飯も僕のように「つるや」通いじゃ困るだろうな。とうてい不可能だと云ってもいい。
「かなめや」という宿屋は安いというから、聞いたら、それでも三円五十銭(まる一日)だという。
ここは土地の盛んな割りに、宿屋が三軒かないので、こうボルのだ。
でも、この「かなめや」に宿っちゃ、どう。
大正14年9月1日(20歳) 軽井沢つるやより 上条壽則(※義父・松吉) (※全文)


すこし贅沢し過ぎたようだが、勘弁して下さい。
なにしろ、一流の生活をみんなとしていたんだから。そうして、この八十円のお蔭で、僕もだいぶ一流の人々に可愛がられたんだから。
いくらか堀辰雄も有名になったんだよ。
(但し、八十円は最低の予算を云ったのですからそのおつもりで)
大正14年9月3日(20歳) 軽井沢つるやより 上条壽則宛

昭和2年7月24日(22歳) 芥川龍之介死去(満35歳)


一人きりで居るせいかひどく陰気だ。そうかと言って、友達には誰にも会いたくない。
東京へなんかも帰りたくない。こんな温泉場になんかも居たくない。
全くどうしていいかわからず、何かたえず死の傍でイライラしている気持だ。

僕は今までの僕をすこしでも知っている人間を憎悪する。
もし僕にこの絶望を潜りぬけることが出来たら、新しい性格が僕の中に生れるのを期待する。
その僕の新しい性格を最も理解しないものは、今までの僕を知っていた人達だろう。
昭和3年4月30日(23歳) 湯河原より 神西清宛


死はいつも僕に不即不離だ 僕の恋人のように 僕のミュウズのように
昭和3年11月23日(23歳) 新小梅より 神西清宛


外見の僕が幸福そうであればあるほど僕は憐めだ
何という不当な誹謗とそして不当な賞賛を僕は受けているか?
そんなものを僕は欲しない 僕の欲しいのは唯愛だけだ
それだのに僕が知ったのは、一詩人は生きてる間は誰からも本当に愛されぬと云う事だ
昭和4年2月12日(24歳) 新小梅より 神西清宛


こうして、そとへも行かず、あまり人も来ず、ほとんど一人きりで静かに暮らしているのも、たまにはいいです。
ときどき送ってくる同人雑誌などをひろげると、なんだかシャバの風に吹かれたような厭な気さえします。

だいぶ暖くなってきたので、そろそろ外出も出来そうですし、田舎へ転地するまでには是非一度お訪ねします。
あまり御無沙汰していましたので。
昭和6年3月5日(26歳) 向島(※町名「新小梅」から「向島」に変更)より 室生犀星宛


三日にこちらに来ました。まだ寒く、昨日は吹雪でした。僕の病室のドアはすっ飛んでしまいました。
きょうは朝からベッドにもぐり込んだまま、真白になった南アルプスを眺めて居ります。
しかし、元気です。
昭和6年4月6日(26歳) 富士見高原療養所より 室生犀星宛 (※全文)


どうも小説と云うやつは ふとした気持で書いたものが 一番好いものらしい
自分が苦心した作品でも果してその苦心した部分が人を打つのか 或は意外な部分が人を魅するのか分りはしない
が此頃の僕は恐らくそれが後者なのではないかと思い出している

そう云うものだから小説はますます難しいのだ 魔物だ……
昭和7年10月10日(27歳) 向島より 神西清宛


仕事はまだちっとも出来ないんだ それで散歩ばかりしているがそれがこの頃じゃ山登りになってきた
峠へも行ったしオルガン岩にももう三度登ったよ 元気なもんさ
昭和8年6月23日(28歳) 軽井沢つるやより 神西清宛


昔、大名の泊った部屋にはじめて寝ました。三度、夜なかに目をさましました。しかし、お化はまだ出ません。
すこし草臥れているので今日は一日寝ます。明日から勉強します。
淋しいから、お手紙を下さい。
昭和9年7月27日(29歳) 信濃追分油屋より 矢野綾子宛 (※全文)


自動車が立派に見えたのか それとも 乗っている僕が貴公子然としていたのか
沓掛の町に差しかかったら子供たちが僕を見て「あれは何の宮様だろう」と云い合っていましたよ
これはちょっとお母様に御吹聴下さい 
但しこの宮様、途中でサンドウィッチを忘れてきたことに気がついて 残念がっていたところだった
昭和9年9月17日(29歳) 信濃追分油屋より 矢野綾子宛


この間はたいへん元気そうで僕も附添い甲斐があって嬉しかったけれどもあれから疲れやしなかった?
まあ、こんど僕が帰るまで、ゆっくり寝ていらっしゃい。

もう〆切までに五日ぐらいしかないけれど、何を書いたらいいんだかまだ分らない。
そんなことよりも君のことを考えている方がよっぽど楽しいんで困っちゃう。どうしたらいい?
昭和9年9月25日(29歳) 信濃追分油屋より 矢野綾子宛


今朝僕のフィアンセがひどい喀血をやっちゃった 閉口している
御無心申してすまないが 何処かでゼリイの素を三個ほど買って至急送ってくれないか
お願いする
昭和10年12月3日(30歳) 富士見高原療養所より 神西清宛 (※全文)

昭和10年12月6日(30歳) 婚約者・矢野綾子死去(満24歳)


二人のものが互にどれだけ幸福にさせ合えるか――、そういう主題に正面からぶつかって行くつもりだ。
朝など手がかじかんでくる位だが、身うちには静かに燃えてくるものが感ぜられてうれしい。
僕みたいなものをこうして山の中に無一物ながら一人ぼっちにさせて置いて呉れているなんていうこと、
僕は誰に感謝していいか知れない。
誰もかもが僕に好意をもっていてくれるような気さえする。これは山で暮している男の感想かもしれない。
君を苦しめているのは都会だよ。しかし君なんぞはやっと都会というものを知り出した位のものだ。
もう少し雄々しく戦いたまえ。かすり傷ぐらいに屁古垂れちゃ駄目だよ。
昭和11年9月30日(31歳) 信濃追分油屋より 立原道造宛


君は好んで、君をいつも一ぱいにしている云い知れぬ悲しみを歌っているが、
君にあって最もいいのは、その云い知れぬ悲しみそのものではなくして、寧ろそれ自身としては他愛もないようなそんな悲しみをも、
それこそ大事に大事にしている君の珍らしい心ばえなのだ。
そういう君の純金の心(、、、、)をいつまでも大切にして置きたまえ。

ともかくもまだ軽井沢には美しい森があるようだ。
そんな森の中に、君に小さなヒュッテを建てて貰って、
「喬木林」や「晩夏」の中でボヘミヤ地方の美しい森を隅から隅まで描き尽したアダルベルト・シュティフテルのような物語でも書きながら、
静かな晩年(昔から僕は自分の晩年として三十七八になった自分の姿を考えているのだ、
なんだかすこし気が早いようでおかしいけれど、そういう空想をも僕は屡々(しばしば)楽しむ……)を送りたいと
そんなことを僕に空想させるような、美しい森が、何といったって、すこし奥深く行きさえすれば、まだまだ軽井沢にはあるようだ。

詩集のお礼が、とんだものになってしまった。
下らないことをいい気になって書いてしまったが、最後の森のなかのヒュッテの空想は、本当に偶然だが、いい思いつきだったな。
これで、どうやらまあ建築事務所宛にこの手紙を出す口実が見つかったと云うようなもの。
昭和12年7月25日(32歳) 信濃追分油屋より 立原道造宛※「夏の手紙」として「新潮」に発表


ドーゾーのバカ!速達不足四十七銭也とられたぞ 癪だから詩なんか書いてやるもんか
昭和12年8月24日(32歳) 信濃追分油屋より 立原道造宛


何処かからいい手紙でも来ないかなあと思っていたら君から来た。
君が何処か田舎の方へいっているとのこと、一週間許り前恩地さんから来た手紙で知っていたんだ。
そんな田舎へいってしばらく静かに一人で暮らすこと大いに賛成だと思っていたが、
僕に一ことも知らせてくれないなんて怪(け)しからんなと思っていたところだよ――しかしもう勘弁して上げる

僕の仕事、なかなか捗取らない。当分持久戦の覚悟をしている。

日本の女の残した一番古い日記らしい日記である「蜻蛉日記」というのがそれなんだ。
浮薄な男に――男ごころというものはそういうもんだといった世間のコンヴェンショナリズムに逆らって――
あくまでも真面目な愛を求めてやまなかった一女性の日記だが、
こんな日記がこんな風に残っているのが本当に不思議なくらい清新なものをもっている。

僕にそんなことが出来るか出来ないか分からないけれど、
まあそういった古い日記の錆びをすっかりとってびっくりするくらい若返らせてやりたいんだ。
昭和12年9月23日(32歳) 信濃追分油屋より 加藤多恵宛


――「新しい女」なんぞ書こうという肚じゃなく、いまの僕みたいに「古い女」をどうぞして蘇らせてやりたいと一所懸命になっていると、
ときにはもう自分の力が及ばなくなってもう投げようかと思いつめていると、
こんどはそっちの女の方でなんだか僕に力を貸しにきてくれる、
そんな気さえするんですよ、本当にそんな気がするときは小説書くことに生甲斐が感じられます

川端(※康成)さんもまだ軽井沢にいるそう、――
こないだ行ったら自転車でどこかへいらしったというので、僕も自転車を借りて軽井沢中さがしたがとうとう見つけられなかった、
川端さんのは子供の自転車の由、それに乗ったいい恰好が見られなくって残念

お菓子ありがとう、お礼がたいへん遅れたけれど、勿論もうとっくに食べちゃいました
昭和12年10月9日(32歳) 信濃追分油屋より 佐藤(※中里)恒子宛


お手紙とお菓子を有難う。僕は君とちがうのですぐこういう風にお礼を出すから、覚えて置きなさい。
恩地三保子嬢、おおぜい、お友達と一しょに二三日やって来ました。
僕のところにも遊びに来てくれるかと思って大いに期待していたら、
ちょっとお顔を見せにきたきりで(あれじゃまるで僕にちょっと拝ませたようなものだ)又お友達と一しょに帰ってしまいました、
大いにうらんでいるとおことづけ下さい。

君にお貸しした本はもっとお手許に置いて御愛読なさい。
人が読めといって貸した本は少くとも一年位は返さない方が礼儀だ。
それ位熱心に読んで貰わなくちゃ貸し甲斐がないからなあ。
昭和12年10月25日(32歳) 信濃追分油屋より 加藤多恵宛


御見舞を有難う 君達の電報もあの夕方になって漸っと手にしました
僕は元気ですから御安心下さい
いま勉強しかけていた本、これから大いに読もうと思って買込んであった本など何もかも失ってしまったのは、いかにも不自由ですが、
まあ、この冬うんと仕事をして、すぐ取返して見せます

東京には当分帰らないことにしました
帰って僕の部屋に一ぱいある僕の抜け殻みたいな、もう僕にはどうでもいいようなものばかりの中で暮らすのが苦しいのです
そんなものこそ本当に焼けてしまって呉れたらよかったのに――

この夏やはり追分に来ていた友達の一人から
「この夏の美しかったものがすべて失くなったことは、そのために美しかったようで悲しい気もちです」などと言ってよこしました
本当にそんな気もする位

けさもちょっと追分へ行って来ました 油屋の人達、みんな割合に元気です
来年までには何とかバラックでもいいから建ててみんなに来て貰うなどと言っていました
しばらく焼跡に立って僕は寒い風に吹かれて居りました
「かげろふの日記」の下書きの焼け残りなんぞがまだひらひらと飛んでいました
昭和12年11月25日(32歳) 軽井沢つるやより 加藤多恵子・恩地三保子宛


此処はHappy Valleyという名前の小さな谷――
なんていうと洒落ているけれど、そんな谷がどこにあるのやら?――に面した、山の上の小さなコッテエジ、
周囲の木々がすっかりいまは丸坊主なので、その枝を透いて、すぐ真正面にもう真白になった八ヶ岳が見え、
夜なんぞはずっと下の方に汽車が通るのまでが小さく見えるような場所です
野村(※英夫)君が来るまで、僕はこんな山の中に一人で二晩泊ったんですからね なかなかごうき(、、、)でしょう

ぼうぼうと威勢のいい音を立てて燃えている火を見守っていると、知らない間にずんずん時間がたってしまう、
もっとも時計なんぞわが家には無いので、どの位時間が立ったんだか分からないけれども――
一度君達にもこういう生活を味わせてやりたいものだな 病気なんぞだってすぐ忘れてしまいますよ

しかしけさは本当をいうとちょっと辛かった
温かそうな日がちらっと差したかと思うと、すぐ真暗な雲に遮ぎられてしまって、
そしていまにも雪がふってきそうで(いっそ雪がふるなら思い切ってどっさり降ってくれればいいのに)――
そこへ、君達からの贈物が届いたので、急に家の中まで明るくなった
僕が愉しそうに荷をほどいているのを、傍で野村君がうらやましそうな顔をして見ているので、
思い切ってStaedtlerの鉛筆を一本やりました それから早速有平糖を一しょに頬張りました
昭和12年12月1日(32歳) 軽井沢1307より 恩地三保子・加藤多恵子宛


お風邪はどうしましたか?お返事も下さらないので少々心配しています
そう云えば僕もお便りをしなかったな クリスマス頃帰るなんていっていて――

実はその間に僕は一日だけ誰にも言わずにこっそり上京したんだけれど、丁度僕のお誕生日でした
一人で銀座へいってビフテキを食べて僕らしく自分で自分をいとしんでやって、さっさと帰って来ました
よっぽど恩地さんのところへお電話をして君の病気の事を訊いてことによったら御見舞にいってやろうかなと思ったけれど、
それも我慢して又こちらに帰って来ました

仕事の方は予定どおり片づけました 「風立ちぬ」がやっと二年ぶりで完成したわけです
今度のはあの小説のおしまいに付けたいと思っていた死者に手向けるRequiemのようなものです
――本当は去年の冬、それを書きたいばっかりにこちらで冬を一人で送った位でしたがとうとうそれが書けず――
そういうものは自分には永久に書けないのではないかと思って半ば諦めていたのが、
今度の火事のおかげで、いまのような山小屋住いをよぎなくされて居るうちに急に書きたくなって、
君にいつか書くよといっていた「受胎告知」の方はおっぽり出して、一気に書いてしまいました
本当にいろんなものをば火事で失ったけれど、その代りにこの一篇が書けたので、もう焼けた何もかもさえ、そう惜しくはない位、
――来年の三月頃、「風立ちぬ」を一まとめにして好い本にしたいと思っています

君が病気だと思っているんでながながと書いて上げました 君がもう癒ってぴんぴんしているんだと損だなあ 
でも、損をしたって、その方がずっと好いんだけれど……
昭和12年12月30日(33歳) 軽井沢1307より 加藤多恵宛


本当に矢野さんのお父うさんは君がすっかり気に入っていますし、
良ちゃん(※矢野良子/綾子の妹)は良ちゃんで大へん君になついて僕のお嫁さんはどうしても君でなけりゃいかん、
良ちゃんが自分で一人で君のお母あさんの所へ行って君を僕に貰って来て上げようかと、こないだ真面目に言っていた位なのですから、
君だったら死んだ綾子も満足していられるだろうと思います。
君にこんな事を言うのもおかしいが、僕がたとい自分の気に入った女性が見つかったにしても、
それが綾子に気に入りそうもない奴だったら、潔く諦らめてやろうと思っていた位でした。
しかし、その点君なら申し分ないと、君を知れば知るほど思っていますが、その方の自信はありますか?
本当にまだ自分は子供だなあと思うことは始終だけれど、僕はもう三十五(なんだか自分でも嘘みたいだけれど)にもなっているのだし、
これまで二つも三つも大きな人生を経験したあとですから、
自分に好きな人が出来てもその人にもう夢中になって逆上せあがるような事もない代り、
その人の性格や才能の好いところも悪いところも恐らくその人自身と同じ位に知った上で、
その人を本当に静かな気もちで好きになっていられるのです。
僕が君を愛している気持もそれに近いものです。
どうかそういう僕の気もちを分かって下さって、僕のなかの君のすがたに君自身も安心していて下さい。

綾子は死んでゆく前に、僕のいる前でね、お父さんに僕にいい人を持たせて上げて下さいと言い残していったのです。
それがもう最後の言葉になりはしないかと思うほど、死を前にして苦しんでいましたが、それから突然
「お父さんも本当に好い人だったし、
辰ちゃん(綾子もいつのまにか僕のことをそう呼んでいました、君もそのうち僕をそう呼ぶようにさせてやるから)も本当に好い人だったし、
私、本当に幸福だった」
となんだかそんな苦しみの中から一所懸命になって言って、それからそのまま最後の死苦のなかに入っていきました。
人間の最後の願望というものは恐ろしい力を持っているものだと、ラフカディオ・ハアンだかが書いていましたが、
それは確か人を呪いながら死んでいった者の話だったと思いますが、
それと反対にそれがたとい生き残った者への気やすめに言ったにせよ、私達のために本当に幸福だったと最後に言われたら、
その瞬間からその生き残った者たちはこの世に幸福というものがあるのだということを信ずるような気になると見えますね。
――僕は元来、いろいろ本を読んできたせいか、人生に対してかなり懐疑的で、
ともすれば生きていることの不幸を信ぜさせられて来ていましたが、
そのときから僕は人間の幸福――少くとも誰でも幸福な瞬間をもち得るものだということを、
少し逆説的にいうと、みんなのもっている不幸の最高の形式としてそういう幸福の瞬間をもち得るということを信ずるようになりました。

僕の仕事そのものの事なんぞあんまり分かって下さらなくともいいのです。
寧ろよく分からないなりに、それが決して馬鹿々々しいものでないという事だけ信じていてくれたらそれが一番好い。
作品のいい悪いに拘らず、苦しんでした仕事の報酬としては、
そういう無批判的に仕事のあとの僕をねぎらってくれる、温かい胸が何よりなのです。
ずっと前に死んだ僕のお母あさんのように、又、死んだ綾子だってそうであったように。
昭和13年2月4日(33歳※数えで35歳) 向島より 加藤多恵子宛


きのうは君にへんに改まった手紙を書いてしまって、きょうになって考えると少し自分でもおかしい位です。
僕はちょっとも興奮していないよなどと言いながら、やっぱり少からず興奮していたと見えますね。
しかし、きょうはもう君が理科の人のところにお嫁に行きたかったんだなどと言っていた事を思い出して、
いかにも君らしいなと思って一人で笑っています。

しかしまあ、僕だって、たとい一番びりっかすでも、一高だけは理科を卒業したのですから、
君もね、君の夢が半分はかなったのだと思いたまえ。それでまあ、負けておくんだな。

そんな冗談はともかく、そんな事をはっきりと言う君が僕はとても好きなんだ。
これからも思っている事は何んでも僕に言う方がいい。

僕の君に対する一見淡々としたる如き、しかし中味の一ぱいつまった愛情を、何よりも信じていてくれたまえ。
そんなのは、今さら言うも愚か、君にはこれまでだってよく分かっていたのじゃない?
――首なんぞを振ると、それこそ僕はおこるよ。
昭和13年2月5日(33歳) 向島より 加藤多恵子宛


きのうほんの型ばかりの式を挙げ、それから型ばかりの新婚旅行にこんなところに来ている
二三日うちに向島へ帰り、二十四日頃軽井沢に行くつもり
その前に一度君に会いたい、二十日午後芥川さんのところへ多恵子を連れてゆく予定だが、
そのついでに何処かで一しょに御飯をたべないか
昭和13年4月18日(33歳) 大森ホテルより 神西清宛


漸っと気に入った別荘が見つかりました
すこし山の中なので多恵子や良ちゃんには少々気の毒ですけれど、
こう云う場所なら夏でも僕が仕事をしていられると思い、とうとうそれに決めました
軽井沢の水源地は御存知でしたかしら
あそこへ上ってゆく林道の一番はずれに数本の大きな樅の木にかこまれて二軒ばかり外人の別荘がある、その一つです

落葉松はもうすっかり新芽を出しましたが 楓や躑躅などこの二三日うちに漸っと芽を出しかけてきました
山の方では雉子がよく啼き、尾長や懸巣なんぞはしょっ中庭に参ります
この前の日曜日、追分に行ってきました
油屋の人達、元気でした
新築中の家、丸子町にあった古屋をそっくりそのまま建て直すのだそうですが、思ったよりしっかりした建物になりそうです
すぐ裏に小さな流れがありますがそれに沿うて僕たちの「むかしの家」を小さな亭のように建てたいなどと言っていました
昭和13年5月3日(33歳) 軽井沢より 室生犀星宛


こないだは軽井沢で失礼しました 実は僕たちも今月の十五日から上京して居ります
父がちょっと脳溢血で倒れましたので まあ当分こちらに止まって看病して行くつもりで居りますから
若し君が僕たちの留守にでも軽井沢に行かれてはつまらないので一寸お知らせだけしておきます
又あちらに行ったらお便りします お母様や義ちゃん(※葛巻義敏)によろしく
昭和13年5月28日(33歳) 向島より 芥川比呂志宛 (※全文

昭和13年12月15日(33歳) 父・上條松吉死去(満65歳)


きのうはおやじの百ヶ日だったので一寸お返しをしておいたのです
こんどは間借暮らしだがなかなか洒落ていていい そのうち遊びに来給え
立原(※道造)のところへも見舞に往きたくともなかなか往かれない
昭和14年3月25日付(34歳) 鎌倉町小町より 野村英夫宛

昭和14年3月29日(34歳) 立原道造死去(満24歳)


二十九日に立原(※道造)君が死んだ 本当にかわいそうな事をした
あんなに悪くならないうちにもう少し自分の病気に自覚できたらと思ったが、なかなかそれが出来ないんだね
旅行に出かける前日も逗子の僕達のところに来てくれたがとてもそのときは元気がよかった 僕なんぞ羨ましい位だった
立原君がもう絶望だときいてから三度しか見舞に行けず、しかもその一度は安静時間で面会できずに帰ってきてしまった
もっと見舞ってやりたかったが、僕も半病人なのでなかなか思うように見舞えなくって残念なことをした
六日に告別式をやるそうだ
君はどうしているの?元気かい?
僕なんぞは悪い悪いといいながらともかくもいつまでも生きられそうなので不思議だ
いつのまにかつとめて自分の身体に無理をさせないように習得したのかも知れないが、
それだけどうもがむしゃらになれなくって、なんだか淋しいような気もする
これからはもうこういう自分を自覚して、ぽつぽつ静かな落着いた仕事ばかりしていくほかはあるまい
まあ、いまのところ、そういう仕事を与えられそうなので、それだけは仕合わせのようだ。
昭和14年4月3日(34歳) 鎌倉町小町より 葛巻義敏宛


蒲郡からのお便りを有難う この頃はお仕事ですか
多恵子はこの月はじめから弟が出張先で病気になりその看護に大阪へ行ったきりです なかなか大変らしく可哀そうです
僕もすこし身体をわるくし仕事をやめ毎日一人でふらふらしています
僕たちの小さな家が出来かかっています 出来上ったら遊びにきて下さい あまり厭人的になってはいけません
昭和15年4月15日(35歳) 杉並成宗より 佐藤(※中里)恒子宛 (※全文)


お手紙を見ました 僕のきのう出した端書と行きちがいになりました
お手紙のこと、僕は何にも知りませんでした それほど一人ぼっちで暮らしているのです
東京ってかえって孤独を愉しめるところですね
昭和15年4月16日(35歳) 杉並成宗より 佐藤(※中里)恒子宛


漸っと俊ちゃん(※加藤俊彦/多恵子の弟)の熱が下がってきた由、何よりです しかし充分に下がり切るまで用心が肝要です
僕はまあ元気でいますから御安心なさい
仕事はちっとも手をつけていない。いまのような生活状態と気候とではとても落ちついて仕事に向ってなんぞいられないのだよ
普請はかなり進捗し、どうやら家の恰好がつき出した
きょうは書斎の出窓をとりつけている どんな風になるのか二三時間おきぐらいに様子を見にゆくわけさ
わりあいに落ちついた部屋になりそうだ
たまに町を歩いているといろんなものが欲しくなって困るよ。青い絨毯だとか、同じ色の窓帷だとか、椅子だとか、小さな箪笥だとか、
――とうとう例のウィンヅル・チェアだけ思い切って買ってしまった

おとといは芥川さんの奥様が見えられ、ちょっとこの間じゅうから葛巻(※義敏)君の恋愛問題があって、その事でいろいろ御相談があった

きのうは又、恩地さんのお母さんが来られた こっちから伺おうと思っている先きに来られてしまったので閉口、苺をもってきて下さった。
二時間ばかりいろんな昔話――室生さんたちの結婚前の――をきかされたが面白かった

自分がこうして何んにもしないでじっとしていると、
自分を心棒にして、世の中の事が車輪のようにくるくると回転しているようでなかなか面白い
昭和15年4月18日(35歳) 杉並成宗より 堀多恵宛


ゆうがた着いたら途中まで貢少年(あぶらやの腕白坊主)が一人で迎えに来ていて僕のカバンを持ってくれた
随分大きくなったものだ こちらに来てみると追分はやっぱり好い處だ
但し煙草もなんにもないのに閉口、インクや何かあした軽井沢へ買出しに行かなければならないかも知れない
十日頃、野村(※英夫)君やなんかと是非やってお出。又あとで書く。
昭和15年6月3日(35歳) 信濃追分油屋より 堀多恵宛 (※全文)


…………とにかく皆、病気になんぞならず、元気で、それぞれの仕事を少しでも余計立派にできるようになりたいものだ

僕が考えていることなども、本当に形体をとるのはその位――或はもっとそれ以上――かかるのかと思うと、
それを果たさないでは死にたくないような気がし、やはり病身でいても、できるだけ病気にまいらないで、
長生きしていたいものだと思わずにはいられない

しかし仕事はどんな小さいのでも、しておいた方がいい どんな小さいものにでも自分の何かは残る
その自分の何であるかは神様に任して、残す努力を我々はすればいい
昭和16年1月17日(36歳) 杉並成宗より 葛巻義敏宛


きのうお手紙とドイツからのお土産を確かに頂戴いたしました
お手紙よりもレオナルドの告知の天使の方が先きに着きましたので
丁度書見いたして居ったマリヤならぬ小生もいささかびっくりいたしました
「受胎告知」図はいかなる画家を問わず小生の好きな画題にて、いつか渾然たる小品にまとめたいと思って居ります位ですが、
本当に好いものを伊太利にて小生のためにお求めになって下さいました

京都の方へもそのうち遊びに行くつもりでいます
馬酔木の花のさく頃の奈良などをぶらぶら歩いて見たく思っていますが、その頃行けたら行きたいものですけれど、
相変らずの病身にてなかなか思うようには旅行が出来ません――
その頃まだ行けなければ、葵祭の頃の京都にでも行きたいなどと考えて居ります
昭和16年2月18日(36歳) 杉並成宗より 谷友幸宛


七日からちょっと軽井沢に行き、姨捨、木曾をまわって昨日帰ってきたところだ

こんど軽井沢に小さな山小屋を買った、サナトリウムの奥の方の、ぼろ家だが芝生の庭だけちょっと綺麗なのが取柄だ
借金をして買ったのだが、まあこれで僕の隠居所が出来た
木曾の春はなかなかよかった 林檎の木が花ざかりだった。
昭和16年5月10日(36歳) 杉並成宗より 神西清宛


僕たちは今月はじめあんまり暑くなったのでいそいでこちらに来てしまったら、毎日雨か霧です
しかし仕事をしている分にはあまり苦にもなりません こういう負け惜しみのところが僕の身上なのでしょう
多恵子はきのう自転車から落ちて泥まみれになった上、頭を打ったりして大騒ぎをしました
昭和16年 夏※月日未詳(36歳) 軽井沢1412より 佐藤(※中里)恒子宛


十一日夕方 いま西の京にある唐招提寺の松林のなかでこれを書いている
此處はまあ日本で一番ギリシャ的なところだ
千年も立った金堂の円柱もギリシャのようだし、古い扉にはまだほのかに忍冬(アカンサス)の文様も残っている
そうして講堂の一隅には何處かギリシャ彫刻のような菩薩の首が古代の日日を夢みている――
まあそういったようなところだ。
書簡/昭和16年10月11日(36歳) 奈良西の京より 堀多恵宛 (※全文)


この二三日、秋の日をあびながら、一人でぶらぶらと大和の村々を何んということもなしに歩いています。
天平時代の貴公子になったような気もちで……が、この貴公子、ときどき柿などを買って丸噛りをします。
昭和16年10月13日(36歳) 奈良より 葛巻義敏・満里子宛


君はいま恐らく生れてはじめての涙(、、、、、、)を感じているのにちがいない それが君に本当の君の姿を見せてくれるような事になればいいが……

あの日記をよんだとき僕はここはすこしいけないなと思ったが、そのままもっと続けて読んでいるうちに、
あそこで立原(※道造)が君に与えられたと信じていた傷手(恐らく君自身にはそれが気づかれなかったのだろう)が、
それが君という具象的な相手からでなく、現実そのものから与えられたものとして考えられて、
僕にはそこに君の具象的な姿がなく、ただそのあとに残った立原の傷だけしか思い出せなかった、
――そのため、これはこのままでいいのだと考えていたのも事実だ、これは君も信じてくれ、
そして又それが日記の一番いい読み方であることも信じてくれるといい、

だが、君自身でそれを与えたとは少しも気づかなかった傷が数倍になって、いま、君に返ってきているのだ
いま君がどんなにつらく思っているか、よく分かる
だが、すべてを悪くとるな、あのとき君が悪かったのでもない、立原だって悪かったのではない、
ただあのとき互に孤独でいるべきものが誤って一しょにいた事が悪かっただけなのだ
いまから考えると、ただ君のまちがいは、あのとき一人でいることに我慢できずに立原のところまでいったのがいけなかった、
又立原も一人きりでいたかったのなら、最初の日に君を拒まなかった気弱さを自分に許したのがいけなかったのだ、
――それだけの事なのだ、君はそれを君自身の罪過のように考えるのはまちがいでもあるし、
立原がそんなことをいつまでも根にもっていたとは考えられない、事実又君に手を差し伸べていたではないか
ただ立原がそのとき偶然日記を書いていて、
それをどうしても書かずにいられなかった事として書きつけておいたのが困った問題として残っているが、
みんながそれを僕がよんだように読んでくれれば何んの事はないが、誰もがそうとはゆくまいから、それが君の傷手を大きくしないように、
寧ろ君が君の傷をもっと純粋に(、、、)苦しむことが出来るように――何とかみんなで努力して見よう

こういう事が君を反省せしめて、君を一層好い君にさせるように願ってやまない

(※追伸)
全集(※立原道造全集)の仕事のことは、君に堪えられたら、手紙の方だけでも生田(※勉)君と継続してやって欲しい、
日記は杉浦(※明平)君と小山(※正孝)君にやって貰うにしても、ともかくも元気でいなければいけない
昭和16年10月20日(36歳) 奈良ホテルより 野村英夫宛


きょう倉敷へいってきた
静かな美術館でエル・グレコの「受胎告知」の前でソファに三十分ほど腰かけて眺めているうちにいい気持で居睡りしてしまった
目がさめたら又自分がグレコの絵の前にいるのでとてもうれしかった
昭和16年12月5日(36歳) 神戸ホテルより 堀多恵子宛


そちらは随分熱いだろうからなるたけ横着にしておれ
そして一日も早くこちらに来い
氷砂糖をもってこい
昭和17年7月23日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛


僕も小屋に帰ってから、しばらく急に一人ぽっちになっちゃって淋しくって仕様がなかったが、
火を焚いているうちに、漸く気もちが落ち着いてきた、アミエル流にいうと焚火がいろいろなことを僕に話してくれるからなのだろう、
それは思い出であり、夢想であり、悲しみであったり、よろこびであったりする、
いずれにしても、快いものばかりである、――

はげしい周囲の世間の変様と、静かな充実した生との対比において、或小さな人生の姿を描きたい、
すこしも宗教的な匂いがなくて、しかも真に宗教的な諦めをもったような人々が描きたい
昭和17年10月1日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛


“history”という言葉は大きくいえば「歴史」であり、小さくいえば「物語」だ
僕の考えている小説は一つのhistory(フランス語のhistoireという言葉の方がいいのだが……)だ
しかしそれに固有の二重の意味をもたせる、――つまり、大きな「歴史」(histoire)のなかに生きている小さな「物語」(histoire)なのだ
昭和17年10月4日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛


そう、そう、こんやはお前はお能見物だったのだな。どうだったな。
僕は自分の小説だの、家の跡かたづけだのに夢中になっていて、お能のことなど忘れていたんだ。
お前のことを忘れていたのではない。お前はいつも僕の裡に、そんなよそゆきの姿ではなしに、
ふだんのままのお前の姿で、ずっといたのだよ。……
昭和17年10月5日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛


お能は見ただけではそう面白いものではない
そのとき見たものを一つのimageとしてもっていて、何度となく思い出していてごらん、だんだん好くなってくるから……
昭和17年10月9日(37歳) 軽井沢1412より 堀多恵子宛


夕方別所に着いた。
すぐ温泉にはいって、いま貝づくめの夕食を了った どうも石器時代に退歩したようだ
いまに二十世紀の貝塚というのができるだろう
昭和18年2月3日(38歳) 別所温泉花屋より 堀多恵子宛


雪はまだふりつづけている 今晩、いい加減でやんでくれないとことによったらあすは橇が出ないかも知れないそうだ
こんなところに籠城させられたら、どうも大へんなことになりそうなので、少々ひやひやしている
が、まあ、なんとかなるだろう

三時間ばかりの雪のなかの馬橇の旅――おまえと一しょだったら、とときどきおもいながら、
いろいろ野尻のことだの、上高地のことだの、考えつづけていた こんどの雪景色はいつかお前に見せてやりたいものだ――
(※達郎)君は橇にすこし酔ってしまったようで、僕のほうがずっと元気がいい
腰の痛みも温泉のききめでか、けろりと直ってしまっている。
昭和18年2月3日夜(38歳) 志賀高原ホテルより 堀多恵子宛


僕よりもさきに君(※津村信夫)が亡くなられるとはゆめにも思っていませんでした
おそらく君自身もそう信ぜられていたでしょう、
いつも僕の具合が悪くなる度に「堀さん、早く元気になって下さい」と手紙や朝巳(※室生朝巳)君などを通じて温かい言葉をよこされ、
それがいつも僕を微笑ませ、大丈夫、大丈夫と僕にいわせていました
しかしこれからも、あの津村君のしみじみと温かい声は僕には忘れられず、いつも僕を力づけてくれるでしょう
昭和19年6月30日(39歳) 軽井沢1412より 津村秀夫宛


けさ多恵子上京、これから一週間ばかり一人ぼっちだ 鶏が四羽いるからそう淋しくもない
いま庭に椅子をもち出してアカシヤの木陰で朝の残りの冷たくなったトオストを噛じりながら此手紙を書きだしたところだが、
いかにもこうして生きていられるのが有難い気がする

しかし僕ももう四十を過ぎた
まだ五十までには大ぶ間があるが、それまでにひとつ好いライフ・ワアクを仕上げたいような気がしきりにし出している
これも恢復期の影響かも知れない
しかし悪いことじゃあないから大いにそういう気もちを自分でも大事にするようにしている
昭和19年8月29日(39歳) 軽井沢1412より 神西清宛


この頃僕はますます無精になってしまった
こちらはもう御存知のような寒さだし、それに今年は燃料の不足で炬燵ひとつで我慢しなければならない
その炬燵というやつが一層僕を無精にさせるのだ
そうかといって雪の上や、小癪な(室生さんの形容)風のなかを歩きまわってくるほどの元気はない
どうもこの春の病気がひどく祟っているようだから、まあこの冬はいくら無精になってもいいことにしていようとおもう

きょうは僕の四十回目の誕生日だ
浅間や八ツは雪らしく、うす日があたったり、ちらちら雪が舞ったりして、炬燵にはいってこの手紙を書いていても、顔がつめたい
多恵子はいま僕のために一生懸命にお赤飯を炊いている
御馳走はなんにもなさそうだが、とにかくこうやって落ちついて、静かに、きょうを過ごせそうなことでもありがたいことなのだろうね
昭和19年12月28日(40歳) 信濃追分油屋隣より 葛巻義敏宛


たべものなどは何かと不足がちですが、僕などは静かなことだけでもいいことだと思って、本ばかり読んで暮らしています
唯、またこの春すこし患いましたので、殆ど散歩に出られず、草花なども人に貰うのだけを愉しんでいるばかりです
よく花を採ってもってきてくれる少女の話だと、この春から新しい花をもう三十種ほども知ったそうですよ
多恵子はそんな花どころでなく毎日畑仕事に忙しがっています
五十坪ばかりの畑に、馬鈴薯、甘藷、葱、豆類、南瓜、唐黍、胡瓜、トマトなどつくり、この頃は毎日その野菜ものを楽しんで食べています
僕もときどきその畑ぐらいのところまで往ってみますが野菜の花も可憐なのがありますね
野菜の花は僕にはみんな初めて見る花のように見えました

ほんとうにいらっしゃれたら、一度こちらにお出でなさい 二三日位なら僕のところでお宿をしますから

その代り、なんにも御馳走はできません 多恵子の自慢の馬鈴薯ばかり食べさせますよ
昭和20年8月13日(40歳) 信濃追分油屋隣より 兼子らん子宛


夏のはじめに君から貰った手紙の返事をいま、もうその夏の末になって、漸っと書く
どうもわれながら懶惰になったものだとあきれている

この夏のはじめ君から手紙を貰ったときはまだ病床で、ろくろく本も読めずに、毎日毎日ぼんやりと自分の若い頃のこと
――震災前の東京、本郷の寮から毎日のように上野、神田、それから日本橋の丸善あたりへかけて歩きまわったこと、
その頃読んだ本(ロシアの小説やフランスの象徴詩など)のこと、
――それから震災後、はじめて澄江堂(※芥川龍之介宅)へ訪れた折のこと、
魚眠洞(※室生犀星)や「驢馬」の人々のこと、
それから毎日君と全集の仕事をしながら夜は夜でほうぼう歩きまわっていた明るい町や暗い町のことなど、考えて暮らしていた
丁度その折君が澄江堂の焼失を知らせてくれたので、(大抵駄目だったろうとは思っていたが……)たいへん切なかった
何もかももう僕たちの追憶のなかで生きなければならなくなったのだね それもほんのときどきだけ……

多恵子は畑仕事に夢中、馬鈴薯は上出来だったが、そのあとに播いた蕎麦の芽が暑さのためとうとう出ず、悲観している
もちろん僕はなんにも手つだえないばかりか、家から二町ばかり離れたその畑へも歩いてゆくのが漸っとのことだ
四、五十坪ぐらいあるだろう
早く僕が元気になって、二人で肥桶をかついでゆけるようになるといい、というのが多恵子の唯一の空想らしい
僕もはやくその位元気になりたいものだ
昭和20年8月27日(40歳) 信濃追分油屋隣より 葛巻義敏宛


私もこの春また少し患い数ヶ月寝ておりました しかし秋以来ずっと元気になりこの頃は漸く為事のことを考えるようになりました
これから急に蔓延しそうな悪思想のなかで古い静かな日本の美しさを守って行きたい気持で一ぱいです
昭和20年10月26日(40歳) 信濃追分油屋隣より 折口信夫宛


僕もぽつぽつ仕事をはじめようかとおもっている 春先きが一番苦手なので、まだ用心している

河盛(※好蔵)君への義理で「新潮」に小説を書きかけたが、途中で駄目になり、随筆(※「雪の上の足跡」)でかんべんして貰った
これから「世界」と「人間」の小説が控えているので、気が重くてしょうがない
小林(※秀雄)君の「創元」はどうなっているのだろうか 小説を書く約束をしているが、その後一向様子が分からず、少し気になっている
いろんな雑誌の記者がわざわざ追分くんだりまで原稿を頼みにくるので、大弱りをしている

近在にいる知人たちが「高原」という季刊誌をはじめ、僕も引っぱり出され、平生何かと世話になっているので、お仲間入りをしたところ、
どうも僕などが中心になってやるような恰好(外見上)になってしまい、少々閉口している

こんど「四季」を再刊することになった
結局、みんなの希望で、当分僕がひとりで編集する というのも、本屋(角川書店)が僕の心やすくしている人だし、
いまのところ三十二頁の小冊子で行こうというので、それなら気らくだと思って、引きうけた

角川書店の主人、角川源義君は、もと青磁社の顧問をしていて、折口、金田一、桑田諸先生の本を出させた、
折口博士門下の新進国文学者で自分でも「悲劇文学の発生」という本を書いている、
――まだ三十ぐらいの若い人だが、こんど独立して出版をはじめた、あまり熱心なので、僕の全集を出す約束までしてある
いい本屋になるだろうとおもう
昭和21年3月8日(41歳) 信濃追分油屋隣より 神西清宛


いろいろ勉強にいそしんでいられるようで何よりです
誰れか一人の作家のものを十分に読むことが一番大事です
誰れを選ぶかが問題でしょうが(むしろ誰れに選ばれるかということになるのかも知れない……
昭和21年4月27日(41歳) 信濃追分油屋隣より 遠藤周作宛


おととい日塔(※聡)君が訪ねてきた そのとき君が大ぶ苦しそうな様子の話だったのでお案じしている
僕の方も相変らずの微熱と頻繁な喀血になやまされている どうにもしようがないので ただもうおとなしく寝ている
僕も頑張るから君も大いに頑張ってくれたまえ
多恵子が何か君に食べられるものを送りたいといっているが
山の中でなんにもないから同封のもので何か好きなものを買って食べてくれたまえ
返事なども無理に書かないでくれたまえ
昭和23年6月12日(43歳) 信濃追分油屋隣より 野村英夫宛 (※全文)


長篇(※「風土」)完成のよし僕もうれしく思います
はやく上梓せられるといいのですが僕にもお力添えできるような事でもあったら遠慮なくおっしゃって下さい
僕もまあいまのところ無事です お互にできるだけ頑張りましょう
まだこちらに神西君、中村(※真一郎)君、加藤道夫君などが滞在していて、それぞれ仕事をしています
はたから見ていると仕事というものは大へんなものだなあとつくづく思います
昭和23年9月17日(43歳) 信濃追分油屋隣より 福永武彦宛


わが茅屋はいま(アンズ)(スモモ)の花ざかりです ことしは花がたいへん「いそいでいる」と村の人達が云っているとか
きょうはこれからタラの芽の天ぷらを食べるところ
李の木に巣箱をいたずら半分しかけておいたら
このごろ毎日頬白(ほおじろ)がつがいで来てせっせと巣をつくり出しているのがかわゆらしい
昭和25年5月9日(45歳) 信濃追分油屋隣より 久津多恵子宛


毎日ホトトギスばかり啼いていて聞きづらいほどだ
池にはあやめの花が咲きかおっているのも、おあつらえむきだが、
どうも夕方などひどく咳き込みながら、それに見入っているのは、新古今的どころではないや
昭和25年6月17日(45歳) 信濃追分油屋隣より 神西清宛


僕の病状はtardifな春のように一進一退しています
昭和26年4月1日(46歳) 信濃追分油屋隣より 加藤周一宛


僕の方も相変らずの工合にて「塚より外に住むばかり」
これから冬ともなれば一層観念して寝ているよりほかはない

毎年七月になると君に頂戴した芥川さんの掛軸を眺めて又一年生きのびたかと感慨無量なり
昭和26年12月12日(46歳) 信濃追分より 葛巻義敏宛


新春を賀したてまつる、御新居の趣いかが、こちらも近年になく暖な正月を二人とも元気にむかえました
加藤道夫君暮より油屋に滞在、只今僕の曠野(あらの)をラジオ・ドラマに仕組んでいる由、
御返却のもの確かに落掌、今後のため却ってよろしからん

追伸、夕食後に前便をしたためておいたら、多恵子に「なんてけちな手紙、もうすこし何んとかお書きなさいな」といわれ、
こんどは臥床したなり書くが、この冬はきわめて閑適で、書くこともないのだ、
昭和27年1月5日(47歳) 信濃追分より 神西清宛


僕はあれからずっと一週間おきぐらいに「薔薇の花ほど」小さな喀血をつづけていました まだ用心中です
この二三日うちに急にコブシや梅が咲き出しました しかしどうも春は苦手です
昭和28年4月29日(48歳) 信濃追分より 三好達治宛 (※最終書簡)

昭和28年5月28日午前1時40分(満48歳) 信濃追分の自宅にて永眠


 追憶から


その床の間に、……
見馴れぬ小幅がかかっていた。近よって眺めると、

わが門のうすくらがりに人のゐて あくびせるにも驚く我は
病中偶成 龍之介

とあった。おそらく絶筆かと思われる芥川さんの墨跡である。

――芥川さんの命日には、それを掛けることにしているんだよ。
と堀辰雄は、ぽつりと言ってじっと眼をつぶった。
「高原の人」神西清


ことの起りは、僕が中学時代から朔太郎の『月に吠える』に惚れこんでいて、
そのビザールとも病的とも言える欲情主義を、数学志望のこの美少年の前で吹聴したのに始まる。
堀辰雄は最初すこし抵抗しているらしい様子だったが、
やがて朔太郎の第二詩集『青猫』が出るに及んで、たちまちこの放浪詩人の俘になった。
思うに『月に吠える』の主調をなしているあの陰気なエロティシズムは、堀辰雄の世界のものでなかったに相違ない。
ところが僕は、いささかどころか大いに不満であった。
『青猫』の朔太郎は、欲情の音楽から一種典雅な抒情主義へ、ひらりと転身しているように僕には思えた。

僕は朔太郎のこうした新しい調子に丸めこまれた堀辰雄に、何か我慢のならぬスノビズムを感じとって、
それから暫くは彼の前で小っぴどく朔太郎をやっつけるようになった。
今でこそ笑いながらこんな思出話もできるのだが、そういう僕の軽薄な嘲罵を聴きながら、妙に顳顬(こめかみ)のへんを蒼くして、
うつ向いてじっとこらえている若い堀辰雄の表情は、何とも言えぬ「強情の美しさ」に溢れていた。
とうとう或る日、彼は僕に向ってきっぱりと宣言した。
「もう僕の前で朔太郎の話はしないでくれないか!」
僕は快諾した。僕だってそうそういつまで朔太郎の悪口は言いたくなかったからである。
思えばこれが、彼が僕とした最初の喧嘩であった。
「静かな強さ」神西清


花の好きだった堀辰雄は、自分の文学を、フローラ型の文学と呼んでいた。
言うまでもなく、これはフォーナ型つまり動物型に対する言葉で、つまり植物型の文学ということになる。

彼が若い頃から結核にとりつかれ、まだ旅行や執筆のできる元気な頃でも、
年の半分ぐらいはじっと引き籠って、病気をあやす――この「あやす」というのは彼自身の言った言葉だが――
つまり静養と瞑想の時間に充てなければならなかったという事情も、大いに有利に作用していたと言えるだろう。

彼は言わば、病気とは仲のよい親友であった。
こんな話がある。数年前、ストレプトマイシンが始めて輸入された時、われわれが一つ思切って使ってみては――
と彼に勧めたことがあった。すると堀辰雄は、ちょっと苦笑を浮べて、
「僕から結核菌を追っ払ったら、あとに何が残るんだい?」
と、反問した。勿論、冗談に言ったのであるが、見方によっては、
彼が自分の病気というものに、どれほど深い親愛感を抱いていたかの一つの例証となるかも知れない。
「白い花」神西清


堀辰雄は田端にいたじぶんの僕に、こととひのだんごをよく持って来てくれた。

外になんにもないものだからといい、ちょっと、とてもうまいおだんごですといった。
とても、ちょっとうまいおだんごは船で買いに行くのかというと、
水戸さまのお屋敷からずっと歩くのだといい、その道のりをきいたがわすれてしまった。
水戸さまのお屋敷といい、おだんごの()といい、浅草の観音さんを観音さまといい、どこにも()の字のうやまいをつけて物をいう堀は、
娘などとはなしているのを聞いていると、あやうく女のひとのつかうことばに紛れてゆくあぶなさがあった。
「詩人・堀辰雄」室生犀星


私たちは話にも飽きると連れ立ってよく街へ散歩に出かけたりしたが、そんな時だったか、
浅草の観音様の境内を抜けようとした時、彼はちょっとてれながら、
やっぱり僕は観音様の前は素通り出来ないんだよ
と云って手を合わせた
「回想断片~下町と山の手」阿比留信


堀さんの旅はいつもいかにもさりげなく踏み出された。

プランなぞ樹(た)てない方がいいんだよ。

芥川さんは重いものをみんな背負いこまれたが、僕はなるべく身軽になろうと思った。》
とぽつんと話されたことも思い合されて忘れ難い。
ともあれ堀さんはそれと知られない旅上手だったようだ。
「堀さんの旅」日塔聡


その時、堀君がいい放った言葉をはっきり覚えている。
「何をいっても僕達を救うものは、『美』だよ。」
わけもなく耳の底に残った言葉だが、その後思いがけなく日本文壇の実情を一層近くから見る機会を得るようになって、
この堀君の言葉が、むしろ大胆な放言であったことを十分に理解した。
「美しい世界」中島健蔵


戦争中のことである。そのころ私は日本出版会の学芸課長という大それた役目についていた。

文学者がなにかにつけて情報局あたりで邪魔ものあつかいされていることをよく知っている私は、
保身の術からも、時としては国策に協力した作品を書く必要があるのではないかということを口にした。
すると堀君は言下に、もの静かではあるが断乎とした調子で、
そんなことは、到底自分にはできない と云った。
私はそれを聞いて、自分を深く恥じた。
堀君は終戦後、自分は戦争中は大いに抵抗したというようなことを少しも書かなかったが
当時私の知っていたどの文学者よりも立派であったことを遅まきながら書いておきたい。
「二つの思い出」河盛好蔵


冬、畑で、霜がかかった野菜は、甘く、やわらかく、おいしくなることを、
手紙のついでに、追分でねていられる堀さんへ、お知らせしたら、堀さんは、しばらく、来る人ごとに、
「霜がかかった野菜は、甘く、やわらかく、おいしくなる」話をされたと、多恵子さんから、おたよりがあった。

あの堀さんが、興がったとなれば、知らせたもとのこっちが、あらためて、
「霜がかかった野菜は、甘く、やわらかく、おいしくなる」ことを、しみじみと興がれる興が湧いてくる。
信州に住みついて霜のかかった堀さんになっていたからだろう。


昭和十年頃の夏だ。一つっきりになった五十銭玉をもって、鎌倉から、新潮社へ、原稿料をもらいに行くと、
係の人が留守で、明日でなければ出ない。帰りの切符が買えず、やっと、市電で本所の堀さんの家へたどりつき、
「こういうわけだから、今夜泊めて下さい」と、家政婦さんの貞子さんと、ねるつもりでたのむと、堀さんは、
「いま旅行へ出る所、この室へ泊ればいい」
と、せっせと旅支度をした。……いよいよ出かけしなに、
「ンン、ここらの本は、どれでも読んでいいよ、ンン、机の引出は、あけちゃヤだよ」
いささかムッとした私は、たちまち、クスッとおかしくなり、「知らぬが仏、うまく皆みるかも知れない」と、舌の先を出すと、重ねて、
「見ちゃヤだよ」
念を押して、午後の夏陽ざしの中に、サッと出かけて行った。
「霜」北畠八穂


堀さんがお仕事をなさる時は、いつも青い妖精がその廻りを飛んでいる。
僕は本当に何度もそれを見た様な気がする。
だから堀さんには、どこにでも花の様な匂いがするのだろうか。
堀さんの頬は花の様だ。或る時はあんまり透通っていて、僕たちは悲しくなる。
僕は堀さんは何もかも忘れて眠ってしまう事があるだろうかしらと思って見る。
僕が堀さんのお家なんかにとまる時、夜が来ると僕はすぐ眠ってしまう。
そして晩遅く、森で夜鳥が鳴くのに目を覚ましたり、朝早く庭で何か音がするので、カーテンを覗いて見るとリスが遊んでいたりする。
それで僕がそれを堀さんにお話しすると、堀さんはそれをちゃんと知っておいでになる。
――小さなリスだったね。きっと子供だね。――

それで僕は堀さんはきっと、眠る事なんかなくて、何時も何かを考えておいでになるんだろうと思って見る。
堀さんの目には月や星があんまり明るすぎて眠る事が出来ないのかもしれない。
「雉子日記・堀辰雄詩集」野村英夫


堀さんは、ぼくに本をゆっくり読む練習をしたまえと、忠告して下さったことがあったが、
その時、こう付け加えられたのを、ぼくは印象深く覚えている。
「芥川さんは、本を速くしか読めない人だったからね。」
尤も芥川について、堀さんはいつも深い敬愛をこめて語った。
何かにつけて規範となるのが「芥川さん」だったらしい。
「君、芥川さんはそういう時は、この字を使ったよ」
といって、何度かぼくの原稿の字を直されたりした。
「堀辰雄」中村真一郎


非常に女房が僕にわがままを言うものだから、堀さんが叱ったことがあるんですよ。
寝たきりの堀さんが、庭で僕と女房と話しているときに、
「それはいけません」
とか言って叱ったんで、女房はびっくりしたんです。
僕が原稿を書き上げて、郵便局へ持っていってくれないか、と女房に言ったら、
「そんなことはしない」と女房は言ったんです。「いやだ」って。そうしたら、堀さんが
「そんなことは言っちゃいけないよ。作家の細君はそういうときには持っていかなきゃいけない」
と言って、結局僕とふたりで行ったことがあった。(笑)
「対談 思い出すことなど」中村真一郎(※堀多恵子との対談)


堀さん自身も、関東大震災のとき隅田川で死にそびれたということを言って、それで非常に印象強かったのは、
「人間一遍死にそこなわないと一人前にならないよ」
と僕に非常に強い口調で言った。
日ごろの堀さんの文学ではそういうことが(なま)に出てこない。
つまり堀さんの作品の中の人物がそんなことを口にするというのは、想像もつかないし、おかしいわけです。
だけども、それは本音で言ったんで、非常に僕にびっくりした印象を与えたんですよ。
「対談 思い出すことなど」中村真一郎(※堀多恵子との対談)


私の二十代の頃、堀さんはよく、
自分はとうに先生の芥川さんの年齢を過ぎてしまったのに、今でも芥川さんのことを思い出すと、年上の人のように思える
と、嬉しそうに、そうして不思議そうに語っていたが、
私ももう、やがて間もなく堀さんが亡くなった年齢から、二十歳も生き伸びたということになる。
そして、にも係らずやはり、私の記憶のなかで、私に向って微笑しながら、うなずいて見せているのは、
私よりも年上の堀さんなのである。
堀さんが世を去られたのは、私の三十代の頃だったが、それからの三十年の間、私は文学的仕事を続けながら、
いつも心のなかで、堀さんに相談をしながらやって来た。
そして、大きな仕事がひとつ仕上ると、生前の堀さんの枕もとに置きに行ったように、
堀さんに、さあ、今度の作品はどうですか、お気に入りましたか、と問いかけていたものだった。
そうして、その習慣は一生の間、つづきそうである。
「堀辰雄展に寄せて」中村真一郎


堀さんは、よく色鉛筆でハガキなどを書かれた。
柔かい芯で、病床でも、らくに書けるからかもしれなかったが、
グリィンだの、ブリューだので書かれたハガキが来ると、外の郵便物の中でも、ひと眼で堀さんとわかるのは、たのしかった。
私も、柔い鉛筆が好きで、なにか考えごとをする場合、枕元の鉛筆をとって、寝床で書く場合もあるが、
紙をこすったりすると、手はうすよごれる、殊によれば、その手で顔もいじるので、顔までうすぐろくなったりして、
困る話をしたことがある。すると堀さんは、即座に、
「色鉛筆をお使いなさい、舶来のきれいな奴がありますよ、
僕は、そういうものは贅沢するんだ、僕にも出来る贅沢だからさ
……

まだ堀さんが、焼けない前の油屋に、いらした頃のことである。(……
毎日午前中、堀さんの案内で野原を歩きまわり、退屈しのぎに押花を作った。
宿から、新聞紙を貰うのも面倒なので、持参の原稿紙を使って、毎日紙を取り替えていた。それを見た堀さんが、
……勿体ないことをするなあ、原稿紙は無駄に使っちゃいけませんよ、
僕なんぞ、書きそこないは、半分に切ったり、その上に貼ったりして使うくらいなんだ
……

私は、堀さんのこの注意も忘れずにいる。
ものを原稿紙に書いて暮す人間が、仕事の上で紙をいくらでも使うのは、仕事をしている場合容赦してはいられないが、
遊びごとに、押花などに、多くの紙を使いすてるのは、無頓着の私にも、指摘されて、はじめてこたえた。
堀さんは、かまわないようでいて、こういう日常生活の端に至るまで、実に気がつくひとである。
「色鉛筆」中里恒子


この前私が堀さんにお会いしたのはおととしの夏の末で、そのときも余り病状は快い方ではなかったが、
それでも今度よりはも少し大きい声であった。
髪の毛だけは相変らず濃くて黒いが。
不思議に白くおなりにならないわね、お丈夫でいたって、もうだいぶ皆さん白くなりはじめていらっしゃるのに」
「うん、だって僕には苦労なんかないもの」
……?」
「この頃はね、ほんとに子供のような気持さ……
勿論私たちは健康であっても無意識的にも、残酷な死に直面する気持になるものだが、
こうして長い間病みつづけ、常に死を身近に置くような日々を送りながら、なんにも苦労のない気持になり得るのは、
どのくらいの苦衷が既に埋蔵されたかわかるまい。
「柘榴を持つ聖母の手」中里恒子


太宰治が、今でも若い愛好家を非常に多く抱えていることは、遠くから見てもよく理解出来る。
文学への心酔もあるであろう、けれどもそれ以上に、若いファンを惹きつけるのは、氏の生き方であろう。
悲劇的な生涯、自分を残酷に破壊してしまったひと、純粋なひと、自分の思うがままに生きようとしたひと。

堀辰雄は、太宰治とは対照的な生き方をしている。生涯、自分を大事に生ききったひとである。

肺病といわれて、それだけで、以前は絶望的になり、前途を悲観した人々の多いなかで、
堀辰雄は、むしろ、肺病を逆手にとって、自分の舞台装置としても、生かしきった。

一見、牧歌的で、抒情的で、甘い雰囲気にひとを誘う彼の生き方の中には、
それとは反対でさえある、つよい、甘くないものがあったと私は思う。

堀辰雄に接した人びとのことごとくが、「やさしい、親切なひと……だけど、ちょっとこわいようなつよさ……」と言われる(……

自分のやさしさ、自分の弱さを、堀辰雄は、つよい精神で自ら守っていたのではなかろうか。

私の書いた「ふみぬすびと」、「花亜麻」など初期のものについても、
「いつまでもこういう風なナイーヴさをなくさないように……それには、つよさが必要だからね
と言ったことがある。それは、堀辰雄が堀辰雄に向かって言った言葉でもあったのだろうか。


或る日、みんなで、みんなというのは堀さんの若い友人たちと、離れ山の方へ、自転車で散歩にゆくことになった。
私は、丁度、川端さんのお宅にお邪魔していたので、貸自転車を借りて、参加することになった。……
私は、散歩から帰って、じきに自転車を返してしまった。
やはり、自分の自転車でないと、なにやら不安定で、どうも気に入らなかった。
堀さんはそのとき、
「自分の自転車でなければならないということ、それは、あなたの性格だな……僕もまあそうだけれども
時どき、こんな風にちらっと、堀さんは心の内側を話し出す。
徹底的に話すというのではなく、何かの拍子に、ちらっと心にふれるものをとらえて、それに自分の気持を託すというような、
間接的な話し方である。
洗い浚いなにもかもさらけ出して、言いたいだけのことを言ったり、ひとに聞いたりするということは、
私の知っている範囲では、堀さんにはなかった。
「終の栖」中里恒子


「君たちはカトリックですか。西洋人の作家が色々な思想をさまよったあと、カトリックにすうっと戻る人がいるでしょう。
ああいう風にすっ(、、)と還るところが日本人にあるとすれば何でしょう」


私たちにたいしてではなく、独りごとのように呟いた堀さんはその時、『花あしび』という日記風のエッセイを発表されていた。

堀さんの『花あしび』は大和、奈良の御仏の世界を歩きながら自分が還る世界を探し求めているエッセイである。
「二つの問題―堀辰雄のエッセイについて」遠藤周作


あの方が目覚めさせて下さったあの血液、あの神々の世界への郷愁(ハイムヴエー)があれほど魅力があり誘惑的であったのは
僕達東洋人が神の子でなく神々の子である故ではないでしょうか。
万葉の挽歌や伊勢物語から始まった僕達の長い血統は、
神々の血統であり汎神論的であり決して神の一神論的血液ではありませんでした。
僕は今でも思い出します。
秋の夕暮、西陽を背に浴びて、あの油屋の横のお家の縁先であの方は僕にこうおっしゃいました。
「すすきっていいね。すすきをじっと眺めているなんて日本人じゃなくては、わからないのだよ」と。
「神々と神と」遠藤周作


俳句の話など出た時、私は「句でも作って御覧になったら」とすすめてみたりしたこともありました。が、逆に
「俳句を作ろうと思うと自然にものをよく観察するようになるから、お前こそやってごらん」
と言われてしまいました。

辰雄も詩は又書いて見たいと思った時もあったようです。

「佐藤春夫さんや三好さんのような、声高らかに歌う詩は僕には出来ないけれど、
シュペルヴィエールのようなつぶやく詩は出来るかもしれない。そういった詩が書きたいなあ」

と言っていたこともありましたのに、気軽に即興的な詩の一篇も出来なかったのは、いろいろの原因はあったでしょうが、
やはり病気の苦しみに苛まれたということが、一番大きかったのではないでしょうか。
「何か生きている甲斐のあることがしたいんだが、こんな私生活を俳句や詩に織込むことはいやだ。
やっぱり、ある一つの世界をクリエイトするような仕事がしたいのだ」

というようなことを口にしたことがありました。どんなにか仕事もしたかったでしょうし、
そのためにはこんな山の中から一日も早く抜け出して行きたい、と願っていた日もあったようです。
しかしそれはもう体がゆるしませんでした。
「辰雄の思い出~晩年の辰雄」堀多恵子


魂の孤独と病気の苦しみの中で、
「こんなに苦しむくらいならもうなんとか死なして貰いたいな」
とつぶやいた時、その苦痛に引きずられるように「一しょに死にましょう」と言う私の顔を見上げて、

「僕が自殺をしたら、僕の今までの作品はみんな僕と一しょに死んでしまうだろう。
……わかるか?僕の努力はみんなむなしくなってしまうのだよ」

と言ったその一言、私はそれから長い間そのことばかり考えてくらしていました。
「辰雄の思い出~晩年の辰雄」堀多恵子


辰雄は自分の置かれた世界を最上のものとし、与えられたものをそのままに受け入れてゆくということを自分の身上としていたようです。
「僕は病気のおかげで得をして来たのだ」
などと言えるのも、そうした生活態度から出てくるのではないでしょうか。

「自分のおかれた環境に満足して、其処から喜びを見出して行かなければいけない」
というようなことを私にも教えるように言いました。
「辰雄の思い出~晩年の辰雄」堀多恵子


辰雄の死の二日前、急に空が暗く雷が鳴り、浅間の小砂利を巻き上げて、硝子戸にばらばらと吹きつけるような突風が起りました。
びっくりした私が寝床の傍に駆けより、病人の体を蒲団の上から抱くようにして支え、片方の手で辰雄の手をしっかり握っていますと、
辰雄は何か恐怖を感じたのか「不気味な風だなあ」と何度も繰り返して言いました。

その晩、夕食のあとで、「お前は意気地がないから心配だよ」というので、私は
「あら、突風が怖いと言ったのはあなたじゃあないの。私はちょっとも怖くなんかないのに」
というと、ただにっこり笑ってあとは何も言いませんでした。
そして又その翌晩、眠りに就く前の支度をしている私にやさしく
「お前はいくじがないから心配だなあ」と同じように繰り返したのです。
私はああ、辰雄さんは突風のことじゃあない何か別のことを考えているのだなと気付いたのでした。
「辰雄の思い出~晩年の辰雄」堀多恵子

 
昔、旧軽井沢の山小屋の隣りにトオマス・マンの小説にでも出て来そうな家族だとよく話し合っていたドイツ人の一家が住んでいた。
其処にびっこで、片方の眼が義眼の少年がいた。彼は一人っ子だった。

寂しそうな少年はまるで地面を這う蟻の行列でも見ているように、
大樹の下で、屈み込む姿勢でじっとしていることがよくあった。その少年はリイダと言った。
私は彼が不憫に思えてならなかった。
或る時、少年の話を夫にすると、自分も前々から気がついていたと言い、

リイダはきっと物を考える人間に成長してゆくだろう

と私が想像もしなかった様な事を言った。
そのことを思い出すとき、夫は、幼い日の自分の姿をその少年の中に見ていたのかもしれないと思ったりする。

全く異った環境に育った二人の人間が一緒になり、一つ屋根の下に生活するようになったのも何かの縁なのだろう。
こうやって一人ぽっちになって山暮らしをしていると、
若い日共に生活した時、知らず知らずのうちに受け取ったものが、私の裡に成長したのだと思わずにはいられない。
自分から好んで求めているこんな生活が続く限り、私にも生きる喜びもあるのではないかと思ったりする。
「山暮らし」堀多恵子


―余禄―

私達が軽井沢のコッテェジで夏を過した頃、
草ぶかい庭の隅の方を雉の親子が列をなして散歩しているのをときどき見かけたものだった。
お隣りのドイツ人のエッケハルト夫人はそんな雉の親子を向うのヴェランダから見つけると、
うれしくてたまらないように、足の悪い、ひよわそうなリイダちゃんという七つぐらいの男の子をつれて、
わざわざ私達に近づいてきて話しかけた。
「一番はじめオトウサン雉、その次オカアサン雉、コドモ五ツいますね。トテモトテモかわいらしいです」
とかたわらの少年に一々それを指で示しながら、片言まじりに説明したのを私はおかしがってよく真似をしたことがあった。
(「むかしの人」堀多恵子)


私たちはエッケハルト一家の人たちと外で逢えば会釈をし、片言まじりの日本語で親しく挨拶を交しました。
ドイツ風の馬鈴薯料理にまねかれたことなどもありました。

終戦後、強制引き上げで本国に帰りましたが、私は偶然にも去年の秋、この夫人に再会する喜びを得たのです。
エッケハルト夫人は軽井沢駅から一寸離れた小瀬温泉が以前から好きで、
其処にあるたった一軒の宿屋の人たちとも親しくしていたのでしょう。
十余年ぶりで日本を訪れると、早速夫人は此処を訪ねたのだそうです。
丁度その日、私も其処に泊っていました。
宿の庭先で私を認めた夫人は「ミセス・ホリ、おお、ほりさん」と走り寄り、私を両腕の中に抱きすくめてしまいました。
「旦那さん死んで、あなた本当にかわいそう。あの時、随分しんぱいでした。あなたに逢ったの神さまのおめぐみです」
と何度も繰り返して言い、
「リイダ坊っちゃん大きい大きい男になりました」
といかにも嬉しそうに、昔と少しも変らない口調で元気に話してくれました。
一と月ほど日本にいて又本国に帰らねばならないという夫人と尽きない名残を惜しんだのです。
(「辰雄の手紙―思い出すままに―」堀多恵子)


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