年譜 

堀辰雄の生きた月日は50年にも満たないけれど、そこにはふしぎな安らぎと広がりがある。
迫りくる死を行きどまりと思わずに、はるかな「どこか」をゆったりとめざす、静かな、それでいてたしかな歩み。
師・芥川龍之介の、稲妻のように峻烈な人生とくらべると、いよいよそれがきわだって見える。
堀辰雄のスローな人生は、それそのものが、そんな師へのレクイエムでもあった。
大事に生きよう。世界は美しい。

もうひとつの年譜・堀辰雄の書簡「優しき歌~心に響く堀辰雄の言葉~」)もぜひ併せてごらんくださいませ

※昭和2年までは芥川龍之介情報も併記しているのでカオスです。芥川は、堀辰雄はで色分けしています。その他人物のリンクは別ウインドウで開きます。
※いろんな書籍を参考にしましたが、同じ出来事なのに年月日が一致してなかったり載せてたり載せてなかったりと、資料によってけっこうまちまち。おいっ!
 どれが正しいのか判断がつきかねるものは、とりあえずいずれか一説を表記し、(かっこ)で他説も併記しています。
※堀辰雄の誕生日は12月28日なので、表記年齢に達しているのは年末4日間のみ。よって表記年齢より1歳引いた数字を実年齢とお考えください。
※発表作品は「」、刊行書籍は『』で表記しています。また全作品全出版物すべてを載せているわけではないのでご了承ください。
※まちがってるところに気づいたり新情報がわかったりするつど、ちょこちょこ書き直し&追加してゆきます。未定稿年譜であることをご了承ください。
 まちがってるところ、新情報などお気づきの点があれば管理人まで教えていただければ非常にありがたいです。(他力本願)
 


 年号 芥川
龍之介

辰雄
できごと  発表作品 
1904
(明治37)
12  2月10日 日露戦争勃発
8月30日 
芥川龍之介、実父の新原敏三家から除籍、母フクの実兄・芥川道章の養嗣子となる
        (母フクが龍之介生後7か月で発狂したため龍之介は母方の家で育てられていた)
        (母フクはこの前年の1903年11月28日に死去)
        これと引換に新原家にはフクの妹フユが敏三の後妻として入籍する
        (敏三とフユの間にはすでに一子があり、フクの子として届けられていた)
12月28日 
堀辰雄、東京麴町区平河町五ノ五に生まれる
        実父は堀浜之助(元広島藩士族:裁判所勤務)、実母は西村志気(町屋の娘)
        国許にいる妻コウとの間に子がなかったため堀家の嫡男として届けられる
 
1905
(明治38)
13  3月  芥川龍之介、江東尋常小学校高等科3年修了
4月  
芥川龍之介、東京府立第三中学校入学(担任・広瀬雄)
9月5日 
日露戦争終結(ポーツマス条約)
12月3日 堀浜之助
堀辰雄の実父)の母たつ死去
 
1906
(明治39) 
14 堀浜之助堀辰雄の実父)の妻コウ上京

志気、向島小梅町に住む妹・横大路よし(田端のおばさん)を頼り
辰雄を連れて堀家を出る
堀浜之助、志気らの居所を捜して駆けつけるが、
辰雄を連れ帰れずに戻る
 言葉が遅く「うま、うま
」がやっとだった辰雄、この時生まれて初めて「お父うちゃん」と言う
 
1907
(明治40)
15 志気、向島土手下の小家に移る
 煙草などを商いながら
辰雄と母たま(辰雄の祖母)と三人で暮らす
 
1908
(明治41)
16 志気辰雄を連れ向島中ノ郷三二に住む上條松吉に嫁す
 義父となる上條松吉は寿則と号す彫金師で辰雄を実の子のようにかわいがった
 辰雄は当初松吉を「ベルのおじちゃん」と呼んでいたがいつの間にか実の父と思うようになった
 再婚してからもしばしば堀浜之助から使いがきて辰雄を取り戻そうとしたが志気は応じず
 
1909
(明治42)
17 12月 芥川龍之介、校友会雑誌に「義仲論」を執筆する

幼少期の
堀辰雄、複雑な家庭事情ながら周囲の大人たちの愛情を一身に受けすこやかに育つ
行きつけの洋食店のボーイにも気に入られ、いつもおんぶして座席まで連れていってもらっていた
 
1910
(明治43)
18 この年、堀辰雄、幼稚園に通うも内気なため1か月ほどしか続かず
3月 
 芥川龍之介、東京府立第三中学校を卒業
4月6日 
堀辰雄の実父堀浜之助死去(満54歳)
8月 
堀辰雄の自宅、洪水の被害に遭う 神田連雀町の問屋「きんやさん」に一時避難
      のち新小梅町二番地の水戸屋敷裏に引越す
      上條松吉、そこに細工場を建てて彫金の仕事に精を出す
   
芥川龍之介宅周辺も大被害 芥川家はギリギリで床上浸水をまぬがれる
      龍之介の母校・三中は罹災者避難所となり生徒を動員して救護活動にあたる
      龍之介も救護に加わる
9月13日 
芥川龍之介、第一高等学校一部乙類(文科)入学(成績優秀のため無試験入学)
10月   
芥川家、本所小泉町から多摩郡内藤新宿二丁目の実父新原敏三の持家に転居 
 
1911
(明治44)
19 4月  堀辰雄、牛島小学校(現小梅小学校)入学
      ひとりぼっちをおそれて長い間母志気に伴われて登校していた
      しかし学業優秀のため教師らにも気に入られ、
      内気だが温厚な性格のため級友らにいじめられることもなく、だんだんなじんでゆく
      小学校同級の西村謹一による当時の堀の印象は「紅顔の美少年」
      「利口でいつもニコニコと微笑んでいた」
      西村はいつも堀に宿題を写させてもらっていた 試験の答案まで書かせたことも
9月  
芥川龍之介、第一高等学校2年生に進級
      それまで自宅から通学していたが規則のためやむなく南寮の中寮三番に入寮、
      しかし粗雑な寮の雰囲気が肌に合わず週末ごとに帰宅 結局一年で退寮
 
1912
(大正元)
20 4月  堀辰雄、牛島小学校2年生に進級
7月30日 
明治天皇崩御 元号「大正」にあらたまる
9月  
芥川龍之介、第一高等学校3年生に進級
 
1913
(大正2)
21 4月   堀辰雄、牛島小学校3年生に進級
7月1日 
芥川龍之介、第一高等学校卒業
9月 
 芥川龍之介、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学
 
1914
(大正3)
22 10  4月   堀辰雄、牛島小学校4年生に進級
この年、
芥川龍之介、初恋の人・吉田弥生に結婚を申し出る
       しかし芥川家の猛反対に遭い破局(翌年春頃) 龍之介やさぐれる
6月30日 
堀辰雄の母志気上條松吉の婚姻届が出される
7月28日 
第一次世界大戦勃発
7月29日 堀浜之助
堀辰雄の実父)の妻コウ死去
8月25日 上條松吉
堀辰雄の「後見人就職」が届けられる
9月 
 芥川龍之介、東京帝国大学2年生に進級
9月18日 
堀辰雄の本籍、上條松吉の住所・新小梅に移される
       これより堀浜之助の恩給「孤児扶助料」が辰雄が成人する大正13年まで支給される
       (年額約90円、のち増額されて145円)志気はこれを辰雄の学費として大事に貯蓄
10月末 
芥川龍之介一家、田端に新築した家に引越す
 
1915
(大正4)
23 11 4月  堀辰雄、牛島小学校5年生に進級
9月 
 芥川龍之介、東京帝国大学3年生に進級
10月 佐多稲子、長崎から家族で上京
        牛島小学校入学も1か月で退学のため
堀辰雄とは面識なし
11月 
 芥川龍之介、「羅生門」を「帝国文学」に発表
12月初め 
芥川龍之介、夏目漱石をはじめて訪ね、以後木曜会(漱石の面会日)に出る
12月  
芥川龍之介、田端の開業医・下島勲の診察を受ける 以後晩年まで交際が続く


堀辰雄11歳のころ。

通りすがりの人に「この子は何という役者さんの子ですか?」と聞かれる等、幼少期からかなり目を引く美少年ぶりだった。
 
1916
(大正5)
24 12 2月   芥川龍之介、「鼻」を第四次「新思潮」に発表
2月19日 
芥川龍之介、夏目漱石から「鼻」激賞の手紙をもらい感激する
       「ああいうものを是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます」
4月   
堀辰雄、牛島小学校6年生に進級
7月   
芥川龍之介、東京帝国大学卒業
8月 
  芥川龍之介、親友山本喜誉司の姪・塚本文(16歳)にプロポーズの手紙を書く
9月1日 
芥川龍之介、「芋粥」を「新小説」に発表 文壇デビュー第一作となる
10月1日 
芥川龍之介、「手巾」を「中央公論」に発表 以後新進作家の地位を固めてゆく
12月1日 
芥川龍之介、海軍機関学校教授嘱託(英語)就任 鎌倉に下宿
12月9日 
夏目漱石死去(満49歳)
12月11日 
芥川龍之介、夏目家に赴いて通夜、葬儀に参列 13日に鎌倉に戻る
12月  
芥川龍之介、塚本文と婚約
 
1917
(大正6)
25 13 3月  芥川龍之介宅に佐藤春夫が訪ねてくる 以後親しく交流
3月  
堀辰雄、牛島小学校卒業
4月  
堀辰雄、東京府立第三中学校(現都立両国高校)入学、自宅より通学
      入学当初は成績はとくに上位ではなかったが3年生ごろから頭角を現す
      とくに数学はよく黒板前に出て教師の代りをさせられたほど
      同じ中学の平木二六による当時の堀の印象は「水際立った美少年ぶり」
      「いつもしずかな明るい微笑を湛えていた」「笑うと大きなえくぼが出来るのが印象的」
5月23日 
芥川龍之介、第一短編集『羅生門』を阿蘭陀書房より刊行
6月27日 
芥川龍之介『羅生門』出版記念会が日本橋レストラン「鴻の巣」で催される
7月上旬 
芥川龍之介佐藤春夫らと谷崎潤一郎を訪問 以後交流がはじまる
11月10日 
芥川龍之介、第二短編集『煙草と悪魔』を新潮社より刊行
 
1918
(大正7)
26 14 1月13日 芥川龍之介、日夏耿之介の出版記念会場「鴻の巣」で室生犀星と初めて会う
2月2日 
芥川龍之介、塚本文と結婚
2月13日 
芥川龍之介、機関学校教官を続けつつ大阪毎日新聞社社友となる
3月29日 
芥川龍之介、鎌倉に新居をかまえ妻と女中の三人で暮らす
4月  
堀辰雄、第三中学校2年生に進級
5月 
 芥川龍之介、「地獄変」を「大阪毎日新聞」に連載
7月1日 
芥川龍之介、「蜘蛛の糸」を「赤い鳥」創刊号に発表
9月1日 
芥川龍之介、「奉教人の死」を「三田文学」に発表
11月11日 
第一次世界大戦終結
 
1919
(大正8)
27 15 1月15日 芥川龍之介、第三短編集『傀儡師』を新潮社より刊行
2月17日 
芥川龍之介、世界的大流行のスペイン風邪にかかり田端の実家でしばらく療養
3月3日 
芥川龍之介、風邪が治り田端から鎌倉に帰る
3月8日 
芥川龍之介、大阪毎日新聞より社員に決定の辞令が届く
3月16日 
芥川龍之介の実父新原敏三、スペイン風邪により死去(享年68)
3月31日 
芥川龍之介、海軍機関学校を退職
4月    
堀辰雄、第三中学校3年生に進級
4月28日 
芥川龍之介、鎌倉を引き上げ田端の自宅に戻る(ここが終生の家となる)
        養父母(芥川道章夫妻)、伯母フキ(実母フクの代りに龍之介を育てた)と同居
        二階の書斎を「我鬼窟」と号し、日曜日を面会日と定める
5月1日  
芥川龍之介、「蜜柑」を「新思潮」に発表
5月3日頃 
芥川龍之介、長崎・関西をまわる旅に出る(5月18日帰京)
5月15日 
芥川龍之介、京都で葵祭を見る
6月10日 
芥川龍之介、会合で秀しげ子(28歳)と出会う
         すでに結婚し一子のある身の彼女に芥川は惚れ込み「愁人」と呼ぶ
7月末  
芥川龍之介、江口渙の出版記念会で宇野浩二を知る
9月   
芥川龍之介、秀しげ子と密会を重ねる しかし月末には早くも幻滅し始める
         しげ子のほうは執拗に付きまとい、この後生んだ子を芥川の子と主張するなど
         芥川の精神を苦しめる しかものちに芥川の門下・南部修太郎と二股する
10月11日 
芥川龍之介、自転車にぶつかって足を痛める
11月23日 
芥川龍之介、洋画家の小穴隆一を紹介される
 
1920
(大正9)
28 16 1月28日 芥川龍之介、第四短編集『影灯籠』を春陽堂から刊行
3月 
  芥川龍之介、「秋」執筆のため妻文の友人である平松麻素子と会う 以後交際が続く
3月末~ 
芥川龍之介、「素戔嗚尊」を「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に連載(6月まで)
4月   
堀辰雄、第三中学校4年生に進級
4月1日 
芥川龍之介、「秋」を「中央公論」に発表
4月10日 
芥川龍之介の長男比呂志誕生(戸籍は3月30日生まれ)
5月   佐多稲子「清凌亭」座敷女中として勤務 
芥川龍之介菊池寛を知る
7月 
  芥川龍之介、「南京の基督」、「杜子春」を「赤い鳥」に発表
9月 
  芥川龍之介、この頃から河童の絵を描き始める
11月16日 
芥川龍之介、関西に講演旅行に出かける(28日帰京)
11月23日 
芥川龍之介、下諏訪で宇野浩二の思い人・芸者ゆめ子にちょっかいを出す
12月28日 
芥川龍之介小穴隆一と清凌亭で飲む(佐多稲子のお酌で)
 
1921
(大正10)
29 17 3月14日 芥川龍之介、第五短編集『夜来の花』を新潮社から刊行
3月19日 
芥川龍之介、新聞社の視察員として中国旅行に発つ(~7月下旬まで)
         堕落しきった中国の現状に失望 またこの旅行で著しく体調を崩す
4月 
  堀辰雄、成績優秀のため中学4年で修了(本来は5年制)
         第一高等学校理科乙類(ドイツ語)入学 (同期に小林秀雄深田久弥ら)
         入寮後神西清を知り、文学・哲学に親しむように
         神西による堀の当時の印象は「愛くるしい非常な美少年」
         「寮ではずいぶんとお稚児さんあつかいにされて騒がれた」
         (この時期の体験が「燃ゆる頬」となる)
8月 
  堀辰雄、千葉県竹岡村にて内海弘蔵一家と一夏を過ごす 
         弘蔵の娘・内海妙に淡い恋心を抱く(この体験が「麦藁帽子」となる)
8月 
  芥川龍之介、中国旅行以後体調すぐれず、下痢に悩まされる それがもとで痔に
10月1日 
芥川龍之介、静養のため湯河原に行く(~20日頃まで)
         体調は少し恢復するものの不眠、神経衰弱に悩まされる


一高入学当時の堀辰雄。このころは縁なし眼鏡をかけていた。

バンカラ趣味に染まることなくきちんと制服を着用しており、芥川龍之介宅に行くといつも学生服姿を「よく似合う、よく似合う」とほめられた。
11月 「清く寂しく」(蒼穹)
1922
(大正11)
30 18 1月1日 芥川龍之介、「藪の中を「新潮」に、「俊寛」を「中央公論」に、「将軍」を「改造」に、
        「神神の微笑」を「新小説」に発表
春頃 
  芥川龍之介、自宅を「我鬼窟」から「澄江堂」にあらためる
4月   
堀辰雄、第一高等学校2年生に進級
5月10日(4月25日?) 
芥川龍之介、二度目の長崎旅行に
         (~28日まで、30日に鎌倉に泊まり6月1日帰京)
         骨董屋でマリア観音をくすねたり信者と偽って教会のロザリオや祈祷書を買ったり
7月9日 森鴎外死去(満60歳)
7月20日頃 
芥川龍之介、「六の宮の姫君」脱稿
7月27日 
芥川龍之介小穴隆一を伴い我孫子の志賀直哉を訪ねる
         スランプになった時どうすればいいかを志賀に聞くと「1、2年冬眠すれば?」
         芥川「そういう結構な御身分ではないから」とやるせなく返す
8月1日 
芥川龍之介、「六の宮の姫君」を「表現」に発表
8月7日 
芥川龍之介、門下の南部修太郎とトラブル
         喧嘩の末、絶交の瀬戸際までいったが芥川の冷静な対処により何とか収まる
8月13日 
芥川龍之介、作品集『沙羅の花』を改造社より刊行
8月25日 
芥川龍之介宅に小穴隆一、南部修太郎が泊まりに来る(先日の喧嘩の仲直り?)
夏    
堀辰雄、前年と同じく千葉の海で内海一家と夏を過ごす
11月8日 
芥川龍之介の次男多加志誕生
 
1923
(大正12)
31 19 1月1日 芥川龍之介、この年より創刊された月刊誌「文芸春秋」に「侏儒の言葉」を連載
1月頃 
 芥川龍之介、甥の葛巻義敏(12歳)を引き取る
1月 
  堀辰雄萩原朔太郎詩集『青猫』を寄宿舎二階の寝室で耽読する
2月18日 
芥川龍之介稲垣足穂に「一千一秒物語」への礼状を送る
      「大きな三日月に腰掛けてハヴァナをふかせてゐるイナガキ君本の御礼を云ひたくても
      ゼンマイ仕掛の蛾でもなけりゃ君の長椅子へは高くて行かれあしない」
3月16日 
芥川龍之介、静養のため湯河原に滞在(~4月15日まで)
        この滞在で不眠症が治り、食欲も戻る
4月 
  堀辰雄、第一高等学校3年生に進級
5月1日 
芥川龍之介、「安吉の手帳から」を「改造」に発表
5月18日 
芥川龍之介、第六短編集『春服』を春陽堂より刊行
5月某日 
堀辰雄、第三中学校長の広瀬雄に連れられて田端の室生犀星を訪ねる
7月7日 有島武郎と女記者波多野秋子の心中死体が軽井沢の別荘で発見される
8月初め 
堀辰雄室生犀星を訪ねて初めて軽井沢に滞在(~8月13日まで)
8月4日 
堀辰雄、軽井沢より神西清へ手紙を出す「一日じゅう、彷徨ついている。
8月7日頃 
芥川龍之介、鎌倉に避暑に行く(~25日まで)
         岡本一平・かの子や小林勢以子(谷崎潤一郎夫人の妹で谷崎の愛人)と交流
9月1日 
関東大震災
       
堀辰雄、父母と3人で避難するも、途中ではぐれ、母志気死去(満50歳)
          父上條松吉とともに母を探して隅田川のほとりを三日三晩歩く
          川からあげられた遺体の顔や服装をひとりひとり確認しやっと母を見つけ出す
          志気の位牌には辰雄の句が刻まれた「震 わが母もみわけぬうらみかな」
          罹災後、父とともに葛飾の四ツ木村(父の兄宅)に仮寓
       
芥川龍之介、自宅の被害は瓦が落ちた程度で済む 知人・親族にも死者なし
          妻子をおいて真先に庭に飛び出したことを夫人に責められ、
          「人間、最後になると自分のことしか考えないものだ」とつぶやく
          近所に住む室生犀星宅を見舞う 犀星は無事、犀星の家族も後日無事確認
          今後のため食料を買い込む 治安悪化のため自警団に参加する
9月5日頃 
芥川龍之介宅に今東光と川端康成が見舞に来る
         今・川端を誘って吉原の焼跡を見に行く 遊女らの無残な死体多数
9月7日 
堀辰雄室生犀星を訪ねる 被災の顛末を語り、ともに涙する
9月8日 
芥川龍之介宅に室生犀星来る 一緒に食料・日用品などの買出しに行く
10月1日頃 室生犀星が郷里金沢に引き上げる
          このとき
芥川龍之介堀辰雄を紹介する
          犀星によると芥川の方から「“辰ちゃんこ”を預かろうか」と持ちかけてきた
11月18日(10月18日?) 
芥川龍之介堀辰雄に好意に満ちた手紙を送る
      「あなたの捉へ得たものをはなさずに、そのままずんずんお進みなさい」
      「わたしは安心してあなたと芸術の話の出来る気がしました」
      「詩をお送りになったことはあなたの為よりも私の為に非常に都合がよかったのです」
      「わたしの書架にある本で読みたい本があれば御使いなさい」
冬の初め 
堀辰雄、胸を病み休学
12月頃  
堀辰雄、金沢の室生犀星を訪ねしばらく滞在する
12月16日 
芥川龍之介、京都旅行に発つ(~30日まで)
12月29日 
芥川龍之介、山科の志賀直哉宅を訪ねる
7月 詩「仏蘭西人形」
    「青っぽい詩稿」
1924
(大正13)
32 20 1月1日 芥川龍之介、「一塊の土」を「新潮」に発表
1月上旬 
芥川龍之介、大阪毎日新聞社で「芥川の馘職事件」があったことを聞かされ、
        (芥川が他誌にばかり執筆してうちには書かないと社内で不満が高まっていた)
         社に赴いて事情を説明しひとまず収まる
2月22日 
芥川龍之介、千葉県八街へ「美しい村」(未定稿)の取材調査に行き一泊して帰る
3月頃  
堀辰雄、この時期、田端の大盛館に下宿中
      (いつからかは不明・おそらく震災後、四ツ木村の仮寓を出て家が再建されるまで)
4月某日 
堀辰雄、向島新小梅町二ノ一の焼跡に家を再建、父上條松吉とともに移り住む
        休学のため第一高等学校3年を留年
5月14日 
芥川龍之介、金沢~大阪~京都旅行へ出かける(~26日まで)
5月15日 
芥川龍之介、金沢に到着 室生犀星の世話で兼六公園の三芳庵に二泊する
5月18日 
芥川龍之介、大阪に赴く
5月20日 
芥川龍之介、大阪ミナミで直木三十五らと芸者を大勢あげて遊ぶ
5月23日 
芥川龍之介、滝井孝作の案内で志賀直哉と会う
6月25日 芥川龍之介の仲介により岡栄一郎と野口綾子結婚
       しかしその後夫婦不和となり翌春離婚、芥川の心労の種となる
7月 
  堀辰雄、金沢の室生犀星を訪ね室生家に3週間ほど滞在(~8月4日まで)
7月6日 芥川龍之介宅に強盗侵入 20円奪われる(50円要求されるも値切った)
        (※犯人は16歳の早稲田実業本科生 10月6日に逮捕)
7月18日 
芥川龍之介、短編集『黄雀風』を新潮社より刊行
7月22日 
芥川龍之介、初めての軽井沢滞在(~8月23日まで)つるや旅館に泊まる
7月24日 夜、浅間山噴火 翌日も収まらず
7月27日 片山広子(松村みね子)一家がつるや旅館に来る
8月3日 金沢から室生犀星が来る 
芥川龍之介の隣に部屋を取り14日まで滞在
8月4日 
堀辰雄、金沢からの帰路、軽井沢の室生犀星芥川龍之介のもとに立ち寄る
       三人で軽井沢ホテルにて夕食 堀はつるや旅館で一泊
8月5日 
堀辰雄、二時の汽車で帰京
8月13日 
芥川龍之介犀星片山広子とその娘総子・旅館主人らと碓氷峠へ月見に行く
8月14日 室生犀星、金沢へ帰郷
8月19日 
芥川龍之介、旅館主人・片山広子と追分村に行く 分去れで虹があがる
8月23日 
芥川龍之介、帰京
        片山広子、このあと
芥川龍之介に何度か手紙を出してアプローチ
        「わたくしたちはおつきあいひができないものでせうか」
        これ以降、
芥川は広子と東京で一緒に食事をしたり、芝居を観たりするように
9月頃  この時期?
堀辰雄、田端の紅葉館に下宿する
10月7日 芥川龍之介志賀直哉と山本悌二郎宅に中国画を見にいく
10月9日 芥川龍之介、兵庫から上京してきた谷崎潤一郎と会う
10月20日 芥川龍之介の養父道章の実弟竹内顕二 食道ガンのため死去
11月5日ごろ 芥川龍之介、大磯に旅行(2~3日間)
12月末 
芥川龍之介宅に増築中だった平屋の書斎が完成
12月27日 
堀辰雄、成年に達したため養父の上條松吉が後見終了を届け出る
12月   同人誌『山繭』創刊 
堀辰雄小林秀雄永井龍男らと
       (昭和3年から『虹』と合併)
エッセイ「快適主義」
エッセイ「第一散歩」
詩「帆前船」
詩「古足袋」「書物生活」
1925
(大正14)
33 21 1月1日 芥川龍之介、「大導寺信輔の半生」を「中央公論」に発表
1月下旬~2月初旬 芥川龍之介、風邪で寝込む
1月31日 芥川龍之介室生犀星に見舞(魚)への礼状を出す
    「まだ喉いたくねてゐる次第」「講演も出来ずタツチャンコに気の毒なれど致し方なし」
2月頃 片山広子から
芥川龍之介にさらに情熱的なアプローチの手紙
      「ぜひおめにかかっておはなししたい」「どこか御近所でもまゐりたい」
      「京都や長崎までもまゐりたいくらゐに思ひますぜひぜひおきき下さい」
      しかし逆に
芥川龍之介のほうは冷めてゆく
3月1日 
芥川龍之介、「越びと」を「明星」に発表 片山広子との恋愛の発展を回避
3月 
  堀辰雄、第一高等学校卒業(休学のため一年遅れで)
3月30日 室生犀星、郷里金沢から田端の元の家に引っ越してくる
4月   
堀辰雄、東京帝国大学文学部(国文学科)入学
       国文科に籍を置きつつ仏文科の講義に出る 仏文科の生徒よりフランス語ができた
4月某日 
堀辰雄、田端に引越してきた萩原朔太郎を訪ねる
4月某日 
堀辰雄室生犀星宅で中野重治、窪川鶴次郎、平木二六らと会う
4月10日 
芥川龍之介、修善寺温泉に単身静養に赴く(~5月3日まで)
4月21日 泉鏡花夫妻、修善寺温泉に来る(~4月30日まで)芥川龍之介と同宿になる
       各出版社の原稿の居催促で執筆に忙殺される芥川をみて泉夫人曰く
       「あなた、何の為に湯治にいらしったんです?」「もう原稿はおよしなさい」
5月3日 芥川龍之介、修善寺を発つ 大磯、鎌倉に寄ってから帰途につく
5月6日 
芥川龍之介、田端の自宅に戻る
6月上旬 
芥川龍之介萩原朔太郎の「郷土望景詩」に感激し寝間着のまま萩原邸を訪ねる
7月9日 
堀辰雄、単身で軽井沢に行く(~9月上旬まで軽井沢に滞在)
        部屋を借りることになっていた骨董店(夏季のみ開業)がまだ来ておらず難儀する
        しばらくつるや旅館に泊まり父に手紙で生活用品や資金を無心する
7月12日 
芥川龍之介三男・也寸志誕生
7月20日 
芥川龍之介堀辰雄に文学修業アドバイスの手紙を書く
        「どんなに苦しくってもハイカラなものを書くよりも写生的なものを書くべき」
        「そのほうが君の成長にずっと為になると思ふ」
7月30日 骨董店ようやく軽井沢に到着も家主に葬式が出たりして落ち着かず
8月13日 室生犀星、軽井沢到着
8月20日 
芥川龍之介、軽井沢到着
        9月上旬まで滞在 
堀辰雄を連れて軽井沢散策、追分村にも数回足を延ばす
7月23日 
芥川龍之介堀辰雄室生犀星で碓氷峠に登る
8月24日 萩原朔太郎が妹を連れて軽井沢に来る
         萩原の妹が美人なので
芥川龍之介テンションあがる
         逆に室生犀星は不機嫌に 
芥川、萩原らのドライブにもひとり参加せず
         夜、皆で花札をやった際ついにブチキレる(その後頭を冷やし、翌朝芥川に謝罪)
8月25日 室生犀星帰京
8月26日 (27日?)芥川龍之介堀辰雄片山広子とその娘総子でドライブに出かける
8月28日 片山広子一家帰京
8月末頃 小穴隆一・佐佐木茂索夫婦が来る
8月31日 夜、碓氷峠までドライブ、月見を楽しむ
        (
芥川龍之介堀辰雄小穴隆一、佐々木茂索夫妻で)
9月はじめ 
芥川龍之介、風邪で4、5日寝込む 堀辰雄小穴隆一に看病してもらう
9月4日 芥川比呂志(
龍之介長男)、知人に連れられ軽井沢に来る
9月6日夜 芥川龍之介、政治家や実業家らと夕食に 9時頃まで帰らず
       留守番の比呂志が寂しがって泣き出し
堀辰雄を困らせる
9月7日(8日?) 
芥川龍之介帰京(堀辰雄も?)
9月中旬 
芥川龍之介、軽井沢の風邪をぶり返し20日頃まで寝込む
       
芥川龍之介、この時期堀辰雄の友人にフランス語を学んでいる
11月8日 
芥川龍之介編集の『近代日本文芸読本』全5巻、興文社より刊行される
         中学生向けのアンソロジーだが文芸的すぎたためあまり売れず、印税もわずか
         その上「一人で儲けた」「あの儲けで書斎を建てた」「無断で収録された」等、
         作家らから不平をこぼされ、深い心労の種となる
9月 「甘栗」(山繭)
1926
(大正15)
34 22 1月15日 芥川龍之介、湯河原の中西屋旅館に湯治に赴く(2月19日まで)
        胃腸悪く、痔、神経衰弱、不眠症も
3月   佐多稲子、カフェー「紅緑」の女給となる ここでのちに「驢馬」同人たちと知り合うことに
3月5日 
芥川龍之介、かつて新原家の使用人だった室賀文武から聖書を受け取る
3月19日 
芥川龍之介堀辰雄に長命寺桜餅の礼状を送る(大正13、14年頃かも?)
4月   
堀辰雄、東京帝国大学2年生に進級
4月   同人誌『驢馬』創刊
      
堀辰雄中野重治窪川鶴次郎・平木二六・西澤隆二・宮木喜久雄らと
       (昭和3年5月第12号をもって終刊)
4月13日 
芥川龍之介、原稿執筆のため鵠沼の東屋旅館に滞在
4月15日 
芥川龍之介小穴隆一の下宿を訪れ、自殺の決意を伝える
4月20日頃 堀辰雄、鵠沼の芥川龍之介を訪ねて一晩泊まる
4月22日 
芥川龍之介、鵠沼の東屋旅館に妻と三男也寸志を伴って長期滞在に入る
       (当初1か月ほどの予定が翌年1月頃までの滞在となる)
       (時折は田端の自宅に戻った)
5月11日 室生犀星、「日本詩集」出版記念会のスピーチで野次られる萩原朔太郎
       加勢しようと椅子を振り回して暴れる(皆に羽交い絞めで止められる)
6月はじめ 
芥川龍之介、妻と也寸志を伴い一泊旅行に 湯河原の中西屋旅館に泊まる
        この時期、数日間田端の自宅に帰っている
6月8日 
芥川龍之介、鵠沼に戻る
6月26日 
芥川龍之介、下痢と痔に苦しみ田端に戻り下島医師に診てもらう
6月28日 
芥川龍之介室生犀星を訪ねたあとふたたび体調不良に(大腸カタル)
7月上旬 
芥川龍之介、鵠沼に戻る
7月中旬  
芥川龍之介斉藤茂吉のすすめもあり、東屋旅館の近くの貸家に移る
        久々の妻と水入らずの生活に「二度目の結婚」と喜ぶ
        しかし引越した翌日、秀しげ子が子供をつれて見舞に来る
7月末  小穴隆一、鵠沼に来て芥川の借家の一軒おいて隣の家に住む
8月10日 
堀辰雄、鵠沼の芥川龍之介を訪ねる
        また別の日?に
堀辰雄萩原朔太郎、連れ立って鵠沼の芥川を訪ねて
        芥川に書きかけの「点鬼簿」の原稿を見せられ感想を求められる
8月末 
堀辰雄室生犀星の招きで数日軽井沢に滞在する
8月末 
芥川龍之介、数日田端の自宅に帰り翌月3日に鵠沼に戻る
9月   同人誌『箒』創刊 
堀辰雄、吉村鉄太郎(片山達吉・片山広子の長男)らと
      (『箒』は二号から『虹』と改題し昭和2年11月6号で終刊、『山繭』に合併)
9月16日 
芥川龍之介、「点鬼簿」脱稿
9月19日 
堀辰雄、鵠沼の芥川龍之介を訪ねて一泊する
9月25日 鵠沼の芥川龍之介宅に斉藤茂吉と土屋文明来訪 翌日の夕方帰京
10月1日 
芥川龍之介、「点鬼簿」を「改造」に発表
        実母が狂人であること、出生の秘密をはじめて世に明かす
10月中旬 
芥川龍之介、田端の自宅に帰る(20日頃まで)
10月下旬 
芥川龍之介、鵠沼の借家を裏の二階家に変える(9月20日かも?)
11月28日 鵠沼の芥川龍之介宅に宇野浩二来訪
         「何だか要領を得ない事を云って帰って行った」(※翌年5月末に宇野発狂)
12月5日 
芥川龍之介室生犀星中野重治の作品を誉めた手紙を出す
12月14日頃 
芥川龍之介、一週間ほど田端の自宅に戻り執筆活動
12月19日 
芥川龍之介、スキーに誘いに来た佐佐木茂索に「凍死したい」と言う
12月25日 
大正天皇崩御 元号「昭和」にあらたまる
12月25日 
芥川龍之介、随筆集『梅・馬・鶯』を新潮社から刊行
         同日、鵠沼の裏の二階家からもともと借りていた借家に戻る
12月27日 芥川文夫人、正月準備のため田端に戻る(12月28日かも?)
         入れ替わりに葛巻義敏が来る(12月29日)
12月31日 
芥川龍之介、鎌倉の小町園に静養に行き翌月2日まで滞在
         大晦日に帰るはずの龍之介が年が明けても帰らず芥川家では心配していた
         この時龍之介は小町園の女主人・野々口豊子に「一緒に逃げてくれ」と懇願した
         しかし豊子は拒絶し、龍之介が落ち着くまで慰留していた
3月 「風景」(山繭)

9月 「アルテュルランボオ」(箒) 
1927
(昭和2)
35 23 この年のはじめ頃、室生犀星の発起で「パイプの会」始まる 芥川萩原、「驢馬」の面々で
この年の春頃、資金難の窪川鶴次郎のため
芥川に頼んで彼の作品を雑誌に載せてもらう
この年、文芸春秋社社員となった永井龍男
芥川の原稿依頼のために同行してもらっている
この年? 
芥川の要望によりの案内で中野重治が芥川宅を訪れる
1月1日 
芥川龍之介、「玄鶴山房」を「中央公論」に発表
1月2日 
芥川龍之介、鎌倉の小町園から田端の自宅に戻る
1月4日 芥川龍之介の義兄・西川豊(姉ヒサの夫)、自宅放火の疑いで取り調べを受ける
       (直前に多額の火災保険がかけられていたため)
1月6日 芥川の義兄西川豊、千葉で鉄道自殺 死後、高利の借金があることが判明
       火災保険や生命保険などの対応に
芥川龍之介忙殺される
       この時期、平松麻素子の世話で帝国ホテルに投宿し「河童」などを執筆
2月上旬 
堀辰雄、「ルウベンスの偽画」を書きあげ、室生犀星芥川龍之介に読んでもらう
2月4日 芥川龍之介、「蜃気楼」脱稿
2月11日 
芥川龍之介、佐佐木茂索に堀の「ルウベンスの偽画」引き立てを乞う手紙を出す
2月13日頃 芥川龍之介、「河童」脱稿
2月19日 
芥川龍之介、改造社主催の観劇会(歌舞伎座)に出席
2月27日 
芥川龍之介、改造社『現代日本文学全集』宣伝講演会のため佐藤春夫らと大阪へ
2月28日 
芥川龍之介佐藤春夫とともに神戸岡本の谷崎潤一郎宅で一泊
       小穴隆一、田端に下宿が見つかり鵠沼から引越す
3月1日 
芥川龍之介、「河童」を「改造」に、「蜃気楼」を「婦人公論」に発表
3月1日 芥川龍之介谷崎潤一郎夫婦・佐藤春夫夫婦とともに大阪の文楽座へ
        芥川、佐藤が帰った後も谷崎を引きとめて夜の更けるまで諸々のことを語る
        「自分は実に弱い人間に生れたのが不幸だ」と眼に涙をためながら訴える
3月2日 芥川龍之介、根津松子の誘いで谷崎潤一郎とともにダンスホールに出かける
        自分は踊らず谷崎と根津夫人が踊るのを見ている(数年後谷崎と根津松子結婚)
3月6日 
芥川龍之介、帰京
3月28日 
芥川龍之介斉藤茂吉に手紙で「半透明なる歯車」が見えると衰弱を訴える
        「今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、
        第三に動物的エネルギイのみ」
        午後、夫人と多加志を連れて鵠沼に行き「歯車」執筆を進める
3‐4月  
金融恐慌勃発、日本経済弱体化する
4月1日 
芥川龍之介、「文芸的な、余りに文芸的な」を「改造」に連載、谷崎潤一郎と論争に
4月2日 
芥川龍之介、単身で帰京
4月   
堀辰雄、東京帝国大学3年生に進級
4月6日 
芥川龍之介室生犀星と下島勲を訪問する
4月7日
芥川龍之介、平松麻素子と帝国ホテルで心中する計画をたてる(4月16日説も)
        しかし麻素子が事前に小穴隆一に打ち明け、未遂に終わる
        小穴、芥川夫人と葛巻義敏を伴って帝国ホテルの芥川を訪ねる
        芥川曰く「もっと早く来て死んでしまうつもりだったが、家を出る時
堀辰雄が来て、
        東京中を車で乗り回す小説を書いているが金がなくて車を乗り回せないというから、
        ついでだからいっしょに東京中乗り回していて遅くなった」


        麻素子は友人の柳原白蓮にも連絡、白蓮は駆けつけて芥川を説得する
        どれだけ議論しても「どうしても死ぬ」と譲らない芥川
        白蓮たまらず「勝手に死ぬがいい」「しかし死ぬなら一人で死んで」と訴える
        すると芥川は「あなたのような正直な人はみたことない」と急に上機嫌に
        そのあと3人で御飯を食べる 白蓮は資金援助するから死ぬなと再度説く
        芥川が麻素子とふたりで話したいというので白蓮は先に帰る
4月16日 
芥川龍之介菊池寛宛に遺書を書く
       この時期、興文社『小学生全集』とアルス『児童文庫』が企画を盗んだと互に主張し、
        芥川は興文社の編集、アルスの執筆を引き受けていたため板挟みで苦しむ
4月30日 平松麻素子、芥川家に引越しの挨拶に来る
4月某日 
芥川龍之介宅に稲垣足穂来訪
5月   
芥川龍之介、「僕の友だち二、三人」という文章で堀辰雄を推奨する
       「東京人、坊ちゃん、詩人、本好き―それ等の点も僕と共通してゐる。
       しかし僕のやうに旧時代ではない」
       「いつか誰も真似手のない一人となって出ることは確かである」
5月1日 
堀辰雄芥川龍之介宅を訪ねる 小穴隆一も来る
       堀、芥川の出来かけの短編を読ませてもらう
5月5日 芥川龍之介宅に内田百閒来訪 一緒に興文社に行く
       帝国ホテルの「新潮合評会」に出席 そのあと銀座のカフェー・タイガアに
5月8日 芥川龍之介、「文芸春秋」の座談会に出席
5月13日 
芥川龍之介、改造社『現代日本文学全集』宣伝のため里見弴と講演旅行に出発
        スケジュール詰め詰めの強行軍 食事に必ず出てくるホッキ貝に芥川困惑
5月14日 仙台で講演
5月15日 盛岡で講演 演題「夏目先生のこと」
5月16日 函館到着
5月17日 函館で講演 演題「雑感」
5月18日 札幌で講演 北大「ポオの美学について」大通小学校「夏目先生の事ども」
5月19日 旭川で講演 演題「表現」
5月20日 小樽で講演 演題「描かれたもの」 伊藤整が講演を聞く
5月21日 青森で講演(予定外だったが急遽決定)演題「漱石先生の話」 太宰治が講演を聞く
5月22日 新潟到着
5月24日 新潟で講演 演題「ポオの一面」
5月27日 
芥川龍之介、ヘトヘトになって田端の自宅に戻る
5月30日 
芥川龍之介菊池寛とともに柳田國男・尾佐竹猛座談会に出席
       芥川の友人の宇野浩二が発狂、衝撃を受ける
6月1日 
芥川龍之介、「歯車」(「一」のみ)を「大調和」に発表
6月2日 
芥川龍之介斉藤茂吉に宇野浩二を診てもらう そのあと茂吉とともに夕食
6月15日 
芥川龍之介斉藤茂吉の紹介で宇野浩二を入院させる
        そのあと鎌倉に行き佐佐木茂索を訪ね、川端康成らと共に夕食を御馳走になる
        そのあと鵠沼に泊まる
6月20日 
芥川龍之介、生前最後の作品集『湖南の扇』を文芸春秋社より刊行
        「或阿呆の一生」を脱稿
6月25日 
芥川龍之介小穴隆一を伴い生家の新原家の墓参に
        そのあと浅草のなじみの芸者「小亀」に別れを告げに行く
6月末  
芥川龍之介堀辰雄を伴い大森の片山広子宅を訪問
7月5日 
芥川龍之介宅に室生犀星来訪 
7月6日 室生犀星、軽井沢に赴く
7月10日 
芥川龍之介宅に竹中郁来訪、来合わせた堀辰雄と初対面
7月14日 
芥川龍之介宅に室賀文武来訪、深夜までキリスト教について話す
7月15日 
芥川龍之介、知人の永見徳太郎に形見分けとして「河童」の原稿を与える
7月17日 
芥川龍之介、文夫人と観劇に出かける 夫人に金時計をプレゼントする
7月18日 
芥川龍之介小穴隆一を訪ねる 座布団の下に50円を置いて帰る
7月20日 芥
川龍之介、改造社主催の8月の夏季大学講師依頼に「ユク」と電報を打つ
7月21日 
芥川龍之介宅に内田百閒来訪 この時芥川は睡眠薬でふらふら状態
        内田とともに宇野浩二の留守宅を訪ね寝間着と菓子折を届ける
        帰途、小穴隆一の下宿に寄る
        夜、
堀辰雄佐多稲子と夫の窪川鶴次郎を連れてくる
        芥川、稲子に前夫との心中(未遂)の話を聞きたがる
        芥川「生き返ったあと、また死のうと思いませんか」佐多「いいえ、思いません」
        窪川には当座のためにと帰り際に40円をこっそり渡す
7月22日 
芥川龍之介宅に下島勲が診察に来る 小穴隆一来訪、雑談
        葛巻義敏に、今夜死ぬはずだったが「続西方の人」が書けてないからやめると言う
7月23日 
芥川龍之介、家族と昼食をとったあと書斎で「続西方の人」を執筆
         深夜に脱稿、日が替わり午前1時過ぎ、伯母フキのところへ短冊を渡しにいく
         午前2時頃、致死量の薬を服用し家族の寝ている隣の床に入って眠りに就く
       
堀辰雄、宮木喜久雄が留守番している室生犀星宅に泊まりに行く 中野重治も来る
         3人でしゃべったり花札をしたりしているうちに夜が更け日が替わる
         午前2時頃、堀がふとつぶやく「芥川さんもう寝たろうな」中野「もう寝たろう」
         翌日に芥川宅を訪ねようという話をして就寝、朝それぞれ帰途につく
7月24日 
芥川龍之介死去(満35歳)
        午前6時頃夫人が異変に気付く 下島勲医師により午前7時過ぎに死が告げられる
7月25日 芥川龍之介の自殺が一斉報道され(※24日は日曜だったため)世に衝撃を与える
7月26日 芥川龍之介の友人・知人の通夜 酷暑続きのため死臭を消すのに苦労する
7月27日 
芥川龍之介の葬儀(谷中斎場にて、午後三時から)弔問客は約1500人
7月28日 
芥川龍之介、慈眼寺境内に葬られる
7月某日 葛巻義敏
堀辰雄宛に遺された芥川龍之介の形見のパイプを堀に渡す
9月1日 『芥川龍之介全集』編集打合せ
     菊池寛佐藤春夫室生犀星葛巻義敏小穴隆一
堀辰雄ほか数名芥川宅に集まる
9月3日 全集の編集費として岩波書店から提供された三千円のうちまず三百円を受取り
        佐佐木茂索・小島政二郎・葛巻義敏小穴隆一
堀辰雄の5人で分ける
         堀は昭和3年7月まで編集に従事
         全集は11月より刊行、昭和4年2月全8巻を出して完結
12月末 
堀辰雄、肋膜炎を患い、死に瀕する  翌4月まで休学治療
2月 詩「天使達が…」(驢馬)

  
「ルウベンスの偽画(山繭)
             ※前半のみ



3月 「詩」(僕は(驢馬)


6月 「即興」(山繭)
     ※のち「眠りながら」
1928
(昭和3)
堀辰雄
24
この年前後、レストラン三橋亭のウェイトレス 「ブリュー・バード」との恋愛体験
         『驢馬』仲間の西沢隆二が彼女を好きになったが、彼女は堀に恋していた
         (この体験が「不器用な天使」となる)
1月26日 室生犀星が初めて新小梅の堀の自宅に見舞に来る
4月  休学のため東京帝国大学3年生を留年
4月  ひそかに湯河原に行き静養
      療養費も払えないほど実家が貧窮し、心身ともに絶望感深い日々を過ごす
      「全くどうしていいかわからず、何かたえず死の傍でイライラしている気持だ」
夏   「不器用な天使」を書く
8月  「文藝春秋」誌上で横光利一が注目すべき新人のひとりとして堀辰雄の名を挙げる
8月末 室生犀星に招かれ軽井沢の犀星の別荘に9月にかけて10日ほど滞在
11月  胃痙攣に苦しみ2、3日寝込む
      卒業論文を書くため田端の東覚寺赤紙仁王様のある通りに下宿
12月  卒業論文「芥川龍之介論」を苦しみつつも書き上げて提出
2月 「即興」(蝶)(驢馬)

3月 詩「病」(山繭)
 
1929
(昭和4) 
25 この年、井伏鱒二伊藤整らと知り合う
この年前後、浅草に入りびたり映画を観たり踊り子に入れ込んだり(梅園龍子?春野芳子?)
        このあたりの時期を堀自ら 「僕の“軟派”の不良時代」と回想する
3月   東京帝国大学を卒業(休学のため一年遅れで)
4月   『コクトオ抄』を厚生閣書店より刊行
5月2日 肋膜炎再発気味、健康すぐれず伊豆湯ヶ島へ静養に行く(一週間ほど滞在)
       この時ひいきにしていた浅草の踊り子が後を追ってやって来たという噂も
10月  同人誌『文学』刊行
      川端康成横光利一永井龍男深田久弥、吉村鉄太郎、犬飼健らと
      (昭和5年3月まで全6巻を出して終刊)
      創刊号に「眠っている男」(眠れる人)を発表
10月24日 
世界恐慌はじまる 日本では深刻なデフレ 企業倒産、失業者多数、農村の貧困
12月頃 中野重治に同人誌『文学』を送る(中野はこの時期20日ほど勾留されている)
1月 卒業論文「芥川龍之介論」

2月 
「不器用な天使
       
(文芸春秋)

4月 『コクトオ抄』厚生閣書店

10月 「眠っている男」(文学)
        ※のち「眠れる人」
1930
(昭和5)
26  この年、谷崎潤一郎佐藤春夫の「細君譲渡事件」が世を騒がす
この年、中野重治、女優の原泉と結婚
この年、深田久弥、堀辰雄の紹介で小梅(堀宅の近所)に家を借りて住む
2月上旬(節分?) 室生犀星宅の豆まきに参加して犀星の子供たちを喜ばす
4月   伊豆湯ヶ島に滞在
7月   最初の作品集『不器用な天使』を改造社より刊行
     新聞に大きな広告が出るが、大きすぎて堀の父松吉はそれを最初見つけられなかった
7月・8月 二度軽井沢に行く このとき丸岡明と初対面、以来終生の友となる
10月上旬 井伏鱒二宅を訪ねる 執筆に苦しむ堀に井伏は無花果を食べろとアドバイス
10月  「聖家族」脱稿後ひどい喀血をし、死に瀕する のち自宅療養
      当時上條家で松吉の世話をしていた女性、金井ていが献身的に看護する
11月  「聖家族」を「改造」に発表
      その原稿料で当時「改造」編集者の深田久弥に浅草の鳥屋「かね田」で御馳走する
      そのとき片山総子(片山広子の娘)が彼女然として同席していた
2月 「レエモン・ラジゲ」(文学)
 「芸術のための芸術について」
               
(新潮)
3月 「風景」(文学)
 「室生犀星の小説と詩」
(新潮)
    ※のち「室生さんへの手紙

5月 「ルウベンスの偽画」
              完稿
(作品)
   「死の素描」
(新潮)
7月 『不器用な天使』
改造社
  
        ※初の作品集
    「鼠
」(婦人公論)
10月 「窓」
(文学時代)
11月 
「聖家族」(改造)
 1931
(昭和6)
27  この年、自宅療養中の堀を川端康成横光利一が連れ立って見舞に来ている
2月   病床で神西清から贈られたプルーストの「失われた時を求めて」を読み始める
3月1日 新小梅町が町名変更により本所向島一ノ一となる
3月   神西清の結婚式に出席 
      片山鉄吉・総子が同卓に 堀がなぜかひたすら暗くふさいでおり神西夫人困惑
4月3日 信州富士見の高原療養所に入院(2月頃から入所するつもりが延びていた)
5月   いったん帰京、神西清の新婚宅を訪ねる?
      (この時はふつうに明るい態度で神西夫人安堵)
6月末  富士見療養所を退院
8月   片山総子の招きで軽井沢の片山一家の別荘にしばらく滞在
      「アソビニイラッシャイ」「ウチノベッドハタイソウギイギイイヒマス」(総子の手紙より)
8月末  軽井沢つるや旅館に移り「恢復期」を執筆
9月18日 
満洲事変勃発
10月7日 軽井沢より帰京
       体調不良で絶対安静
秋頃  新宿の中村屋で井伏鱒二林芙美子と3人でお茶を飲む
        (芙美子はこのあと11月にパリに発つ)
秋頃  第一高等学校の学生立原道造を知ったと思われる


向島小梅の自宅にて、「恢復期」執筆のころ。
眼鏡をはずしたらシュッとイナセなイケメン風になる堀さん。
3月 「本所」(時事新報)
   ※のち「向島」
   ※改作「水のほとり」「墓畔の家」

12月 「恢復期」(改造)

    「あひびき」
(文科)
1932
(昭和7) 
28  この年前後?片山総子、堀辰雄を憎みはじめる
  堀との噂のせいで自分の縁談がすべてつぶれてしまった、堀はひどい人間だと訴え、
  根も葉もない噂を立てるなと文芸春秋社に押しかけたりした
  母の片山広子も文学関係者らにゴシップを流布せぬよう菓子折を持って頼んで回った
  文壇の反応は堀のほうに同情的 「宗瑛(片山総子)は非常な虚栄家なので
  「(総子の抗議が)おかしくてしようがなかった」「(堀は)聡明な沈黙をまもる」

この年、横光利一を通して中里恒子と初対面

1月  立原道造に年賀状を送る
2月20日 『聖家族』(限定500部)を江川書房より刊行
       カバーも本体も真白の装幀は堀自らの手によるもの「芥川さんの霊前に」
5月15日 
五・一五事件
7月末  軽井沢に滞在(~9月3日)つるや旅館に泊まる
      軽井沢ホテルで「麦藁帽子」「エトランジェ」を書いたり、片山広子の別荘を訪ねたり
8月27日 立原道造、堀の東京の自宅を訪ねるもまだ軽井沢滞在中のため会えず、
       『麦藁帽子』の感想を書いた手紙を送る
9月3日 軽井沢より帰京
9~10月 一か月ばかり寝込みどこへも行けず
12月23日 神戸旅行 竹中郁の案内で神戸を歩く (この体験が「旅の絵」となる)
        明石在住の稲垣足穂にも会いに行く
12月末  帰京 以来病臥


銀座の喫茶店「キュウベル」前にておすましポーズの堀さん。
ソフト帽が似合うおしゃれさん。
1月 「燃ゆる頬」(文芸春秋)

2月 『聖家族』
江川書房

3月 「花売り娘」
(婦人画報)
   ※のち「Say it with Flowers」

4月 「墓畔の家」
(作品)

5月 「馬車を待つ間」
(新潮)

7月 「花を持てる女」
(婦人画報)
                 ※初稿

8月 「プルウスト雑記」
         (新潮・椎の木・作品)

9月 「麦藁帽子」
(日本国民)
   「芥川龍之介の書翰に
     就いて」
 (帝国大学新聞)
         ※のち「狐の手套・三」

10月 「エトランジェ」
            
(婦人サロン)
11月 「文学的散歩」
(リベルテ)
         ※のち「狐の手套・一」

12月
 「文学的散歩―
プルウストの小説構成」(リベルテ)
         ※のち「狐の手套・二」
1933
(昭和8)
29 
この年春、立原道造、はじめて堀辰雄宅を訪ねる?
  立原、極度の緊張のため2時間ばかり座ったまま何も話さず、怒ったように黙っていた
  しかし打ち解けてくるとよくしゃべるように(本来おしゃべりキャラ)

1月  風邪が長引きぜんそく気味になり苦しむ
2月  『ルウベンスの偽画』を江川書房より刊行
2月  『ルウベンスの偽画』を贈るため佐藤春夫宅を訪ねる
5月  季刊『四季』を創刊(※二号で終刊)
6月  軽井沢に行きつるや旅館に滞在
     散歩したり、愛宕山のオルガンロック、碓氷峠に登ったりして過ごす
7月  つるや旅館が常客でいっぱいになったので軽井沢ホテルに移る
     そこで静養に来ていた矢野綾子と出会う(※つるやで出会ったという記述も?)
     (この夏の軽井沢での体験が「美しい村」となる)
8月28日 「麦藁帽子」モデル(初恋の相手)の内海妙死去(満26歳)
9月  「美しい村」の各章を書き終えて軽井沢より帰京
     (「美しい村」脱稿直後、同じく軽井沢を訪れていた三好達治とばったり出会う)
     向島の自宅に戻ったあと、ゲーテを読みふける
     この頃より立原道造たびたび堀の家を訪れるように
12月  『麦藁帽子』を四季社より刊行

1月 「顔」(文芸春秋)
2月 『ルウベンスの偽画』

             江川書房

3月 「春浅き日に」

           (帝国大学新聞)

5月 季刊『四季』創刊

   「プルウスト覚書」
(新潮)
            ※のち「覚書」

6月 「山からの手紙」
         
(大阪毎日新聞)
    ※のち「序曲」美しい村の一章

8月 「フローラとフォーナ」
(新潮)
9月 
「旅の絵」(新潮)
10月 
「美しい村
      或は小遁走曲」(改造)
    「夏」
(文芸春秋)
       ※美しい村の一章

12月 『麦藁帽子』
四季社
1934
(昭和9)
30  3月   「暗い道」を「週刊朝日」に発表、「美しい村」シリーズこれで完成
4月   『美しい村』を野田書房より刊行
5月   片山総子(片山広子の娘)、兄の友人で商工省官僚の山田秀三と結婚
     (婚姻届は10月10日提出)
7月12日 軽井沢(信濃追分)に行く
7月20日過ぎ いったん帰京
7月22日頃 堀を追って初めて軽井沢を訪れた立原道造
       帰京中の堀のかわりに阿比留信に軽井沢を案内してもらう
       立原そのまま一か月ほど滞在、これより毎年夏は軽井沢・追分で過ごすように
7月26日 軽井沢から信濃追分に移り、油屋旅館に秋まで滞在 以降ここが堀の定宿に
7月末  矢野綾子、父の借りた軽井沢の別荘で9月まで静養
      堀、追分から頻繁に綾子の見舞にでかけていく
8月13日頃 堀、発熱と歯痛のため矢野綾子宅でもらったお菓子を食べられず
         堀の部屋に遊びに来ていた立原道造がおいしそうに全部食べた
9月(晩秋?) 矢野綾子と婚約
9月8日 「物語の女」脱稿、原稿を届けに東京に出る
9月9日 信濃追分に戻る
9月18日 『芥川龍之介全集』月報の「追分にて(高原にて)」の原稿を書いて送る
9月23日 矢野綾子に付添いいったん帰京
9月24日 室生犀星に会い犀星家族らと日比谷の山水楼で夕食
9月25日 追分に戻る
10月上旬 「匈奴の森など」を脱稿後いったん帰京
10月   葛巻義敏とともに『芥川龍之介全集』全10巻(普及版)の編集に従事
       (~翌年7月まで)
10月   三好達治丸山薫とともに『四季』を月刊として復刊
11月   『物語の女』を山本書店より刊行
12月下旬 ふたたび信濃追分に行き滞在、年末に帰京


堀辰雄の写真として一番よく使用されてるのがたぶんこれ。昭和10年ごろ。

画像処理(濃度や彩度)の具合によっては、なんかすごい恨めしげな怖い顔になっちゃってるのもあるので(ウィ
ペディアとか)、ファンとしては非常に不本意。
1月 「鳥料理」(行動)
2月 「昼顔」
(若草)
   「挿話」
(文芸)
3月 「暗い道」
(週刊朝日)
     ※「美しい村」シリーズ完成

4月 『美しい村』
野田書房
5月 「リラの花など」
   
(日本現代文章講座第八巻)
6月 「エル・ハヂ」翻訳

    (ジイド全集)

7月 「小説のことなど」
(新潮)
   「『文芸林泉』
読後(文学界)
9月 「一夕話」
(文芸)
     ※のち「ハイネが何処かで」

   「萩の花」
(会館芸術)
10月 月刊『四季』創刊
   「物語の女」
(文芸春秋)
   「追分にて」※のち「高原にて」
  (「芥川龍之介全集」第1巻月報)
11月 『物語の女』
山本書店
1935
(昭和10)
31  この年、「芥川賞」「直木賞」設立
2月頃 『芥川龍之介全集』編集のためほとんど毎日神田の岩波書店に通う
6月  『四季』を日本で最初のリルケ特集号として一人で編集
6月23日 矢野綾子の病状悪化、自身の病状も思わしくないためともに富士見療養所に入院
       この入院中に菊池寛が見舞に来る?
       立原道造、7~8月にかけて三度ほど訪れる
9月9日 中野重治見舞に来る
     堀、中野と一緒に原泉(中野の妻)が下宿している富士見の農家を訪ねる
     農家のおかみさんが上等の蜂蜜をふるまってくれる(ふだんは一番安い蜜しかくれない)
     中野と原泉と3人で連れ立って清里に出かける 富士見療養所の堀の部屋にも行く
11月  自身の健康は回復、創作欲がおこるもなかなか書けず
11月(10月末?) 用事のため2、3日上京
12月3日 矢野綾子、早朝にひどい喀血
       堀、手紙で神西清に綾子のため「ゼリイの素」を送ってくれるよう頼む
12月6日 矢野綾子死去(満24歳)
       堀、その夜綾子の妹良子(当時小学5年生?)と病院のベランダに出て星を眺める
         三好達治、ちょうどこの頃に見舞に来る
         川端康成、この数日後に見舞に来るが行き違いで会えず
12月6日 津村信夫詩集出版記念会に出席していた立原道造
       電報(綾子死去の知らせ?)を手に、興奮した様子で「僕はどうしても行きます」
       と騒ぐのを皆がなだめていた(のを同会に出席していた深沢紅子が目撃)


婚約者・矢野綾子。美しい人。
彼女との出会いと別れなくして、「堀辰雄」は語れない。
2月 「リルケの手紙」(四季)
     ※のち「巴里の手紙」



4月 「リルケ雑記」
(文芸)
     ※のち「日時計の天使」


6月 『四季』
リルケ研究号編集
1936
(昭和11)
32  この年、向島の自宅の近くに部屋を借り、そこで仕事をすることに
この年春、室生犀星宅で折口信夫の門下・小谷恒と知り合う
1月  『「聖家族』(80部限定)を野田書房より刊行
2月26日 
二・二六事件
3月  矢野綾子の母シゲノ死去(享年47)
3月  『狐の手套』を野田書房より刊行
6月  『アムステルダムの水夫』(アポリネール翻訳集)を山本書店より刊行
7月17日 軽井沢に行く
8月  信濃追分・油屋に行く(この年の暮れまで逗留)
     「物語の女」続編(「菜穂子」)を書こうとするも書けず
     この夏立原道造の紹介で野村英夫を知る 加藤周一とも初対面?
     この夏川端康成初めて軽井沢に来て「四季」の面々と交流
9月  辰野隆、鈴木信太郎と共訳の『贋救世主アンフィオン』を野田書房より刊行
9月16日 伯父死去のためいったん帰京
9月30日 「婚約(仮)」(のち「風立ちぬ・序曲」)を書き始める
10月  『聖家族』普及版を野田書房より刊行
11月  「冬」(風立ちぬ続編)を執筆
12月6日 矢野綾子一周忌のため帰京、誰にも会わず2、3日してすぐ追分に戻る
     「風立ちぬ」エピローグを書こうと追分で冬を越すも書けず
12月  「風立ちぬ」(序曲・風立ちぬ)を「改造」に発表
12月末 阿比留信がクリスマスを送るため来訪
12月暮(28日?) 東京に戻る
 
1月 『聖家族』野田書房
3月 『狐の手套』
野田書房
5月 「『更級日記』など」
 ※のち「問に答へて」(文芸懇話会)
6月 「ヴェランダにて」
(新潮)
   『アムステルダムの水夫』
   山本書店(アポリネール翻訳集)
7月 「緑葉歎」
(セルパン)
9月 『贋救世主アンフィオン』
                野田書房
    ※辰野隆、鈴木信太郎と共訳

10月 『聖家族』普及版
          
野田書房
12月 
「風立ちぬ」
    序曲・風立ちぬ(改造)
    「山中雑記」
(文芸懇話会)
          ※のち「『鎮魂曲』」
1937
(昭和12)
33  この年春 小谷恒と日本古典を通じて親しくなる
1月2日 追分に戻る この年の大半を追分で過ごす
1月10日頃 野村英夫来る
1月14日 野村英夫と森のなかを歩いていて傷ついた雉子をつかまえる(「雉子日記」)
1月末 立原道造来る 数日滞在して帰る 堀はこの頃風邪をひいていて2月まで寝込む
3月   一時東京で養生、ふたたび追分に戻る
4月   「婚約」(「春」※風立ちぬの一章)を「新女苑」に発表
春頃   日本の古い美しさに心を向けはじめ、王朝文学に親しむ
5月中旬 いったん上京
6月中旬 初めて京都に旅する 百万遍の龍見院の離れを借りて1か月ほど暮らす
       この間、大和の古寺や嵯峨、大原寂光院などを訪ねる
6月   短編集『風立ちぬ』を新潮社より刊行
7月7日 
日中戦争(支那事変)勃発
7月中旬 帰京 数日後に信濃追分に行く
8月   『雉子日記』を野田書房より刊行
     追分油屋に滞在していた加藤多恵を知る 一緒に散歩したり話したりして親しく交流
     追分に滞在していた舟橋聖一と古典について語り合う
8月下旬 矢野綾子の父透と妹良子(当時小学6年生?)が堀を訪ねてくる
      堀、加藤多恵を矢野透らに紹介する 多恵は良子の面倒をよく見、良子は多恵になつく
     室生犀星の別荘へも皆で出かけ、良子は犀星の娘・朝子(14歳)とも仲良くなる
9月19日 戸隠に行く途中の津村信夫が立ち寄る
10月  上條松吉宅に家政婦として入っていた金井てい、松吉の養女となる
10月22日 中原中也死去(満30歳)
10月下旬 立原道造が肺結核を患っていることを知る
       「水のたまる方なら質がいいだらう、僕が最初やったのがそいつだ」
       「僕みたいに呑気にそんな病気を愉しむやうにしながら療すんだな」(立原宛手紙)
11月7日 上京し一週間ほど滞在
       小谷恒の案内で国学院大学へ折口信夫の講義を聴きに行き、折口に初めて会う
       加藤多恵・恩地三保子(孝四郎長女)と会い銀座「濱作」で蛤の酒蒸しを御馳走する
       そのあとコーヒー店で彼女ら二人の会話を楽しそうに聞いたり手相の比べっこをしたり
11月15日 追分に戻る
        9月から着手していた「かげろふの日記」を書き上げる
11月18日 「かげろふの日記」を郵送するため軽井沢に行き川端康成宅に一泊する
11月19日 追分に戻ると宿泊していた油屋が全焼しており本や身の回り品一切を失う
        夕方川端康成が車で迎えに来てくれて軽井沢に避難
        藤屋、つるや旅館に数日滞在する
        同じく被災した立原道造野村英夫は22日に帰京
11月26日 川端康成帰京、その別荘を借りて(27日から?)ひとり執筆作業に入る
11月29日 野村英夫が来る 二人で薪拾いや水汲みをして半自炊生活に入る
12月1日 加藤多恵・恩地三保子(孝四郎長女)から火事見舞いの荷物が届く
        多恵と三保子は堀の欲しがっていたリルケの本を日本橋三越まで買いに行き、
        ドイツ製色鉛筆(ステッドラー)とお菓子などを添えて送った
        三保子は多恵の様子に「ただのお見舞品を選ぶのとは違う何か」を感じ取っていた
12月5日 神保光太郎の結婚式と矢野綾子の命日(6日)のためひとりで上京
12月7日 ふたたび軽井沢の川端別荘に戻る 野村英夫風邪をひくも堀が戻るとたちまち元気に
12月20日(23日?) 「風立ちぬ」終章の「死のかげの谷」を脱稿
        「本当にいろんなものをば火事で失ったけれど、その代りにこの一篇が書けたので、
        もう焼けた何もかもさへ、さう惜しくはない位―」(加藤多恵への手紙より)
12月26、27日頃 野村英夫帰京
12月28日 ひとりで上京、銀座でビフテキをたべて誕生日を祝ったのち軽井沢別荘に戻る
12月29日 神西清が訪れ二人で正月を迎える


昭和12年夏、信濃追分にてヤギとたわむれる堀さん。となりの女性は加藤多恵、のちの多恵子夫人。出会って間もないころなのに、すっかり打ち解けてる感じがほほえましい。
1月 「冬」(文芸春秋)
     ※風立ちぬの一章

   「雉子日記」
(都新聞)

2月 「ミュゾオの館」

      (帝国大学新聞)

      ※のち「続雉子日記」


4月 「婚約」
(新女苑)
   ※のち「春」、風立ちぬの一章


5月 「雉子日記」
(四季)
 ※のち『雉子日記』に於て「ノオト」


6月 「春日遅々」
(文芸)

   『風立ちぬ』
新潮社

7月 「クロオデルの『能』」
          
(文芸復興)

8月 『雉子日記』
野田書房

9月 「若き詩人への手紙」
     ※のち「夏の手紙」
(新潮)

   「郭公」
(新女苑)
     ※のち「閑古鳥」


10月 「牧歌
―恩地三保子嬢に」
                 (書窓)


12月 「かげろふの日記」
              
(改造)
1938
(昭和13)
34  1月4日 神西清と一緒に軽井沢を引き上げ向島の自宅に帰る
1月5日 室生犀星と銀座に出かける スエヒロのビフテキを御馳走される
      このあと風邪をひき10日頃まで寝込む
1月9日 父方の伯父が死去
1月中 油屋主人上京、油屋再建のため室生犀星のところにつれていったりいろいろ奔走する
1月29日 伯父の法要
2月2日 加藤多恵の実家に結婚の申込みに行く
       多恵の母静は結核の貧乏文士のところに娘をやることをためらっていたが、
       多恵の弟俊彦、室生犀星一家、矢野(綾子)一家、恩地三保子(孝四郎長女)らが
       こぞってこの結婚の後押しをしたため、ついに母の許可を得るところとなる
2月4日 加藤多恵との結婚が決まり、結婚への思いを込めた長い手紙を多恵に送る
2月12日 結婚報告のため鎌倉・逗子の川端康成神西清中里恒子を訪ねるも
         深田久弥宅前で喀血 重篤のためそのまま深田宅で病臥する
2月15日 加藤多恵立原道造の案内で見舞に来る
2月17日 加藤多恵、矢野透(綾子の父)宅を訪ね今後のことを話し合う
2月20日 加藤多恵、ふたたび見舞に来る 矢野家では矢野綾子の三回忌法事
       神西清、堀の入院の手続きのため終日奔走、
        銀座で立原道造とともに矢野透(綾子の父)と会談、川端康成とも会う
2月21日 鎌倉額田病院に入院
       小康を得た頃、加藤多恵と恩地三保子(孝四郎長女)が見舞に来る
       「37歳まで生きられたら歯を直すっておっしゃったでしょ。ちゃんと直さなけりゃね」
       と三保子に言われ堀(歯医者嫌い)「そうね」と苦笑い
3月23日 額田病院退院 深田久弥宅に挨拶に行く(靴を忘れ神西清に小包で送ってもらう)
3月下旬 向島の自宅に帰った後、杉並成宗の加藤多恵宅で結婚式前日まで静養
      「死のかげの谷」を「新潮」に発表、「風立ちぬ」完成
4月15日 東京に買い物に行く 葛巻義敏を訪ねる
4月17日 室生犀星夫妻の媒酌で目黒雅叙園にて加藤多恵と結婚
        参列者は両家親族のほかは室生朝子(犀星の娘)と矢野透(綾子の父)と娘良子、
        それに立原道造のみというささやかな結婚式
        その晩は新婚旅行代わりに大森ホテルに泊まる
4月20日 田端の
芥川宅に結婚の報告に行く
        葛巻義敏からは結婚祝いに
芥川龍之介直筆の晩年の短歌の一幅を贈られる
       「わか門のうすくらかりに人のゐて あくひせるにも驚く我は/病中偶作 龍之介」
       「ソノ歌意ト年代トノ時ニ適ハザルヲ咎ムルコト勿レ。何故カナレバ、
       彼ガソノ晩年、最モ愛シ、最モ嘱シタルトコロノ君ガ一人ナレバナリ」(葛巻書簡より)
       多恵子夫人は芥川夫人から結婚祝いに「立派な蔦の形をした帯どめ」をもらっている
       浅草「かね田」に神西清深田久弥、佐藤正彰を招いて結婚報告、感謝の宴を開く
4月24日 多恵子夫人とともに軽井沢に行く
       上野駅に皆と見送りにきていた立原道造、自分も一緒に行くと同じ列車に飛び乗る
         (冗談のつもりだったが多恵子夫人の母親を本気でびっくりさせる)
       当初つるやに泊まりながら、のち室生犀星の山荘を借りて別荘探し
5月    『風立ちぬ』を野田書房より刊行
5月9日 愛宕山の水源地近くのスイス風の大きな山荘(835)に新居を定め引越す
5月15日 父上條松吉が脳溢血で倒れたため多恵子夫人と二人で向島に戻り看病
      この留守中、立原道造が堀の別荘を恋人を連れて訪ねている
6月中旬 父上條松吉ひとまず小康を得たため、軽井沢に戻る
6月某日 雨中の一日、片山広子が訪れ新婚の二人のために歌を詠んでくれる
6月24日 一週間ばかり降り続いていた雨が上がり多恵子夫人と散歩 つるや主人と立ち話
       野薔薇のしげみの中に鳥の巣をみつける(「巣立ち」)
6月下旬 室生犀星の依頼で折口信夫の別荘さがしに奔走する
7月29日 留守中に川端康成が訪ねる
この夏 立原道造が恋人とふたりで堀の別荘を訪ねる
     ほかにも室生犀星夫妻、萩原朔太郎と娘葉子、折口信夫らが訪ねてくる
8月   室生犀星の世話で「幼年時代」を「むらさき」に連載(9月~翌年4月)
8月   小谷恒の案内で折口信夫の別荘を訪ねる 突然の訪問だったが折口非常に喜ぶ
9月3日 深夜、別荘の屋根裏で蛇が脱皮 午後、阿比留信来訪 (「山日記その一」)
10月上旬 栗拾いに熱中しすぎて(毎日100個ほど拾う)発熱、一週間ばかり寝込む
10月上旬 川端康成が軽井沢を去るため挨拶に来る 栗をどっさり送る(「山日記その二」)
        帰京資金がない堀夫婦(原稿料を充てるつもりが寝込んで書けなかったため)に、
        川端康成が200円を貸してくれる(後日返しに行く)
10月19日 軽井沢を引き上げ逗子の知人(山下三郎)の別荘にしばらく落ち着く
         魚屋の隣だったので新鮮な魚が安く手に入り多恵子夫人喜ぶ
10月19日 立原道造、旅先の盛岡から堀に長い長い手紙(巻紙推定8メートル余)を送る
        「僕が去ったらあなたはどうなさる?……僕は信じている、あなたの崩壊を」
11月下旬 立原道造、南方への旅行に発つ前に逗子の堀宅を訪ねる
      「逗子の駅ではまだ時間がたくさんありました。お別れが、あわただしかったせいか
      何かしら大切なことをおはなしせずに来てしまったような気がしています」(堀宛書簡)
12月中旬 立原道造、帰京するも体調著しく悪化し入院、絶対安静状態に
12月15日 父上條松吉死去(満65歳)
        同日、立原道造が入院したことを知る

新婚ホヤホヤの昭和13年夏、軽井沢にて多恵子夫人と(写真左)、そして多恵子夫人の母と(写真右)。
夫人の母君ともリラックスした良好な関係を築けていることが、堀さん余裕のヤンキー座りっぷりからうかがえます。


軽井沢の別荘にて。左から矢野良子(綾子の妹)、室生朝子・朝巳(室生犀星の子供たち)、矢野透(綾子の父)、多恵子夫人、野村英夫、堀辰雄。綾子がつないだ矢野家と堀夫妻との絆は家族同然の強くあたたかなもので、そのあたたかさは周囲の人々にも波及していきました。
1月 「山茶花など」(新女苑)
     ※のち「閑古鳥」と合わせ
             「生者と死者」



3月 
「死のかげの谷」(新潮)
         ※「風立ちぬ」完成



4月 『風立ちぬ』
野田書房


7月 「卜居
―津村信夫に(知性)

    「日記抄」
(東京朝日新聞)
             ※のち「雨後」



8月 「山村雑記」
(新潮)
       ※のち「七つの手紙」


9月 「幼年時代」
(むらさき)
        ※連載、翌4月まで


  「初秋の浅間」
(帝国大学新聞)


10月 「山日記」
(文学界)
    ※「山日記又」と合わせて
      「山の家にて」の一編とする
1939
(昭和14)
35  この年(逗子・鎌倉在住時)夫婦でしばしば鎌倉二階堂の川端康成宅に遊びに行く
1月  逗子で夫婦ふたりの正月を迎える 
     多恵子夫人のつくった雑煮を「こんなにおいしい雑煮は食べたことない」と喜ぶ
2月  中里恒子が女性初の芥川賞受賞、中里の住む逗子界隈は大騒ぎに
     当時近所に住んでいた堀夫妻も騒ぎに巻き込まれる
2月初旬? 津村信夫から、立原道造が堀に会いたがっているため見舞を乞う速達が届く
2月8日 入院中の立原道造多恵子夫人とともに見舞う
      ドイツ菫の花束と西洋菓子を持っていく 面会時間終了間際のため2、3分しか会えず
      立原「僕も堀さんのように死と遊んでいたいんだけれど、とても苦しくて…」と訴える
2月11日 立原道造の件で室生犀星を訪ね津村信夫も呼ぶ(そのあともう一度見舞に行った?)
3月9日 逗子の家を空けねばならない事情ができたので引越し
3月10日 鎌倉小町の笠原健治郎宅の二階に移り住む
3月29日 立原道造死去(満24歳)
3月30日 療養所に行き立原道造の棺を乗せた霊柩車を見送る この時深沢紅子と初対面
4月6日 立原道造の告別式
4月   叔母(母志気のすぐ下の妹)西村よねを鎌倉の家に引き取って一緒に住む
      このあと杉並の家に移った際にも連れてゆき昭和19年軽井沢に移るまで面倒を見る
4月29日 本郷「鉢の木」にて立原道造の追悼会
       同席者から「堀さん、何かお言葉を」と求められるも「いや、僕は」と沈黙を守る
春~夏  慶応大学の折口信夫の「源氏物語全講会」に毎週通う
5月   『燃ゆる頬』を新潮社より刊行
5月   神西清と二人で奈良旅行 (秋篠寺、唐招提寺、薬師寺、藤原京跡など)
5月11日 神西清と奈良の町を歩く 三月堂、新薬師寺を見て回る
5月12日 雨の中西の京の寺々を見て歩く
5月14日 法隆寺に行く
5月15日 少し風邪気味のため一日休養、神西清は京都へ
5月16日 泊まりがけで飛鳥地方へ足を延ばす
5月18日 神西清帰京 そのあとひとりで大和路を歩いて回る
       最後の日は二上山のふもと当麻寺を訪ねる(「黒髪山」)
5月21日 鎌倉に帰宅 
       このあと熱を出してしばらく病臥
6月   『かげろふの日記』を創元社より刊行
6月某日 上條松吉が実父ではなかったことを叔母(「田端のおばさん」)から聞かされる
       (「花を持てる女」決定稿)
6月23日 念願の蓄音機を入手
       東京に出るたびに本より重いレコードを買い込んでくるように
7月9日 軽井沢に新しく山荘(638)を借りて移り住む
       (日光の中禅寺湖畔に家を探していたが結局軽井沢を選んだ)
      二週間ほど熱を出して寝込むが回復
      蓄音機を持ち込んで音楽を楽しむ
8月   津村信夫、神保光太郎らとカトリック教会の夏のミサに初めて出てみる
9月1日 
第二次世界大戦勃発
9月   多恵子夫人と二人で野尻湖に旅し、レークサイド・ホテルに泊まる
10月2日 深沢紅子、軽井沢の堀の別荘周辺でスケッチ
10月初め 軽井沢より鎌倉に帰る
12月28日~30日頃まで? 上京
1月 「巣立ち」(新女苑)



2月 「ほととぎす」
(文芸春秋)
     ※「かげろふの日記」続編

   
「マダマ・ルクレチャ小路」
    翻訳(河出書房「メリメ全集」)



5月 『燃ゆる頬』
新潮社

   「麦秋」
(新女苑)
     ※のち「おもかげ」




6月 『かげろふの日記』
創元社



12月 「旧友への手紙」
(文芸)
     ※のち「美しかれ、悲しかれ」
1940
(昭和15)
36  1月  本を届けてくれた大学生の中村真一郎と初めて会い、以後親しく交流する
1月  鎌倉のホテルに仕事場として一か月ほど部屋を借り、鎌倉小町の自宅から毎日通う
     同じホテルに岸田国士が滞在中
     小林秀雄三好達治と一緒に岸田のところに行き4人で語り合う
3月  鎌倉より東京杉並区成宗の多恵子夫人の実家に転居、庭に小さな家を新築し始める
    (生田勉に書斎を設計してもらった)
4月初め 多恵子夫人の弟俊彦が出張先の大阪で病む
       看病のため夫人が一か月近く家をあける
4月6日 野村英夫を伴い立原道造の蔵書の整理に行く
      立原の母の厚意で形見として木いちご酒の瓶をもらって帰る(下戸なのに)
4月11日 室生犀星宅を訪ねる
4月16日 芥川(
龍之介)夫人来訪、葛巻義敏の恋愛問題について相談される
4月17日 恩地(孝四郎)夫人来訪、室生犀星の昔話などを聞く
5月  杉並成宗の新居完成
5月17日 深沢紅子を訪ねる(野村英夫も?)
6月2日 立原道造の蔵書陳列会(売立て)が文芸会館で行われる(全集資金づくりのため)
6月3日 ひとりで追分に行き再建した油屋に滞在、「姨捨」を執筆
6月某日 深沢紅子野村英夫多恵子夫人らと軽井沢で遊ぶ(「朴の咲く頃」)
6月11日 「姨捨」の原稿を持って帰京
       成宗の新築した家で1か月ほど暮らす
7月  『雉子日記』を河出書房より刊行
7月  『立原道造全集』全3巻(山本書店)の準備を始める(刊行昭和16年2月~18年7月)
    堀辰雄・杉浦明平・生田勉・小山正孝・野村英夫
7月11日 軽井沢に行き新しく別荘(658)を借りて住む
7月下旬 多恵子夫人・夫人の母と一緒に別所温泉に遊ぶ
       帰路一人で野尻湖へ出かけ「野尻」(晩夏)を書く
夏のある日 森達郎(帝国大学医学部学生)がひとりで軽井沢の堀を訪ねてくる
9月26日 深沢紅子、急用で不在?の堀の代りに川端康成に軽井沢を案内してもらう
10月頃  深沢紅子野村英夫らと軽井沢で遊ぶ
秋    東京に帰る
10月25日 『堀辰雄詩集』(180部限定)を山本書店より刊行
        (※立原道造が編んだ詩集に深沢紅子の絵をつけて上梓したもの)
11月初め 多恵子夫人の母静と堀の叔母よね、同時に病気になる
        多恵子夫人の母静入院、多恵子夫人は病院通い
        堀自身も気管支炎で不調
12月7日 多恵子夫人の母・静死去
       堀夫妻、成宗の母屋のほうに移り、新築の小さな家は人に貸すことに
1月 「心に迫る芥川の言葉」
            (東京日日新聞)
       ※のち「エマオの旅びと」


  「うた日記」(一橋新聞)
  ※「ゲエテの『冬のハルツに旅す』」

 アンケート回答
(帝国大学新聞)
          ※のち「菜穂子」覚書

6月 「魂を鎮める歌」(文芸)
       ※のち「伊勢物語など」

  「或外国の公園で」(知性)

7月 「姨捨」
(文芸春秋)

  「木の十字架」(知性)

   『雉子日記』
河出書房

8月 「『若菜』など」
(創元)
     ※のち「若菜の巻など」

9月 「野尻」(婦人公論)
         ※のち「晩夏」


10月 『堀辰雄詩集』
山本書店
1941
(昭和16)
37 
成宗の家にて(写真左・中央)、軽井沢の別荘にて(写真右)。いつもいっしょの仲良し夫婦。

この年から、三島由紀夫、頻繁に堀に手紙をよこし、また雑誌「赤絵」を送って批評をもらう
1月  欲しがっていた軽井沢の別荘(1412)が売りに出されていることを川端康成に知らされる
      3500円という高値だったが思い切って買い取る
      (うち450円を川端康成に借り一年がかりで返す)
2月  「菜穂子」脱稿(「物語の女」続編としての構想からほぼ7年を要した)
3月  「菜穂子」を「中央公論」に発表(17年に第一回中央公論賞を受賞)
3月  お能の会の会員になる (この時期お能を熱心に見すぎて腰痛に)
5月7日 購入した軽井沢の別荘(1412)を見がてら、多恵子夫人と軽井沢に赴く
      さらに足をのばして更科の里に姨捨山を見に行き、浅間温泉に一泊
5月8日 木曾を廻り藪原の米屋旅館(津村信夫の常宿)に一泊
5月9日 帰京 しばらく病臥
7月初め 軽井沢の別荘(1412)に行き9月末まで滞在
      この頃 中村真一郎加藤周一福永武彦らと親しく交流
9月  『晩夏』を甲鳥書林より刊行
9月2日 新女苑の担当者来る、原稿(「四葉の苜蓿」)を徹夜して書き上げ翌日持って帰らせる
9月21日頃 中里恒子来訪
9月下旬 神西清一家来訪
10月初め 帰京
10月8日 『立原道造全集』打ち合わせのため自宅に野村英夫、杉浦、生田、小山を集める
10月10日 小説執筆のため奈良に発つ 夕方奈良ホテルに着く
10月11日 新薬師寺方面に行く 夕方、西の京の唐招提寺の松林のなかで夫人に手紙を書く
10月12日 佐保路を歩き法華寺や秋篠寺を見て回る
        海龍王寺(廃寺)の境内を小一時間もさまよってその寂れたさまを堪能
        そのあと柿を齧りながら歌姫方面へ歩く
10月13日 博物館に行き阿修羅王の像に見とれる 東大寺のほとりを歩く
10月14日 秋篠寺に行く 技芸天女の像に見とれる
10月15日 京都に出かける 円山公園で「いもぼう」を食べる 出町柳の古本屋で掘り出し物
10月16日 小説構想のため一日ホテルにこもる 東京の自宅には森達郎来る
10月17日 「今昔物語」を求めて京都へ 高瀬川に沿って歩きながら寺町通りへ
        古本屋で二時間ばかりかかってやっと「今昔物語」入手
        帰途、京都駅で乗り換えた電車が橿原行きだったため郡山までつれていかれる
10月19日 三月堂に行く 万葉植物園のなかで夫人に手紙を書く
10月20日 生駒山を越え河内の国を歩く 夕方大阪に行き天ぷらを食べる
        『立原道造全集』編集を降りるという野村英夫に激励の手紙を出す
        (※立原道造の日記に野村の悪口が書いてあったため)
         多恵子夫人の姉が女児を出産
10月21日 阿部知二とその連れとともに三月堂や戒壇院を見て回る
        法隆寺の壁画を模写している絵描きさんやお寺の坊さんと知り合いになる
10月23日 法隆寺に行く 壁画を近くで見せてもらいその美しさに感嘆
        百済観音を見に行き一時間ばかり惚れ惚れと見とれる 日暮れまで斑鳩を歩く
10月24日 高畑の辺の尾花の中を歩きながら小説のテーマを考える
        東京の自宅には矢野透来る
10月25日 東京の自宅に野村英夫来る
10月26日 京都の甲鳥書院に署名をしに出かける 鴨川べり「ちもと」で晩飯を御馳走してもらう
10月27日 法隆寺に行き夢殿の観音を見る
10月28日 仕事を片付けるためホテルに荷物を預けたままひとまず帰京を決意、
        朝奈良ホテルを発つ そのまま滋賀に行き琵琶湖ホテルに一晩泊まる
10月29日 帰京 (この旅で多恵子夫人に宛てた手紙をもとに大和路・信濃路「十月」を書く)
11月  「曠野」を書く (書き出してから二日ほどで書き上げ真先に多恵子夫人に読ませる)
      脱稿後一週間ほど病臥
11月  『菜穂子』を創元社より刊行
11月30日 奈良ホテルに戻る
12月1日 三輪山の麓を歩き柿本人麿ゆかりの穴師の里をうろつく
12月2日 瓶原を一日中歩く
12月3日 飛鳥の村を日暮れまで一日中歩く 満月の光を浴びながら畝傍の駅にたどりつく
12月4日 夕方神戸に着く オリエンタルホテルに泊まる
       竹中郁が来て寿司を御馳走してくれる
12月5日 倉敷に足を延ばし大原美術館でエル・グレコの「受胎告知」に見入る
       神戸山の手の「外人の下宿屋みたいな」小さなホテルに泊まる
12月6日 神戸を散歩 午後帰京 (この旅をもとに大和路・信濃路「古墳」を書く)
12月7日 多恵子夫人の母の一周忌
12月8日 
太平洋戦争突入(真珠湾攻撃)
12月末 森達郎と軽井沢へ行く
12月22日 森達郎とともに葛巻義敏夫妻を訪ねすき焼きを御馳走になる
12月23日 八ヶ岳麓の野辺山ガ原の斑雪の中を歩き小諸の古い宿で一泊
        (この旅をもとにして大和路・信濃路「斑雪」を書く)
12月24日 帰路、東京から来た多恵子夫人と軽井沢で落合う
        葛巻義敏家で一緒にクリスマスを過ごし、そのあと帰京
12月31日 実父堀浜之助の妹・柴田さゑ死去
         志気に生花を教えていたため辰雄とも少し交流があった
         青山の高徳寺で行われた葬儀に多恵子夫人とともに参列


昭和16~17年ごろの堀さん。

堀辰雄in軽井沢、そのイメージにあこがれて当時の文学青年たちはこぞって堀さんスタイルを真似したそう。ベレーかぶってステッキふって…。(そういう熱狂が一部の強烈なアンチを生むことにもなった)聖子ちゃんカット大流行みたいなもんか。ちがうか。
1月 「朴の咲く頃」(文芸春秋)



3月 「菜穂子」
(中央公論)



7月 「黒髪山」
(改造)



8月 「姨捨記」
(文学界)
      ※のち「更級日記」




9月 「目覚め」
(文学界)
        ※のち「楡の家」


   『晩夏』
甲鳥書林



10月 「絵はがき」
(新女苑)
        ※のち「四葉の苜蓿」




11月 「一琴一硯の品」
(甲鳥)
           ※のち「我思古人」


    『菜穂子』
創元社



12月 「曠野」
(改造)
1942
(昭和17)
38  この年、中村真一郎福永武彦加藤周一が「マチネ・ポエティク」結成
1月  「四季」編集当番のため方々(神西清野村英夫津村信夫等)へ依頼の手紙を出す
1月27日 深沢紅子来る
2月某日 野村英夫来るも留守で会えず
4月某日 野村英夫宅を訪ねる
5月某日 畑中良輔来る 欲しがっていた詩集を贈る
5月11日 萩原朔太郎死去(満55歳)
      『「萩原朔太郎全集』全10巻別冊2巻(小学館)の編集委員として編集に従事
       (刊行昭和18年3月~19年10月)
       伊藤信吉、中野重治丸山薫三好達治らとともに
5月下旬 前年買った別荘の改造のため一人で一週間ほど軽井沢へ行く(つるやに泊まる)
7月  川端康成の短編集『高原』(甲鳥書林)刊行、堀が装幀を担当した
7月11日 文筆活動のできない中野重治に資金援助の提案がある旨を手紙で伝える
7月14日 『萩原朔太郎全集』をめぐって室生犀星三好達治が殴り合い寸前の大ゲンカ
       堀が間に入って止める
7月15日 前日の詫びもかねて小田原の三好達治宅を訪ねる
7月17日 軽井沢に行く
       この頃より中国の詩を読み始める
       志賀直哉室生犀星川端康成中里恒子らが別荘に立ち寄って親しく交流した
       また堀を慕う森達郎が堀別荘のそばに大きな山小屋を父にねだって購入し、
       同じく堀を慕う中村真一郎福永武彦野村英夫らが出入りして大いに賑わった
       (森達郎のキャラが熊っぽいので森の別荘は「ベアハウス」と呼ばれる)
7月22日 堀の別荘に滞在していた室生朝巳(室生犀星の息子)が帰宅
       小山正孝が来て野村英夫のところに泊まる
       多恵子夫人は一週間ほど帰京中(戦時下による隣組活動参加のため)
7月26日頃 室生朝巳ふたたび滞在、毎朝魚を買ってきてくれる
7月28日 「ベアハウス」満員のため生田勉が泊まりに来る
7月29日 室生朝子(室生犀星の娘)来る
7月31日 多恵子夫人が来る、一緒に帰京
8月  「花を持てる女」(決定稿)を「文学界」に発表
8月  『幼年時代』を青磁社より刊行
9月4日頃 多恵子夫人とともに軽井沢に行く
9月17日 多恵子夫人を伴って旅行 中ノ湯温泉で一泊、上高地に行き帝国ホテルに二泊
        上高地から諏訪に行き牡丹屋で一泊、和田峠を越して軽井沢に帰る
9月30日 多恵子夫人を帰京させ、一週間ほど家の模様替え等をしながら一人暮らしをする
10月1日 明け方雷雨、一日じゅう霧雨 芳賀檀が訪ねてくる
10月2日 快晴 朝の散歩で栗拾い 野村英夫来る
10月3日 快晴 野村英夫、中学時代の友人を伴い来る
10月6日 追分油屋に移る 小説「ふるさとびと」の構想を練るため
       野村英夫らも手伝いのため同伴、共に栗拾いを楽しんだのち午後の汽車で帰る
       婦人公論の担当者来る、連載物の依頼を承諾する(「大和路・信濃路」)
10月9日 野村英夫パンを持って来てくれる また栗拾いして夕方帰る
10月20日 軽井沢の別荘を閉めるため駅に向かう途中葛巻義敏夫妻と野村英夫に会う
        一日じゅう追分で遊ぶ
10月23日頃 帰京(野村英夫とともに)
12月  「ふるさとびと」脱稿


堀辰雄(中央奥)を囲んで軽井沢別荘の庭にて野外スキヤキ。いいなあ楽しそう。いちばん左は中村真一郎、その横が森達郎。堀さん右横の女性は中里恒子、その隣は多恵子夫人。
8月 「花を持てる女」(文学界)
                 ※決定稿


   『幼年時代』
青磁社

9月 「萩原朔太郎年譜」
(四季)
                 ※未定稿
          ※のち「萩原朔太郎」
1943
(昭和18)
39  この年、さまざまな旅に取材した「大和路・信濃路」を「婦人公論」に連載(1~8月号)
この年、野村英夫深沢紅子の娘陽子への恋に破れ、軽井沢の教会でカトリックの洗礼を受ける
2月3~4日 森達郎を伴い別所温泉に到着、馬橇で志賀高原に向かう
         (この旅をもとに大和路・信濃路「橇の上にて」を書く)
4月12日 多恵子夫人同伴で大和路の旅へ出立 木曾路に入り木曽福島藪原に泊まる
4月13日 木曾路を通り伊賀を経て大和に(大和路・信濃路「辛夷の花」)
4月14日 奈良ホテルに泊まる
       馬酔木の花ざかりの浄瑠璃寺を訪ねる 夕方、新薬師寺、三月堂まで行く
       (大和路・信濃路「浄瑠璃寺の春」)
4月15日 バスで室生山に行く 室生寺を訪ねる 室生川沿いの一旅舎に泊まる
4月16日 朝、室生寺に再び詣る
4月下旬 京都に立ち寄り京都ホテルに一泊して帰京
5月14日 ひとりで京都に行きしばらく滞在 甲鳥書林が世話した河峯旅館に宿泊
       葵祭が中止になったのを残念がる
5月16日 雨の中を歩き若葉の美しさを楽しむ 古本屋を覗いて夕方宿に帰る
5月17日 ひとりで苔寺に行き嵯峨野を歩く
5月18日 知人に連れられ鹿ケ谷の料理屋で鯛づくめの御馳走を食べる
       祇園で舞妓はんを見る
5月20日 朝から大徳寺の真珠庵、高桐院、孤蓬庵などを見て歩く
       午後は大山定一の依頼で京都大学学友会館の座談会に出席、
       3、40人の学生相手におしゃべりをさせられる
       南禅寺の瓢亭で食事、祇園のお茶屋で銀杏を食べたりサイダーを飲んだり
5月22日 聖林寺(大和)に行く
5月23日 京都を発ち浜松で一泊
5月24日 帰京 (この旅をもとに大和路・信濃路「死者の書」を書く)
6月末   軽井沢に行き多恵子夫人とともに11月上旬まで滞在
       その間プルーストやリルケの作品に親しむ
       野村英夫肺結核発病
9月某日 戸隠に行く途中の津村信夫が立ち寄る
9月某日 日塔聡多恵子夫人と3人で戸隠の津村信夫を訪ねるも一日違いで帰った後
      蕎麦の花ざかりを見、戸隠そばを食べて山を下り別所温泉に一泊、軽井沢に帰る
9月24日 志賀直哉帰京 東京の自宅の連絡先を記した手紙を残していく
10月某日 信州上田の奥、田所温泉に遊ぶ
11月8日 帰京
11月20日 徳田秋声の葬儀に参列、井伏鱒二太宰治に会う
12月末 多恵子夫人が暮れから正月にかけて猩紅熱にかかり寝込む
 
1月 「ふるさとびと」(新潮)

 
「大和路・信濃路連載
     (婦人公論)1~8月号まで
 ・「一」「二」→のち「十月」
 ・「三」→のち「古墳」
 ・「野邊山原」→のち「斑雪」
 ・「雪」→のち「橇の上にて」
 ・「辛夷の花」
 ・「浄瑠璃寺」
   →のち「浄瑠璃寺の春」
 ・「『死者の書』古都における、
    初夏の夕ぐれの対話」
1944
(昭和19)
40  この年春、遠藤周作と初対面(前年の昭和18年という記述も?)
2月6日 情報局から廃刊命令が出たため「四季」最終刊の編集を行う
2月21日 中村真一郎福永武彦来る お雑煮とウイスキーを御馳走する
2月26日 森達郎を伴い疎開のための家捜しに追分に行く
       油屋が「先生のために」と旅館の隣の家を用意してくれる
3月某日 帰京後、疎開の荷造りをしている時に大喀血 一時重態となる
       5月まで絶対安静の状態続く
6月末  軽井沢の別荘(1412)に移る
6月27日 津村信夫死去(満35歳)
6月30日 津村信夫の死を室生朝巳の手紙で知る
8月12日 多恵子夫人、栄養源(玉子)確保のため、にわとり(親鳥1羽・ひな3羽)を買う
       鶏小屋は野村英夫がつくってくれた
8月29日―9月1日 多恵子夫人一時帰京(弟結婚のため)
9月  『曠野』を甲鳥書林より刊行
9月13日(17日?) 軽井沢の別荘から追分油屋隣の家に移り住む(にわとりも一緒)
9月20日 野村英夫来訪、翌日帰る
9月28日 福永武彦結婚
9月末? 森達郎、肺結核が悪化し滋賀のサナトリウムに入る
11月頃 軽井沢に来ていた片山広子と少し雑談
11月頃 加藤周一来る
12月28日 厳冬の追分で過ごす40歳の誕生日、多恵子夫人が赤飯を炊いてくれる
1月 「樹下」(文芸)
    ※「大和路・信濃路」序に


2月 「『青猫』のことなど」

    (「萩原朔太郎全集」付録に)
      ※のち「『青猫』について」


9月 『曠野』
甲鳥書林 
1945
(昭和20)
41  多恵子夫人と二人で追分の厳しい冬(インクも凍る、おひつのごはんも凍る)を越す
春頃から少しずつ恢復のきざし
3月24日 片山達吉(片山広子の長男)死去
4月13日 
東京大空襲 田端の芥川龍之介宅焼失
4月20日頃? 遠藤周作来る この時期、頻繁に追分の堀を訪ね薫陶を受けている
          譲ってもらった堀のパイプが空襲で焼けてしまったことを悔やむ
5月頃  またすこし患う
この年春~夏、多恵子夫人は油屋から50坪ばかりの畑を借りいろいろな野菜を育てる
       ジャガイモ大収穫(45貫) 東京の知人にも送る
       この頃は堀も少し出歩くことができ、畑の夫人にお茶を持って行ったりしている
夏   庭先の池にクイナが巣をつくる その姿や啼き声を楽しむ
7月頃 小谷恒来訪
7月末 疎開した親戚を訪ねる途中の神西清来訪 一晩泊まる
8月15日 
太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾表明)
      
 多恵子夫人、油屋のラジオで村人たちと一緒に終戦の詔勅を聞く
       終戦後、いろいろな出版社から執筆の依頼が舞い込む
10月頃? 野村英夫、疎開先の信州野沢の松原湖畔の農家から東京に戻る
秋頃  「角川書店」を立ち上げた角川源義が作品集出版依頼のため追分に来る
12月  中野重治・ぬやまひろしらから新日本文学会への参加を求められる
 
 
1946
(昭和21)
42  季刊雑誌『高原』創刊、『四季』再刊、作品集刊行などの準備で忙しい日々を送る
2月  「雪の上の足跡」執筆
     執筆の精神集中のため久々に煙草を吸っていたところを中村真一郎に見られる
3月  「雪の上の足跡」を「新潮」に発表
3月  『花あしび』を青磁社より刊行
3月3日 多恵子夫人軽井沢に行く
      野村英夫から『胡桃』に作品を書いてほしいと手紙が来る
3月6日 「文芸」の記者が作品を書いてほしいと来訪するも約束できず
      日塔聡、山形より来る 干し柿をもらう
3月7日 「潮流」の記者が作品を書いてほしいと来訪するも断る「つらきことなり」
3月8日 日塔聡、『四季』再刊の打ち合わせをして東京に戻る
3月27日 角川書店『堀辰雄作品集』の打ち合わせのため多恵子夫人同伴で上京
       上京中、街角で丸岡明とばったり会う
4月6日(10日?) 追分に戻る 上京の無理がたたり体調不良に
5月某日 軽井沢に疎開していた室生犀星夫人を多恵子夫人同伴で見舞う
      この頃はまだ裏山に遊びに出たりと歩きまわることができた
7月  主治医の塩沢博士の診察をときどき受ける
7月  『堀辰雄小品集・絵はがき』角川書店より刊行(以後26年6月まで同シリーズ刊行)
8月5日 『四季』角川書店より再刊・堀辰雄編集(22年12月第5号をもって終刊)
8月  季刊誌『高原』創刊(24年5月第10号をもって終刊)
9月  塩沢博士にレントゲンを撮ってもらう 左半分の肺がほとんどやられていることが判明
     「よくこの体で生きていられる」と博士驚く
10月  『菜穂子』を鎌倉文庫より刊行
11月頃より健康思わしくなく病臥 この頃からほぼ寝たきりの状態に
12月  森達郎死去
3月 「雪の上の足跡」(新潮)

   『花あしび』
青磁社

7月 「さらにふたたび」
(胡桃)

   『曠野抄』
養徳社

   『堀辰雄小品集
・絵はがき
                角川書店

8月 「ドゥイノ悲歌」
(四季)

  「旗手クリストフ
(高原)
  「若い人達」
(高原)
   ※のち「Ein Zwei Drei」

9月 「小曲集」(四季)
    ※のち「ソネット集」


10月 『菜穂子』
鎌倉文庫

11月 『堀辰雄作品集第三・
        風立ちぬ』
角川書店
1947
(昭和22)
43  この年、第一回参議院議員選挙 中野重治が立候補、頼まれて堀が推薦人になる
この年、室生犀星一家、軽井沢から東京に引き上げる
1月頃 しばしば激しい腹痛
2月頃 重態になり、神西清角川源義が雪の中、沓掛から一里ほどの道を徒歩で駆けつける
3月頃より、食事時は床の上に起きられる状態になったが腹痛は続く
3月12日頃  塩沢博士の診察にて、膵臓疾患(胆石かも)と診断
秋  小林秀雄が見舞に来る(昭和21年かも?)
秋  病状思わしくなく、塩沢博士の診察により、病重きことが家人に告げられる
12月30日 横光利一死去(満49歳)
4月 「追分より」(四季)
        ※のち「近況」

5月 『堀辰雄作品集第四・
         晩夏』
 角川書店

9月 『堀辰雄作品集第五・
        菜穂子』
 角川書店
1948
(昭和23)
44  少しずつ元気を取り戻し、静養を続けた
一日に一回、食事の時に床の上に起き上がることがやっと出来るという状態
3月頃? 神西清来る
3月6日 菊池寛死去(満59歳)
5月頃? ぬやまひろし来る
        ぬやまこのあと軽井沢の室生犀星のところに寄り堀に会ってきたことを言うと
        「体に障ったらどうする」とこっぴどく叱られた
6月10日 日塔聡来訪、野村英夫の病思わしくないことを伝える
6月13日 太宰治死去(満38歳)
8月半ば頃~ 神西清が追分に滞在 中村真一郎、中村に誘われた加藤道夫
11月21日 野村英夫死去(満31歳)
4月 『堀辰雄作品集第六・
    花を持てる女』
 角川書店

9月 「三つの手紙」
(表現)
    ※のち「『古代感愛集』読後」

10月 『堀辰雄作品集第二・
       美しい村』
 角川書店
1949
(昭和24)
45  この年から加藤道夫、病床の堀をしばしば訪ねるように
健康回復せず、仕事もできない状態が続く
角川の作品集をはじめ、神西清川端康成らの配慮により作品がさまざまな形で再び刊行され、
経済的に心配のない状態となる
3月  『あひびき』を文芸春秋新社より刊行(神西清編集・解説)
6月11日 折口信夫、国学院大学で「堀辰雄等の時代」と題して講演
       「日本のこんな荒れた時代に堀君が為事をするのが、いとしい」
8月  『牧歌』を早川書房より刊行
3月 『あひびき』文芸春秋社

8月 『堀辰雄作品集第一・
        聖家族』
 角川書店

   『牧歌』
早川書房
1950
(昭和25)
46  新春来、朝夕喀痰の折に苦しむ 静かに仰臥して読書できるのは昼間の数時間のみ
しかし近所、また遠方からも季節の花を届けてくれる人多数、枕辺はいつも花で賑わう
1月  多恵子夫人の随筆「タツオ・花・小鳥」が「女性改造」1月号に掲載される
2月~ 神西清、新潮社から出す『堀辰雄集』のためいろいろ骨折り
2月22日 神西清川端康成小林秀雄に会い堀の近況を伝える
3月22日 神西清中野重治に会い堀の近況を報告
       また角川源義と会い新潮社『堀辰雄集』出版の件を打ち明け、渋る角川を説得
6月  『堀辰雄集』を新潮社より刊行(神西清編集・解説/岡鹿之助・深沢紅子の挿絵入り)
8月  高熱が続き危篤状態におちいる 
     神西清丸岡明らをはじめ知人友人たちが追分にかけつける
     初めてストレプトマイシンを使用 12時間で解熱、危機を脱する
     その後パスを続けて服用
秋頃  気分の良い日が続き、「又生きることが出来た」と喜びノオト類の整理などに勤しむ
9月  加藤周一多恵子夫人に堀の食事のカロリー表をつくって送るよう指示
10月26日 角川書店『堀辰雄作品集』全7巻に対し、第四回毎日出版文化賞が授与される
11月頃 脳貧血的症状のためしばらく寝たきりに 加藤周一多恵子夫人にいろいろアドバイス
      『ジイド全集』月報のために「『エル・ハジ』など」を口述で書く
11月頃 信濃追分に新しく建て始めた家の棟上げをおこなう
11月頃? 三好達治見舞に来る
11月18日 角川源義が『堀辰雄作品集』毎日賞を持参して来訪
12月  神西清が再構成して編んだ堀辰雄「少年詩篇」が別冊文芸春秋に掲載される
12月  体調少し回復
12月末 頭を動かすと目が回る症状が出る
6月 『堀辰雄集』新潮社

12月 「少年詩篇」
     神西清編集(別冊文芸春秋)
1951
(昭和26)
47  この年、多恵子夫人の姉の長女(当時中学生)を養女にもらう
1月  目まいに悩まされ(耳の故障から)、視力も急激に衰える
    床に就いたまま随筆などの軽いもの、斉藤茂吉の歌集などを読んだり、
    多恵子夫人に音読してもらったりして過ごす
1月  多恵子夫人の随筆「むかしの人」が「婦人公論」1月号に掲載される
1月10日  追分に二十何年ぶりの大雪が降り一尺以上も積もる
3月13日 原民喜死去
       「逢ったことはないけれど、ほんとに惜しい人をなくした」と山室静に語る
3月中旬 「菜穂子」映画化(松竹)の話が持ち上がっていることを神西清から伝えられる
       極力辞退しようとするが、とりあえず承諾
3月中旬 三好達治から海苔届く
3月31日 滞在していた中村真一郎帰る この頃加藤道夫も油屋に滞在中
4月30日 ラジオで「燃ゆる頬」の朗読放送
       追分の自宅で多恵子夫人とともに聴くが、恥ずかしがってラジオを消してしまう
5月  河上徹太郎編・解説の『日本恋愛小説集』(羽田書店)に「風立ちぬ」が収められる
6月  痰に苦しみ、ストレプトマイシンを続けて使用
6月7日 新築の家の庭にと紅梅、プラムの木をもらう
6月28日 朝日新聞に「菜穂子」映画化の記事が大きく出ていて驚く
6月28日 林芙美子死去
       油屋からその訃を知らされ「おふみさん仕事が忙し過ぎたのだろうな」と淋しがる
6月29日 「麦藁帽子」のモデル内海妙(故人)の娘、高校生の林玲子より手紙が届く
        返事を書き、署名した初版本を贈る
6月30日 「菜穂子」映画化の記事を見たという老人が秘蔵の薬とやらを持って東京より来訪、
        多恵子夫人と押問答に  堀の判断により汽車賃だけ渡して帰す
7月1日 信濃追分に新築した家に移る 15坪ほどの小さな家だが景色が良く静か
      床柱に
芥川の書斎と同じ辛夷の木を使っているのが自慢 この家が終の棲家となる
      (秋のうちに茶の間、台所、風呂場を増築 井戸も掘ってもらう)
7月2日 多恵子夫人、鯛の塩焼きと野菜煮込み・茶碗むしをつくり夫婦でささやかな新築祝い
      新婚の中村真一郎、それまで堀が住んでいた油屋隣の家で一夏を過ごす
夏~秋  神西清、追分に1か月半ほど滞在、しばしば訪ねてくる 加藤道夫
7月14日 内海妙の弟・正から手紙が届く
9月25日 折口信夫、岡野弘彦を伴って見舞に来る(昭和25年晩秋?)
10月  福永武彦の小説「風土」を出版できるよう新潮社に口添え
11月  多恵子夫人風邪で10日ほど寝込む
12月  暮より加藤道夫油屋に滞在、一緒に年を越す

   
昭和26年夏、新築した信濃追分の家にて。この家に移ってからはほぼ寝たきりの生活となりましたが、多恵子夫人をはじめ、知人友人、彼を慕う地元の人々に支えられ、心静かな日々を過ごしました。
6月 『堀辰雄作品集別冊・
         薔薇』 
角川書店
1952
(昭和27)
48  この年、加藤道夫、追分油屋の裏に土地を買い別荘を建てる
読みたい洋書などを次々入手するも病状思わしくなくほとんど読めない状態が続く
夜は静かにラジオを聴くことが多くなる
結核の新薬が出始め、パス、チイビオン、ヒドラジイドなどを使い始める
3月  林玲子(内海妙の娘)の卒業記念に『麦藁帽子』(限定版)を献辞をそえて贈る
5月23日 神西清、大阪で竹中郁と会う
7月  目にフリクテンが生じ読書がはかどらない
     堀が推薦文を書いた福永武彦『風土(省略版)』刊行
     加藤道夫油屋に滞在
7月末 折口信夫角川源義を伴って見舞に来る
8月22日 佐佐木茂索・芥川比呂志が見舞に来る
8月28日 吉田洋一(一高の恩師)夫妻が見舞に来る
9月  『燃ゆる頬・美しい村』を新潮社より刊行
9月  福永武彦来る(これが堀との最後の対面となる)
10月22日 義父上條松吉の養女・上條てい死去
10月某日 幼馴染の西村謹一(浅草の菓子屋「龍昇亭」主人)来る
秋  書庫の増築を決める
9月 『燃ゆる頬・美しい村』
                 新潮社
1953
(昭和28)
―  春先より少しずつ喀血が続く
2月25日 斉藤茂吉死去(満70歳)
4月10日 信越放送が浅間山麓の米軍演習地問題について意見を聞きに来る
       (多恵子夫人が堀の耳に入れないようにしていたがこれでばれてしまった)
4月14日 神西清の手紙より、松竹「菜穂子」プロデューサーの詐欺(資金持ち逃げ)が判明
4月  神西清、京都の人文書院から堀辰雄作品集を出す計画を進める
4月  『野村英夫詩集』(角川書店・7月刊行)のため跋文を書いたがこれが堀の絶筆となる 
5月19日 葛巻義敏の手紙より、「菜穂子」映画化に東宝が名乗り出る(原節子主演で)
5月20日 佐々木基一が見舞に来る
5月下旬 加藤道夫、病床の堀と少し話して帰京
5月26日 病状悪化
       追分の空が急に暗くなり雷が鳴る 浅間の小砂利を巻き上げて突風が吹く
5月27日 神西清、6月1日に訪問する旨を手紙に書き送る(※この手紙を堀は読めず)
       矢野綾子の妹・良子が休暇を取って泊まりに来る
       午後11時頃、常習となっていた睡眠薬を飲んで就寝
       就寝前、多恵子夫人に「グッド・バイ」といつになく冗談めかして言う
       夫人、「グッド・バイじゃなくてグウテン・ナハト(ナイト)でしょう」と笑い隣室に退がる
       2時間後、大喀血はじまる

5月28日 午前1時40分 多恵子夫人に看取られて永眠(満48歳)

5月30日 追分の自宅で仮葬
6月3日 東京芝の増上寺で告別式執行 葬儀委員長川端康成
     多恵子夫人、追分に戻る
     室生犀星、「多恵子が淋しいだろうから」と朝子をついて行かせる
      朝子はそのまま一週間ほど追分に滞在
8月  『堀辰雄全集』(新潮社)出版が決まる (全7巻・29年3月~32年5月刊行)
     編集委員は川端康成神西清丸岡明中村真一郎福永武彦ら5名
     油屋に集まり泊まり込みで作業にあたる
9月3日 折口信夫死去(満66歳)
12月22日 加藤道夫死去(満35歳)
 
1955
(昭和30)
 ― 5月28日 堀辰雄三回忌 埋骨式を行い多磨霊園の墓地に納骨される  
1960
(昭和35)
秋の彼岸 多恵子夫人の要望により、上條家の墓から父上條松吉、母志気の御骨を分骨
       辰雄の墓に一緒に納められる
 
2010
(平成22)
―  4月16日 多恵子夫人死去(満96歳) 多磨霊園にて堀辰雄とともに眠る  


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